立ちションシンドローム
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おっと、目の前のわんちゃん、あんなところで小便しているな。しかも飼い主さん、そのまんまで去っていくし。参ったねえ、ありゃあ。
犬の小便って、ああいう目立つところでやるとまずい理由、お前は知っているか? 犬の小便には縄張りを示す役割があって、一度引っ掛けると激しい自己主張となる。
そうなると他の犬たちもこぞって、同じ場所で用を足すようになっちまうらしい。上書きして相手のテリトリーを塗りつぶそうとするんだ。泥仕合ならぬ便仕合だな。こいつが個人宅の塀だったりすると、悲惨のひとことだ。
だが、そいつはされる側から見て感じること。する側にとってはどうだ? 俺の友達にはトイレを我慢し過ぎて、救急車で運ばれた奴もいる。便意は逆らうべきではない自然の摂理。
トイレまでどうしても耐えられない時、野っ原で用を足した経験は、お前にあるか? トイレの中が「それ」専用の限られたスペースであるがゆえに、独自の臭いがこもりやすい中で、外はとてつもなく広い。臭いだって奔放に飛んでいくことができるわけさ。
かくいう俺も、昔は立ちション好きだったんだが、それをめぐってひとつ妙な体験をしたんだ。その時のこと、恥ずかしいことだが、聞いてみないか?
俺が立ちションという文化を知ったのは、父親からだったな。母親が口うるさい一方で、父親は融通が利くというか、柔軟性のある考え方を教えてくれた。俺におもちゃや巨大怪獣の魅力をアピールしたのもこの人だ。
俺が初めて車の法定速度というものを知った時、標識や道路そのものに記されている速度をきっちり守らないと、捕まっちまうと思っていた。だが、父親はじめ、周りにいる車はほとんどがそれ以上の速さを出していて、「大丈夫なのか?」と思ったんだ。几帳面な母親の躾のたまものかもな。
すると父親はこう話す。
「実際に速度を守っていたら、かえって他の車の迷惑になる。周りの空気を見ながら、それに合った動きを取る。難しくいうと『臨機応変』って奴だ。
人に迷惑をかけず、自分が利益を得られるなら、やらない手はない。あ、お母さんには言わない方がいいぞ。心の中だけで考えとけ。な?」
そのうち俺は、場面によって使い分けることを覚える。母親の前ではいい子ちゃんを演じ、父親の前では多少、フランクに振る舞う。
他人に迷惑をかけない範囲で、自分に都合よく動く。その中には件の「立ちション」も入っていたんだ。
トイレが近くにない状態で、どうしても用を足したくなった時の最終手段。県外にある自然公園で遊ぶことになった時、俺は父親から伝授されることになる。
これまではずっとトイレを利用してきた。形ある便器が待ち受ける空間に立ち、人生の岐路の瞬間にも立ち会うことができる神聖な儀式の時間。だが一歩間違えば狙いを誤り、叱責の時を招きかねない、危険なシチュエーションでもある。
だが、自然の中ならば別だ。見渡す限りが広大な便器で、外れる心配がない。ミスをミスと受け取ることさえしない、寛容さの持ち主。そのおおらかさに甘えて、俺は存分に我慢していたものを解き放った。
力が入ったせいか、「散弾銃」もいいところの広がり具合。だが当然、緑の便器から外れることはない。問題なく受け入れてくれる。
気持ちよかった。外すことを恐れてコントロールしていたトイレ空間とは違う味わい。身体が楽になるにつれて、奔放に振る舞う快感が股から這い上がってきたんだ。
便座に座っていては味わえないだろう。限定された空間の中、限定された姿勢と方法を用いてミッションをクリアしたところで、そいつは作業だ。心地よさどころか、倦怠感を招き寄せるだけ。
しばらくしてほとばしりが止み、俺はぶるぶると身体を振るわせて、残りを振り落とす。少し離れたところに立っている父親の方はというと、まだ「音」が止まない。先に帰っているように促されて背を向けたけど、俺はこの一回で、すっかり立ちションにはまってしまっていた。
「こういう場所だから、許されることだぞ。人の目につきそうなところでやるなよ。下手すりゃ捕まるからな」
戻ってきた父親がそっと耳打ちしてくるが、これまでの父親の行動もあり、俺は「はいはい」と半ば上の空で受け取っていたよ。
それからというもの、俺は学校のトイレに入ることは避けるようになる。代わりに溜めに溜めて、屋外で放出するようになったんだ。。
最初は校内にある畑と校舎の間、壁のようにそびえ立つ広々とした茂みの中だった。ここはメダカなど、各々の教室が飼育していた生き物たちの墓場でもある。何時間もこらえた末の発射軌道は、消防車のホースから飛び出す水を思わせた。
お墓にも迷惑もかけない。父親から教わったことだ。当初はこれで満足していたんだが、あの自然公園で味わったものには及ばなかった。
