十九話 ……学年最弱
小学生になる頃からだ。
俺はいわゆる【いじめられっ子】というやつだった。
比較的裕福な家に生まれ、生真面目かつ厳格な両親に育てられた。
そのせいだろうか。
生来の性分なのかもしれない。
とにかく、物心つく頃から引っ込み思案だった。
「人の嫌がることはするな。いじめっ子になるくらいなら、いじめられっ子でいろ」
そんな感じで教育されたせいなのかもしれない。
小学校に入るなり早速、学年のガキ大将的な奴が率いるグループに目をつけられた。
ことあるごとに暴力を振るわれ、学校に通うこと自体がすぐにいやになった。
いじめられるから学校に行きたくないと両親に訴えた。
しかし、親父の答えは、
「いじめられるのはお前が弱いからだ。お前が強ければいじめられることは無い。強くなるように武道を習いなさい」
そんなことを言われる始末だ。
親父はいわゆる、団塊の世代である。
今では流行らない、敗戦直後の日本独特の根性論で教育を受けてきた世代だ。
それゆえ、根拠のない価値観を平気で押し付けて来る。
だが、人間としてはクソがつくほど真面目で、決して悪い人間ではない。
俺と妹の子供二人が金銭的・家庭環境的に不自由な思いをさせられたことは、一度としてなかった。
他所と比べても十分大切に思われていたとも思う。
しかし、それはそれ。
親父によって無理矢理、俺は隣町にある古流拳法の道場に放り込まれることになった。
息子がいじめに遭っている → 道場で鍛えられて強くなる → 息子はいじめられなくなる → 問題解決。
実に明快な昭和初期的思考である。
これだけ見れば、何だかクソ親のように見えるかもしれない。
だが、これでも俺は両親に尊敬と感謝の思いを持っている。
頭が硬くて、こんな考え方でしか愛情表現ができないだけなのだ。
俺と妹の兄妹は間違いなく両親に愛されていた。
両親は純粋に俺たちが幸せな人生を送れるようにと、両親なりの愛情を持って接してくれてはいたのだ。
結局、いじめられるのは俺の弱い人間性にこそあったのだ。
後に、俺自身は自分でそう結論付けていた。
まぁ、現実は道場に通うことになってもいじめは変わらず続いていた。
俺自身は抵抗らしい抵抗もせず、ただ耐えるだけの存在だったからな。
そんな俺に対してそのうち、いつものいじめっ子グループだけでなく、他のクラスメイト達もいじめに加担するようになってきた。
気がついたらスクールカーストの最底辺である。
両親に訴えても、状況は理解してもらえないとあきらめるようにもなった。
小学二年生になってクラスが変わった。
これでいじめが終息するのかと思いきや、いじめる人間が変わっただけだった。
再び俺はすぐにクラスの最底辺となった。
すでに学年最弱キャラの烙印が根付いていたのだ。
どのクラスであっても、俺の立ち位置は揺るがないものになっていた。
学年最弱。
こんな俺でも一つだけ、他より優れていたものがあったようだ。
それは耐えること。
オタクらしくゲーム的に言えば苦痛耐性ともいえる。
気がつけば、いじめは小学生レベルにしては中々なものになってきていた。
今更、その内容はあえてどうこう言わないが……。
だが、俺は折れることなく学校に通い続けていた。
今にして思えばかなりの苦痛耐性だ。
さらに両親ともにクソ真面目なおかげで、俺にも幾らかの真面目DNAが息づいていたらしい。
物事に真面目に取り組むことも意外と適性があった。
真面目に学校の授業を受けること自体は、さしたる苦痛ではなかった。
授業中は嫌がらせも限定的になっていたし……。
学校の宿題もやってこないなんてことは無かった。
(いじめでノートを隠され、提出できなくて廊下に立たされたことはたまにあったが……)
結果、学校の成績はトップでこそなかったが、学校内では常に上位に食い込んでいた。
(学年最弱が成績上位というのが、また火に油を注ぎ、嫌がらせを加速させるのだが……)
道場での拳法の練習も、心折れることなく真面目に取り組んでいた。
身体的にはキツイ練習だし、好きで始めた武術ではないので決して楽しくはない。
だが苦痛とは思わなかった。
その結果、身体的・技術的にはかなり上達していたようだった。
小学六年になる頃には帯の色が黒くなった。
道場では、もはや小学生向けの年少部では俺の相手がつとまる者がいなくなる。
そのため小学生でありながら、中高生向けの青年部で練習しなければならなくなっていた。
そうなると当然、小学校最高学年になった頃には学校の体力測定や体育の個人競技ではトップクラスだ。
長距離走・短距離走などの個人競技は他の追随を許さないレベルであった記憶がある。
事実上、校内トップだったのかもしれない。
「大山相手に本気出すなんてだっせーしよ」
「並んで走るとかキモイじゃん」
「手を抜いてもらっているの気付かないでさ」
「必死で走るあたりが大山らしいよな」
