四・走馬灯は簡単には回らない
確実に火が消えていたから、深夜を回っていたと思う。
行灯替わりに使う蛍石がぼんやりと枕元で光っている。蓄光照明みたいな性質を持った石で、昼間のうちに火の中に入れておくと、入れておいたのと同じ時間だけ光ったり熱を発したりする便利道具だ。深夜以降に種火屋で貰った火がなくても困らないように、殆どの家で使われている。
何となくざわついた気配を感じて、私は目を覚ました。布団に横たわったまま目だけを開けて、そのままじっと耳を澄ませる。
「?…何の音?」
本当に微かだけど、遠くでザワザワする声のようなものが聞こえる。普段ならこの程度の音では目を覚ますことはないけれど、やはりサクラちゃんが行方不明のままという事態で神経が昂っているのかもしれない。
もしかしたらサクラちゃんのことで進展があったのだろうか。
もう少し様子を伺えないかと起き上がって、庭に面している障子に近付いてみた。何かボソボソした声のようなものは聞こえて来るけれど、誰の声か、その内容までは分からなかった。
声が小さかったことで、私はその人物が遠くにいるものだと思い込んでいた。なので、そっと障子を開けたすぐ外に、まさか妖がいるだなんて思いもしなかったのだ。
『みぃつケた』
庭は暗くてよく見えない筈なのに、そこに居た人ならざるものだけは妙に鮮明に見えた。大きさは子供くらいだが、毛むくじゃらでギラギラと赤く光る目をした猿のようなモノだった。しゃくれたような口元からは不揃いな歯らしきものが覗いていて、そのせいで口が閉じられないらしくそこから涎が胸の辺りまで糸を引いていた。そんな得体の知れないモノが少なくとも五体。障子を開けた瞬間一斉にこちらに顔を向けた。
「ひっ…!」
反射的に障子を閉めようとしたが、向こうの動きは速かった。完全に閉まりきる前に、隙間から手が差し込まれる。その手は人間のようにも見えたが、爪が歯と同じく長さが不揃いで、間に土が入り込んで真っ黒く汚れていた。それを見た瞬間、生理的嫌悪に鳥肌が立った。
『ミつけた』
『こコだ』
低い男の声で、それは口々に喋っていた。それぞれの声に特徴はない。
私は尻餅をつくように後ろに倒れ込むと、少しでも障子から離れようとした。不思議なことに鍵など掛けられる筈もない障子はそれ以上開かず、外にいるモノがこじ開けようとしもそれ以上開かなかった。
もしかしてこちらから開かなければ入って来れない…?
ガリガリと奴らの手が何本も差入れられて周辺を引っ掻いているが、その手が届かない所まで下がってしまえば手出しは出来なさそうだ。護衛が来ないから建物内から出ないように、と言われていたのはこういう事態に備えてのことだったのだろう。
このまま建物内を移動して、誰かに助けを求めるべきだろうか。庭とは反対側の襖に手をかけて、一瞬思い留まる。もし、この部屋だけに結界的なものが張られているとしたら、別の場所を開け放っても大丈夫なのだろうか。建物全体なら大丈夫かもしれないけれど、その結界的なものを感知する能力は私にはない。奴らが入ろうともがいているのが見えるのは精神衛生上非常によろしくはないけれど、このまま下手に動かずに助けが来るのを待った方がいいんだろうか。
怖い。
襖に手をかけたまではいいけれど、その先へ体が動かない。
初めてこの世界へ来た時、牛車のような中に入れられ、周りを魑魅魍魎が囲んでいた光景が蘇る。あの時も怖くて怖くて、ただ大人しく小さくなっていることしか出来なかった。
暑くもないのにこめかみに汗が伝うのを感じた。こめかみだけじゃない。寝間着の首の辺りもしっとりしていて肌に張り付く。それがひどく冷たく感じて寒気を覚えた。
「どけ」
不意にハッキリとした声が割り込んで来た。少し甲高い…女性の声?