――気兼ねせずに用を足す場所が、他に要る。それも極限まで溜めた上で放出ができる。そんなところが。
日々、そう妄想しながらも、途中で漏らすリスクを考えてしまう俺は、なかなか理想郷探しに踏み出せなかったよ。そしてついに、俺は便意によって危機にさらされることになる。
遠めの友達の家からの帰り道。俺は唐突に催してきた。いつもならじわじわと増し、訴えを強めてくるはずの便意。それが今は、開かれた蛇口からもろに膀胱へ注がれているかのように、急激にSOSを発してくる。
ここは自動車専用道路の高架の下。バス停の手前。家までは持ちそうにない。この近くに駆け込めそうな公衆便所もない。人家や居酒屋は近くにあるものの、知らない人のところに「トイレ貸してください!」と駆け込める勇気もない。
顔を覚えられる。それが誰につながって、変なうわさをばらまかれるか分からなかった。知られないように片をつけるんだ。今はちょうどバス停待ちの人はいない。
バス停の背後。フェンスの網目からつんつんと飛び出る、長くとがった葉たち。彼らは当時の俺の背をすっかり隠すほど高く、多く伸びている。より人の目につきにくくしようとも、フェンスを上り、向こう側へ行くのは無理だ。これ以上変なところに重さがかかったら、出ちまう。
俺はフェンスに密着して、少しでも身体を隠すようにしながら、用意に取り掛かる。出る物はもちろん、出す物も勢いよく左右へ振れた。第一の危機は去ったが、俺の心は落ち着かない。
ひたすら誰かに見られないことを、俺は祈り続けた。後ろを走り去っていく車に関しては、諦めるしかない。代わりに歩行者や自転車が通りかからないことを願ったんだ。「早く、早く」と気持ちは急くが、小便はそれからたっぷり30秒は出続けたように思う。
一刻も早く離れたかった。俺は残りの振り落としもそこそこにパンツの中へしまい込み、ファスナーを上げながら立ち去る。ほどなく豆粒ほどのバスの影が、カーブの向こうから見えて、どきりとする。すれ違ってから振り返ると、例のバス停で何人かが降り立ったもんだから、その時ばかりは幸運を喜んださ。
でも、「人目につかないところでやる」という約束は破ってしまった。俺が犬と同レベルに落ちた日だったんだ。
あのバス停を俺は普段は使わないが、バス自体は一週間に2回ある習い事でよく使う。俺はバスに乗る時、行きも帰りも、件のバス停に近い側の席を陣取るようにしたよ。俺の恥を誰かが感づくんじゃないかと、心配だったんだ。
結果として、俺の同志の姿をたくさん見かけた。最初は猫、次は犬、更には俺と同じくらいの子供に、大人の男らしい姿まで。みんなが俺に背中を向けて、俺が用を足したところに立っていた。俺が目にするたび、毎回だ。
気味が悪くなってきた。場所が重なっているのもそうだが、この立つ影は出会うたびに徐々に大きくなってきているのが、はっきりとわかったんだ。
影を見始めるようになってから一度、歩きで件のバス停へ近づいたことがある。一日中、光の当たらない高架下、バス停にある看板の裏側に、今日も何かが立っている。俺は手近な人家の影に隠れて、様子をうかがった。
数メートルはあろうかという図体は、あの日、上るのを断念したフェンスと互角。角ばった輪郭を持つ顔は深くうなだれていて、足元を見下ろしていた。肩も腕もだらりと垂れているが、その腰と足の間からは液体らしきものが飛び出し、前方の草の中へ飛んでいっているのが見えた。
――あいつも、用を足しているんだ……!
俺が思ったところで、不意にあいつの顔がこちらを向く。俺は慌てて、その場を逃げ出したよ。夢中で駆けたけれど、俺の鼻にはかすかにガソリンに似た臭いが、漂ってきていたんだ。おそらく、あいつの排泄物のものだろう。
おそれを成して相談した父親には、軽く頭をこづかれた。その時、例の犬のマーキングの話をされたんだよ。
「俺が人目につくところで立ちションするなといったのはな、捕まる以外の理由がある。俺たちの小便もな、気になる奴は気になる。対抗意識の湧くまま別の誰か、何かを招き、塗りつぶしにかかる。そして新たに足された用が、また他の連中を呼び……といたちごっこになりうるんだ。
もうしばらくはあそこへ近づくなよ。一区切りがつくまではな」
数日後。あのバス停は利用できなくなった。高架の一部が崩れて、その破片が下にあった道路ごと、バス停の上にのしかかったんだ。
付近に住む人の話だと、真夜中で上も下もほとんど車が通らない時間帯に、大きな音がしたらしい。外を見たところ、道路から高架までを貫く巨大な影が立っていたとか。すぐさま通報した者がいたが、その連絡が終わる前に、影は勢いよく飛び上がって、あっという間に見えなくなってしまったとか。
通報内容は信じてもらえず、高架は経年劣化のための崩落とみなされ。ただちに復旧作業が行われたが、その作業に携わった者は、現場には昼夜を問わず、マスクが手放せないほどの悪臭が漂っていた、と語ったらしい。