小学校で身体能力だけが取り柄のいじめっ子グループの面々は、よくこの手のセリフを浴びせてくるようになっていた。
連中は校内でも恐れられるようになっており、すでに半グレ予備軍の風格すら出てきている。
やつらに目をつけられているせいもあって、俺の立ち位置は相変わらず学年最弱である。
基本引っ込み思案でコミュ障だったからな。
この時期の俺は、いじめられる以外に学年の誰とも接点を持てない存在だった。
小学校生活もあと半年ぐらいになったのある日の事。
家で見ていたテレビの国営放送で、いじめに関する番組が流れていた。
もう四十年以上前の事なので、はっきりと覚えていない。
だが、番組の最後で
「いじめに遭っているあなた……。 一人で抱え込まないで、学校の先生に助けを求めましょう。先生は必ず、あなたに救いの手を差し伸べてくれます」
みたいな締めくくりになっていたような気がする。
子供ながらに
「あぁ、これって先生に助けてもらえばよかったんだ……」
この番組の言葉に希望を見てしまったのだ。
数日後、いつもの様に廊下でいじめっ子グループに絡まれていた。
そこへ、クラス担任の稲川先生が通りかかった。
この時、俺は例の番組の事を思い出し、稲川先生に助けを求めた。
「稲川先生、助けてください! 俺、みんなから暴力を振るわれているんです!」
行動を起こす以上、声が届かなかったり、聞き間違いをされたりするわけにはいかない。
俺は腹の底から、確実に声が通るように稲川先生に訴えた。
この声が届かないのであれば、稲川先生は聴覚に何らかの障害があると言わざるを得ないレベルのものだ。
声が聞こえた稲川先生はこちらに近づいてくる。
これで、俺は助かると思ってしまった。
こちらに歩いてくる稲川先生の表情を見るまでの、ほんの数秒間だけ……。
先生の顔は明らかに嫌そうな顔をしていた。
散々社会の荒波に揉まれて大人の社会を見てきた今なら、この表情の意味も理解できる。
おそらくは……。
(ちっ、遂にこいつ、いじめの事を教師に訴えてきやがった。全く、勘弁してくれよ! クラスからいじめ認定出したら、俺の指導が問題にされるだろうが!)
まぁ、そんなところだろう。
面倒くさそうに、稲川先生はいじめっ子グループに声をかける。
「おーい、お前ら! 大山が嫌がってるだろー。暴力はいかんぞー」
稲川先生に声を掛けられ、いじめループの連中はへらへらと返答する。
「やだなぁ、先生、暴力じゃないっすよ。スキンシップですよ」
「そうか、暴力にならんように程々にな」
それだけ言うと、稲川先生は立ち去って行った。
一応、注意はした。
問題になった時、その事実だけは作っておこう、という思惑だろう。
稲川先生の背中に向けて、いじめっ子リーダーの江名は薄ら笑いを浮かべて返答する。
「はーい! じゃあ、今日は一人十発ずつやるつもりだったけどぉ。九発にしときまーす!」
「おい、一人九発だってよ!」
「九発までな! ギャハハハ」
全くお話にならない。
結局、この学校という組織には、いじめという問題から児童を救う意思はなかったのだ。
これも、今ならわかる。
いじめられっ子一人を封殺する方が、いじめっ子十数人を糾弾するより問題が大きくなるリスクが少ないと判断したわけだ。
「お宅のお子さんが、悪質ないじめに加担しています。ご両親からも注意と指導をお願いします」
こんな話をいじめっ子達、全ての家庭に持ち込むと、
「うちの子は優しい良い子なんだ! そんなことをするはずがない!」
「いじめられる方にも問題がある! うちの子だけが悪いのか!」
などとのたまわってくる所謂、モンペは一定確率で必ず出てくる。
単純に確率論の問題だ。
学校も組織である以上、リスクの低い方を選択するに決まっている。
表面化してしまったいじめ問題の対応には、膨大な時間と労力と人手がかかる。
教師だって暇ではない。
いじめが表面化しても、日常の業務は必ず回さなければいけない。
学校が表面化したいじめを問題として取り上げることにもまた、勇気が必要なのだ。
四十年以上前の古い日本の教育現場ともなれば、それは尚更だ。
俺のSOSに対して教師の判断は早く、すぐさま梯子を蹴り飛ばしたのだ。
だが、俺はすでに行動を起こしてしまった。
いじめっ子グループからすれば、俺は先生にチクった認定だ。
明日からのいじめは、さらにエスカレートするだろう。
もはや後には引けない……。
ここに来て俺はようやく、自分自身の力で精一杯抗う踏ん切りがついた。
……ただし、小学生の稚拙な思考故の正しくない方の選択肢で……。
なろうサーバーにアクセス集中しているらしく、サイトが中々投稿を受け付けてくれませんでした。
ちょっと遅くなってすいませんでした。
二十話の投下は1時間後の22:30ぐらいを見込んでいます。
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