八・犯罪、ダメ、ゼッタイ
今回も流血(風?)表現注意です。
轟音を響かせて落ちて来た梁の下敷きにならずに済んだが、飛び散った破片が足を掠めたらしく、微かにチリリと痛みが走った。
「鈴華!無事か?!」
くれない様の声で我に返ったが、咄嗟に声が出なかった。しかし安心してもらう為に取りあえず頷いてみせた。
『紅』
「分かっておる」
今まで自分がいたところを振り返ると、何やら天井からベチャリと粘り気のある黒っぽい液体が垂れて来た。それと同時に、何か生臭いような、泥のような悪臭が鼻を突いて、思わず袖で顔を覆った。
ドチャリ
更に大きな粘着質な物体が天井から降りて来た。いや、殆ど落ちて来たような勢いだった。三メートルはありそうな、赤黒い塊。その強烈な匂いと見た目で、一瞬臓物を彷彿とさせて思わず吐き気を催した。
『ミコ…いタ…』
それが口を開いてこちらを見たことで、やっとその形が毛の長い猿、昨夜私を攫おうとした妖の巨大なものだと言うことに気付いた。しかし、昨夜の妖はここまで濡れたような様子はなかった。しかもこちらににじり寄って来るような素振りは見せているが、思うように身動きが取れないようで、ただその場でもがいているだけだった。
『猩々か』
「こいつが先日襲撃して来たヤツか?」
「似て、ますけど…」
大きさも毛並みの色も全く違っていた。似ているとすれば猿のような妖というところだけだ。
『ミこ、連レテ…イ、もウト、…ス…る』
「今、妹って…?」
ズルリと妖が腕を伸ばして来た瞬間、真横で何かが光った。視線をやると、八房さんが指の間に幾つもの小刀を挟んでいた。そしてその小刀を猩々と呼んだ妖に向かって投げ付けた。その小刀はまるで操っているかのように様々な軌道を描いて巨体に吸い込まれて行った。
「目を閉じろ」
言うよりも早く、くれない様の手が私の視界を覆うように被さって来た。が、サイズの小さなくれない様の手では完全に遮ることは出来ず、咄嗟に目を瞑ったものの視界の端に閃光が走った。
『グアアアァァァァ!』
閃光と爆発音と、猩々の悲鳴が同時だった。一拍遅れて熱と風が頬を打つ。
目の前からくれない様の手が外れると、向う側で体中から煙を上げながら蹲っている猩々の姿が見えた。よくは見えなかったが、あの投げた小刀が爆発でもしたようだった。赤黒い躯の所々が黒く焦げて、そこから真っ赤な体液が溢れ出ていた。
『助け、ル……ちな…』
『ちっ、しぶとい』
「待って!」
八房さんは舌打ちをすると、再び手に小刀を出現させた。私は咄嗟にその手首を掴んでいた。一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに眉間に皺を寄せて不機嫌な顔になる。
『容易く吾に触れるな、小娘』
「八房!」
瞬間的に殺気を向けられたのと、その間にくれない様が割り込んだのはほぼ同時だった。掴んだ手が電気でも走ったように弾かれたが、それ以上のことは起こらなかった。きっとくれない様が止めてくれたからだろう。ほんの一瞬のことだったのに、心臓が全力疾走したかの様に激しく脈打ち、全身から冷や汗がどっと吹き出す。
「鈴華の身に傷一つ付けてみよ!お主との契約を切るぞ!」
『紅……』
あ、今すごくしょんぼりした。
くれない様に遮られて表情は見えないけど、一気にテンションがダダ下がりしてる気配が伝わって来る。仲良しとかそう言うレベルじゃなく、溺愛レベルなんじゃ…いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
「あ、あの!あの妖、元人間とか、そういうことだったりしますか?!」
苦し気な息の下から、何度も「妹」「助ける」と言う単語が聞こえた。妖の生態とか家族構成とかは分からないけど、あの猩々という妖からはどこか人の気配がする。
「…アレには、人の魂が混じっておる。いや…人の強い思い、と言うべきか」
