2話 インモラルな共犯者
笑知花は輝の耳元に口を近づけた。吐息がかかることで妙な緊張感が生まれる。
「肩の力⋯⋯抜いて⋯⋯」
普段の幼げな表情が嘘に思えるほどに妖艶な笑みを浮べながら、胸に手を置き、囁かける。
道徳診断の前はいつもこうして輝と笑知花は二人になる。この妙な習慣は小学生の頃のある出来事がきっかけではじまった。
小学四年生になりたての春頃。輝は道徳診断でインモラルの判定を受けた。道徳疾患と診断されたのだ。
「輝くん⋯⋯。道徳疾患なんだって⋯⋯」
「このままだとあいつ精神病院行き確定だろ?」
「何しでかすか分かったもんじゃないわ⋯⋯なるべくあの子に近づいちゃだめよ」
友達はもちろん、周囲の大人達も輝を恐れるようになった。当然、輝のもとから人々は離れていき、孤立することとなる。インモラルの略称である「インモ」という不名誉なあだ名をつけられ、いじめも受けるようになった。
次に道徳診断に落ちたら精神病送りになる。輝は施設で拘束されたまま一生を終えるという覚悟はしていた。
おそらく自分はこの社会の腫瘍なのだろう。きっと生まれてきてはいけなかったのだ。だからこのままいなくなってしまうのが正解なんだ。
そう思いながら、再診の日を迎え、おそらく最後になるであろう登校をしていた時、笑知花が突然話しかけてきた。
「あんた、道徳疾患なんだって?」
「そうだよ。今日できっと会えるのも最後だから⋯⋯元気でね⋯⋯」
「最後になんてさせないわ。ついてきなさい」
「えっ?」
「いいから!施設なんて行きたくないでしょ!?」
笑知花は輝の手を引いて人気のない路地裏に連れて行った。
「じゃあ目を瞑って!」
「どうするつもり?」
「私の能力であなたに暗示をかけるわ。暴力的な想像を嫌悪できるように」
「え、でも⋯⋯そんなことしたら笑知花の道徳性が落ちるよ。能力の悪用じゃないか」
「大丈夫!私もあんたと同じだから」
「同じ?どういうこと?」
「私もインモラル、道徳疾患なの」
「笑知花が道徳疾患?そんなわけないでしょ。モラル判定はいつもSじゃないか」
「私は自分にも暗示をかけて道徳診断をやり過ごしてるのよ。もともと私は道徳疾患だからこうやって能力を悪用するのにも何の抵抗もないわ。あんたと同じでね」
笑知花は高レベルの精神操作を使える能力者だ。幼い頃から天才と言われ、規格外の力を持っていた。小学生の能力者が道徳診断を誤魔化すほどの精神操作を扱えるなんて希だろう。それだけならまだしも、高レベルの能力を持った子供が、さらに能力を反社会的な用途に用いることができる道徳疾患者であることなどまずない。
おそらく笑知花の存在はこの社会の監視から漏れる例外中の例外といえただろう。そしてその例外は今もなお、こうして監視から逃れつづけている。
この頃から道徳診断の前は笑知花の精神操作で暗示をかけてもらうようになった。
彼女の精神操作は対象者に囁かけることで発動する。対象者に近ければ近いほど、暗示も強力になる。
だから暗示をかける時はこうして互いに密着している。小さい頃は問題なかったが、今はお互い年頃なのでやたらと緊張するようになっていた。
「ほら⋯⋯肩の力抜いてって言ったでしょ。大丈夫だから⋯⋯私に委ねて」
おまけにこの時だけは集中しているのか、笑知花はやたらと大人びた振る舞いをする。緊張するなとは言うものの、ドキドキせずにはいられない。
「う、うん⋯⋯」
笑知花は輝の頰に手を置いて耳元で囁きはじめた。
「輝⋯⋯あなたの中には怪物がいるわ⋯⋯あなたはあなたの中の怪物を忌避するの⋯⋯あなたはリヴァイアサンよ⋯⋯」
頭の中に笑知花が入ってくるのが分かる。まるでこの地球にははじめから重力なんてなかったんじゃないかと思えるくらいに、フワフワとした感覚に陥る。そしてだんだん意識が薄れていく⋯⋯。
「ほら!起きなさい。そろそろあんたの診断よ!」
笑知花は耳をつまんで輝を起こした。どうやら眠ってしまっていたようだ。
「あれ、終わったの?」
「そうよ、暗示は完璧ね。さすが私だわ」
「てか、膝枕?」
「この辺埃っぽかったし、床に寝かすわけにはいかないでしょ。特別大サービスね。今度からちゃんと枕かなんか持参しなさいよ」
「ありがとう。自分の暗示は済んだの?」
「うん、もう終わらせたわ」
「そっか、よかった」
「感謝しないよねー私がいなかったらインモラルなあんたは今頃、精神病院よ」
「道徳診断を誤魔化すなんて、笑知花も十分インモラルだろ?」
「アハハッ!そうね、当然よ。私たちは不道徳な共犯者なんだから」
笑知花は誇らしげに答えた。不道徳を指摘して笑い合うというのは奇妙な関係である。しかし、お互い、社会のはみ出しもの同士でこうやって身を寄せ合あえるのは実は幸せなことであったりもするのだ。
笑知花はなんやかんやでいつも輝のそばにいた。道徳疾患の診断を受けて孤立した時も、彼女だけは普通に接し、今もこうして助けてくれる。
だからこそ、いつか笑知花の身に何かがあった時は必ず助けにいきたい。そして、願わくば、この心地よい共犯関係がずっと続いて欲しい。輝はそう思っていた。
しかし、この時の二人に、今日の道徳診断が惨劇となることをまだ知るよしもない。