閑話・捕り物(二)
流血注意。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
サクラはぼんやりとそんなことを思いながら書物から目を離して、全く外の様子の分からない飾り窓に顔を向けた。この場所はどうやら地下室で、座敷の中は多少明るくしてくれているものの日の光はもう何日も見ていない。食事が運ばれて来るのと湯浴みの支度を整えてくれることで辛うじて大体の時間帯は分かるが、特にすることがないと時間の感覚がおかしくなって来る。
退屈を紛らわせるように書物や玩具は与えられていたが、何をしても気が滅入ってしまって集中出来ずにいた。
鈴華さんの「ぷりん」が食べたいな…
あの優しい味の甘味を初めて食べた時の感動を反芻する。匙の上で揺らめくように震え、ツルリと唇を撫でて口の中に入れた時の心地よさ。そして蜂蜜の甘さと舌の上だけでほぐれる柔らかさ。
頭の中で思い出しているだけで、ほんの少しだけ笑顔になる。サクラは帰ったら絶対に鈴華に「ぷりん」を作ってもらうのだと固く心に決めていた。
『サクラ』
上の方から小さな、聞き覚えのある声が聞こえて来た。その声のした方に顔を上げると、細長いふかふかした毛皮の生物が天井の梁を伝って入って来るところだった。その生物はつばきと契約しているかまいたちのうちの一体だった。三体で一組らしいこの妖は、三体ともそっくりだったが、傷の手当を得意とする一体だけは尻尾の先が僅かに白かった。入り込んで来たのはその固体だった。
『怪我、無イ』
「大丈夫」
鼬によく似たその生物は、たどたどしいながらも人の言葉を紡ぐ。クリッとした黒い瞳がサクラを見つめ、少しだけ首を傾げるように訊いて来た。その愛らしい仕草に、思わず笑みが零れる。
不意に、部屋の隅に落ちていた影から何か黒い塊のようなモノが飛び出して来た。
「ひっ…!」
一瞬だったが、それは赤い目をした子供くらいの大きさの毛の長い猿のようだった。それが天井にいるかまいたちに向かって一直線に飛びかかって行ったのだった。そのまま行けば、かまいたちの細い体など簡単に切り裂けたであろう。が、次の瞬間、それの足と頭が同時に空中で離れ、勢いを失ってそのまま壁に激突した。
『サクラ』
それが飛びかかった瞬間、サクラは思わず目を閉じて頭を抱えてその場に蹲っていた。その為幸いにも、足と頭が切り離された光景は目に入れずに済んだ。ただ重そうな音が響き、座敷が揺れるような衝撃だけが伝わって来た。
『サクラ。コッチ、コッチ』
フワリと顔に柔らかい感触がして顔を上げると、先程まで天井にいた一体が肩の上に乗っていた。そして落ち着かせるように頬に柔らかな毛並みを押し付けて来た。
「う…」
顔を上げると、壁一面に血が飛び散ったような跡が広がっていた。真下の畳にも、壁から流れ落ちただけではない量の血溜まりがたった今流されたようにテラテラと光っている。しかし、その血を流したであろう実体は何処にもない。
妖がこちらで実体化する為の体には、こちらの生物と同じような赤い体液が流れていると言われている。そして体を保てなくなる程の傷を負うと、魂と言うべき中身は元の世界に帰り、体は砂のように崩れて消滅してしまう。だが不思議なことに血に似た体液だけはそのまま残るらしい。
ただ成分が違うのか、見た目はそっくりなものの血液特有の金臭さや生臭さはない。
これが血液であったら、その臭気が地下の座敷では堪え難くなる程に充満していただろう。辛うじて妖に対しての知識があったためにサクラはどうにか耐えられた。なるべく視界に入れないように出入口の方に目を向けると、他の二体が戸を切り刻んで脱出口を作ってくれていた。
「あり…がとう、ございます…」
このかまいたちが来てくれたと言うことは、つばき達が救出に来てくれたと言うことである。サクラは震える足を押さえ込むようにして、彼らの案内に付いて数日振りにこの地下の座敷を出たのだった。
☆★☆
「だぁれ?」