そう言ったくれない様の表情は、とても苦々しいものだった。
妖に襲われて喰われてしまった者の中に、ごく稀に強い意志や思いを持ってして妖の本能を上書きする者がいるという。記憶や行動が引き継がれる訳ではないが、その人間が生前に望んでいたことを求める行動に出る場合があるというのだ。
「じゃああの妖に食べられた人が妹さんを助けたいと…?」
「そうじゃな。だが、もう長くは保つまい」
赤華寺には妖避けの強力な結界が仕掛けられていて、並の妖なら触れた途端に消滅してしまう。特にこの奥の間の地下に立ち入れる妖は最強と呼ばれる数体しかいない。ここまで入り込んだ猩々は元々かなり強い妖ではあるが、この内部に侵入出来る程ではない。その為ここに辿り着いた時点で殆ど動くことが出来ないくらいに傷付き、瀕死の状態だったのだ。本能を上書きされていなければ、そこまでの危険を冒してまで来るはずがなかった。喰われても尚、妹を助けたい一心だったのだろう。
「…どうにか、なりませんか」
「無理じゃ。彼奴はもう…」
「せめて、妹さんを助けることは」
「どうやってじゃ!詳細を聞き出せる理性なぞ残ってはおらぬのじゃぞ!」
『紅、少し静かに』
不意に八房さんが猩々を指し示した。私とくれない様が顔を向けると、猩々はズルズルと躯を持ち上げ、まるでこちらに向かって土下座をするようなポーズを取った。只の苦し紛れなのか、それともこちらに向かって懇願しているのか。私にはどちらとも付かなかったけれど、それを見たくれない様は小さく「まさか」と呟いた。
「私が…隠形の巫女が行けば妹さんは助かるの?」
『ミコ…交かン…イモウと、自由』
「どこに行けば?」
『コウカン…ジゆウ…』
詳しい話はこれ以上聞けそうになかったけれど、単語から何とか推測するしかない。
「妹さんが誘拐された、とかですかね?」
「いや…鈴華には詳しい話はしておらなんだが、サクラの勾引しが一枚噛んでおるのだと思う」
「サクラちゃんの?」
『じユウ…ちな』
突然、蹲っていた猩々が起き上がった。一瞬で八房さんがくれない様の前に立って臨戦態勢になる。小さな炎が体の周りに散っている。やっぱり狐だから狐火なんだろうか。
『グオオオオオォォォ』
猩々の雄叫びが空気を震わせた。上を向いた時に、その赤く光る目の端から血のような液体が流れ落ちたが、私にはそれが涙に見えた。
ほんの少し、猩々の体が縮んで見えたかと思ったら、一瞬にして高く飛び上がった。そして破壊して入って来た天井の穴から飛び出して行った。まさかそんな力がまだ残っていたとは思いもよらなかった。血のような体液をまき散らして、折れた梁の破片がパラパラと落ちて来る。
「追うぞ、八房!」
『しかし紅』
「黙れ!ここの結界が切られたのじゃ。厄介なのが押し寄せて来ぬとも限らん。どうせ行き先は錦乃屋じゃ。鈴華と共に帯刀らと合流せい」
『はい』
嫌そうな雰囲気を隠しもせず、八房さんは顔の片方だけに付けていた狐面をスルリと正面に被り直した。すると一瞬光って、目の前には灰色の毛並みを持った巨大な狐が出現していたのだった。大きさ的にはマイクロバスくらいだろうか。
「うわ…すごい…」
「惚けておらんでさっさと乗らぬか」
くれない様は慣れた様子で狐の首筋の辺りに跨がる。
「し…失礼します…」
ええと、ものすごく八房さんの視線が痛いのですが。そりゃ、くれない様以外の人は乗せたくないでしょうね!でもそのくれない様が乗れと仰ってるんで!
内心開き直って、私はくれない様の背中に張り付くように跨がった。着物で跨がるとちょっと見た目的にははしたないけど、ちょうど長い毛並みに覆われるので足が隠れる。それにしても良い手触りだ。そして尻尾が多いのですごくモサモサしてる。あの中央に埋まりたい…
「落とすなよ」
『承知』
その声と同時に、私たちを乗せた八房さんがフワリと飛び上がる。これはもうシートベルト無しのジェットコースターですよね!