そう認識して障子の方を振り返った瞬間、外から誰かが障子を蹴破った。
庭に面した障子が完全に外れた廊下に、黒装束に身を包んで顔は見えなかったが、明らかに人間、それも小柄な女性が立っていた。
「ひっ!!」
遮るものがなくなった瞬間、猿のようなモノが躍り上がるように部屋に侵入して来る。私は逃げようと思ったが…思っただけで身動き一つ取れずにそれらに担ぎ上げられた。何とかそこから逃れようと裾が捲れ上がるのも構わず暴れようとしたが、奴らが自分の体毛を毟り取って紐状にしたかと思うとあっという間に拘束されてしまった。ううう、気持ち悪い。
「急げ」
このモノ達の主なのだろうか。黒装束の女性が促すと、私を肩に担ぎ上げて外に飛び出す。
ぎゃー!!!担いでいるのの背が低いから、力を抜くと顔が地面に擦れる!!
私は慌てて首をグッと持ち上げた。何故だ。何故攫われる方が気を遣わねばならぬのだ。解せぬ。
彼らはそんなこともお構いなしに、庭の木をスルスルと上ってそのまま塀の外へと飛び出そうとした。
『ふじ』
不意に、止水さんの声が響いた。
いや違う。正確には、あの時聞いた響きと同じ声が、私の頭の中に直接響いて来た。
次の瞬間、まるでその場に間欠泉でも湧いたかのように真下の地面から水柱が立ち、私ごと飲み込んだのだった。
☆★☆
『ぎゃああああぁぁぁぁ…』
いきなり流れの早い川に落とされたも同然の状況で、思わず上げた悲鳴も途中で水の中でくぐもった声にしかならなかった。何これ何これ!!!
体は空中高く放り投げられている状態なのだけど、水の中にいる。イミガワカラナイ。
私だけを飲み込んだような水流は、拘束していたモノ達を弾き飛ばすようにして流れて行くのが見えた。フリーダムなウォータースライダーと言うか、洗濯物体験装置と言うか。とにかくその水流に飲まれて高く持ち上げられ、今度は捩じれるように斜め下に向かって流され始めた。
落ちる落ちる落ちるーー!!
水流の中でもみくちゃにされながら、グングン近付いて来る地面を確認して私は確実に死を意識した。屋根よりも高い位置から、真っ逆さまではないとは言え結構な勢いである。これは死ぬ。確実に死ぬ。
死ぬ間際は走馬灯が回るって言うけど、全然回らないんだなあ…と思いつつ目を閉じたら、突然グッと体が持ち上げられ、急に重力を感じた。
「大丈夫か?!」
今度は耳元で止水さんの声がする。
ああ…あの魑魅魍魎に囲まれてた時と同じだなあ…。ん?走馬灯ってそんなに直近から回されるものなの?
「鈴華!鈴華!!」
「ふぁい」
手荒く揺さぶられて、どうにか目を開けた。顔や前髪から滴り落ちる水が目に入って、何度も瞬きをしてようやく視界がハッキリする。見ると、頭から何からずぶ濡れになって水を滴らせている止水さんが安堵した表情で私を見下ろしていた。この顔の近さは…ひょっとしてまたお姫様抱っこというやつをされているのでは…?
ようやく自分の状況に気付いて、急に気恥ずかしくなる。いや、それどころじゃないのは分かってるけど。さっきまで怒濤のように色々なことがあり過ぎて感情がついて来ないので、取りあえず目の前の出来事に優先順位が振られた感じだ。
「止水!さっさと降りて来なさい!」
「へーい。…じゃ、行くぞ」
「え?」
下の方からつばきさんの声が聞こえたので周囲を見渡すと、私は止水さんに抱きかかえられたまま屋根の上にいた。そのことを自覚した瞬間、止水さんが私を抱えたままそこから飛び降りたのだった。
そりゃあ、さっきの水に上空に運ばれた時に比べればまだ低いですよ。でも、屋根の上から飛び降りるなんてのも通常は経験しないことんですよ。
多分、本当に色々なことが重なり過ぎていて、その高さからの飛び降りで許容範囲を超えたのだろう。
止水さんが地面に到達した記憶もないまま、私の意識はいとも簡単にプツリと途切れてしまったのだった。