つばきと止水が慎重に屋根裏に上ったのだが、辿り着くまでに鍵で閉じられた扉もなく、あっさりと到達してしまって拍子抜けしていた。その場所は屋根裏にしては明るくこぎれいで、埃っぽさも一切ない。そして少ないながらも質の良い調度品まで揃っていた。そしてその部屋の中央には布団が敷かれ、白い着物の小さな女の子が座っていた。
「こんにちは。あなたはここのおうちの子…かしら?」
あまりにものどかな光景に一瞬面食らったが、つばきは目の前の女の子を怯えさせないようにゆっくりと声を掛けた。
「そうよ。姉さまはいないの?いつも新しい人は姉さまが連れて来てくれるのに…」
あまり警戒心のない様子で首を傾げる。
「そう…」
つばきと止水は素早く視線を交わす。夕顔には屋根裏に隠形の巫女見習いがいると言われていた。確かに年の頃は七、八歳くらいでちょうど見習いの年頃に見えるが、巫女の最大の特徴でもある黒髪黒目ではなく、白い髪に白い目をしていた。
戸惑っていると、天井から毛の長い猿のような黒い妖が二体降りて来て、彼女を守るように間に立った。
「どうしたの?」
彼女は自分の近くに降りて来たそれを怖がる風でもなく、慣れたように抱きつく。それらはこちらを警戒はしているようだったが、あからさまな敵意は向けて来てはいない。彼女の護衛として様子を伺っているようだった。
「この子、目が…」
「ああ」
顔の向きや手探りで妖に抱きついた様子から、二人はすぐに彼女の目が見えてないことに気付いた。今のところそこまで警戒はされていないようだが、この妖を下手に刺激をして戦闘に入ってしまうと厄介なのは容易に予想がつく。どうにかして穏便に彼女を連れ出す方法はないものかと思案を巡らす。
「ねえ、ここから外に行ってみない?」
「お外?」
彼女はキョトンとした不思議そうな顔で首を傾げた。肩口で切り揃えられた白い髪がサラサラと揺れる。まるで絹糸のような光沢に、よく手入れされているのが見て取れる。抜けるような白い肌も相まって、そこだけ墨絵のように色が抜け落ち現実感がひどく薄い。ただ、こちらを警戒して赤い目を向けている妖の目だけがそこにある色だった。
「行きたい…けど姉さまが、連れて行ってくれるって、約束…」
「そう…」
狒々との契約に失敗して死んだと報告されている女がいて、その妹が隠形の巫女見習いという話があった。おそらくその姉が生きていて、サクラの誘拐と鈴華の誘拐未遂に関わっていると見ていた。
「見たところ安全そうだし、ここはそっとしておいた方がいいんじゃねえか?」
「あの子の姉とやらがこちらに協力的ならいいんだけど…ウチに来たあの女が姉だったとしたら、戻って来たら厄介なことになるわよ」
「その前にこっちで保護しとかないとマズイか…こりゃ旦那に知らせておいた方がいいな」
一旦外にいる夕顔を通じて帯刀の判断を仰ごうと、止水が肩に貼り付いている伝令用の妖に触れようとした瞬間、
「ぎゃあああぁぁぁっ!!」
彼女の額に赤い筋が走ったかと思った瞬間、そこから血が吹き出し、痛みのあまり絶叫を上げたのだった。
☆★☆
「サクラ!」
「夕顔さん!」
離れの中からサクラが走り出て来て、一直線に夕顔に飛びつくように縋り付いた。少し足が縺れるようだったが、転ぶ前に夕顔がしっかりと抱きとめる。
「大丈夫?」
「はい…ありがとうございます」
少し顔色は悪かったが、見たところ怪我や酷い目には遭わされていないようで安堵する。サクラは気付いてないようだが、妖の血がほんの少し顔に飛んでいたので、夕顔は懐から手拭いを出してそれをそっと拭った。
「無事で何よりだ」
「帯刀様。ありがとうございます」
「後は巫女見習いの保護だが…」
そう言って帯刀が離れに目を向けた刹那、微かではあったが誰かの絶叫が聞こえて来た。
「どうした?止水?!」
夕顔が慌てて止水に貼り付けた伝令用の妖と同じものを手に声を掛ける。返答はなかったが、それを通して何か暴れているような物音が聞こえて来る。同時に索敵を展開し、中の気配を探る。
「三体、屋根裏にて交戦中!」
夕顔が声を出すと同時に、サクラに付いていたかまいたち三体が再び離れの中に飛び込んで行った。
「あれ…?これ、おかしいな。…待て!殺すな、止水!」
伝令用の妖に向かって夕顔が叫ぶのと、もう一度先程よりハッキリとした絶叫が聞こえて来たのはほぼ同時だった。