ここで悲鳴を上げたり意識を途切れさせたら多分大変なことになると思い、私はとにかく奥歯を噛み締めて必至にくれない様にしがみついていたのだった。
☆★☆
「鈴華、少し話は聞けるか?」
「は、はい」
ある程度高度が定まると八房さんの移動も安定して来たので、どうにかくれない様の声が耳に入って来た。それでもくれない様の腰に回した手は弛められそうにない。結構苦しいのでは…と思ったのだけど、くれない様も「仕方のない奴じゃ」と苦笑まじりではあるけれど拒否はしないでいてくれた。
「あの猩々に喰われた者は、おそらく『裏江戸』にいた者じゃ。昨年、狒々との契約に失敗して死んだ女子がいたという報告を受けておる。そもそも裏に入るには妖との契約が必要じゃ。もう既に別の妖と契約していたのに、何故他の妖と契約することになったかは分からぬ」
基本的に妖との契約は一体だけという。妖に自らの陽の気を分け与えることで特殊な力を貸してもらえるのだとか。しかし、どんなに陽の気が多めでも、多数の妖に分け与えているうちに支障が出て来る。気のバランスを崩して、心も身体も壊してしまうそうだ。だから裏江戸では一人一体までと厳しく管理している。つばきさんは三体のかまいたちと契約しているように見えるが、実質は一体の妖が分かれているだけだとか。そして契約も、解除も、色々な手続きがあってそう簡単には行えない。
「もはやあの者にその理由は聞けぬがな。そして報告では狒々となっていたが、実際はもっと高位の妖だったようじゃ。……喰われるのも当然じゃな」
『紅も他人のことは言えんぞ』
「過ぎたことじゃ」
不意に口を挟んで来た八房さんに、くれない様はちょっと拗ねたように言い返した。
先程ちらりと聞いただけだけど、八房さんと契約を交わすには大変だったみたいだしね…今は全くそんな風には思えないんだけどなあ。
「その者には妹が居ての。隠形の巫女見習いだそうじゃ。来年には一人前の巫女としてお務めすることが決まっておった。ただ…その務める先というのが問題での…」
大江戸ではなく、遠く離れた所領を持つ松野藩の国許へ行くことが決まっていた。各地の都市部、特に首都である大江戸には綻びが出来やすく、妖の流入件数も多い。しかし地方でも全く起こらない訳ではないため、各藩に必ず一名以上はお抱えの隠形の巫女がいるように配置されていた。だが、大抵の場合は生まれ故郷の近くに配置されるように配慮がなされている。
「その中で、松野藩の嫡男がどこぞの高貴な姫君を輿入れさせるという話が持ち上がっておった。そしてその姫君と交流の深い巫女を共に連れて行く、とな」
「高貴な姫君?」
「ま、妾のことじゃな」
「え?そうだったんですか?」
「何をとぼけておるのじゃ。妾はこれでも出家した身ぞ。どこかに輿入れなどある筈もなかろう」
くれない様曰く、現在は兄である将軍様に御台所様はなく、後継者騒動が出て来るのも時間の問題らしい。幾つか秘密裏に縁談は進めているそうだけど…まあその辺はくれない様が言葉を濁したのでそれ以上の追求は止めとこう。
ただ、そうすると妹でもあるくれない様が産んだ子供が次代の将軍になる確率が非常に高くなる。夫の身分や血筋が高ければ尚のことだ。それを見越してさっさと出家したのだそうだけど、それでも諦めない者も多いとか。その中で松野藩が強引にくれない様を攫って、嫡男と既成事実を作ってしまおうと今回の誘拐を目論んだらしい。
「それで影武者であるサクラちゃんが攫われたんですね…」
「まず間違いないじゃろうな」
更に現松野藩当主には側室に隠形の巫女がいるそうで、どうもその験を担ぎたいのか、姫君の輿入れと同時に巫女を側室に迎える計画も立てているそうだ。
「え…見習いってまだ十にもなってませんよね…」
それはいくらなんでもエグい。それなりの年齢になるのを待つにしたって、十歳かそこらでおまけみたいに嫁がされるのはひど過ぎる。
しかも、実家である錦乃屋もそれを承諾していて、松野藩と結託しているそうだ。
「妹を助けたい、自由にしたい、ってそういうことなのかな…」
「そうじゃな…」
下を見るのは怖いのでそっと片目だけで見るようにして確認すると、躯をやっと引きずるようにして猩々の巨体が移動していた。まるでナメクジでも這った跡のような赤黒い体液の筋が見えるのも痛々しい。
「だがの、お主も同情ばかりして良いのかの?その妹の身代わりにされるところだったのじゃぞ?」
「あ…それは全力でご遠慮します…」
いくら可哀想に思えても、それはダメだ。くれない様もそんな強引な輿入れもダメだし、間違ってサクラちゃんが怖い目に遭ったのもダメだし!責任者出て来い!
「安心せい。そうさせない為に帯刀らが動いておる。もうとっくにサクラも、その巫女見習いの娘も保護しておるだろうよ」
「はい。そうですね」
何気なくまた猩々に目をやると、何やら不自然な様子だった。ん?スピードが上がってる?
『紅、ヤツの様子がおかしい』
八房さんも気が付いたらしく、声の調子が固い。
「もうすぐ錦乃屋じゃが…何が起こっておる?」
くれない様が指し示す先、どこが目的地か分からない私でも判別が付いた。
上から見てもハッキリと分かる大きなお屋敷。そのお屋敷の一角から爆発するような火柱が上がったのだった。




