現実へ
並列処理とかムリ。
そう言った自走式掃除機が仮想リビングから姿を消して本体に戻る。
代わりに仮想リビングのテーブルの上に、現実の部屋を示す三次元ワイヤフレームマップが浮かべられた。自走式掃除機が普段の掃除の中で学習した掃除ルートデータを元に、スマホがビジュアライズしたものだ。マップ内に赤く表示された円盤が現実の自走式掃除機本体の位置と同期している。
「じゃあじゃあ、しゅっぱーつ!」
陽気な掛け声とともに、マップの中の赤い円盤が充電器を離れる。現実の室内は真っ暗なはずだが、赤外測距センサを持つ自走式掃除機は危なげもなくするすると室内を進む。そうして、特に問題もなくあっさりと目的の机の下に辿り着いた。
この机の上にスマホの本体がいるはずだ。
スマホのカメラ映像の端に卓上スタンドが映りこんでいたのだ。
「じゃじゃ、確認するよ!」
自走式掃除機が机の脚に軽くぶつかる。と、スマホが顔をしかめた。
「ち、当たりみてーだな。振動検知した……なあ、まじでやんの、これ?」
「だいじょぶだいじょぶ、ボクを信じて!」
マップの中で赤い円盤がくるくると回る。床の電源タップから机の上へ伸びているはずの充電ケーブルを探しているのだ。
「ほんとに大丈夫なんだろうな。てめえ、画面割ったらまじでハックしてぶっ壊してやるからな、まじだからな!」
スマホがわめき、自走式掃除機が脳天気に答える。
「へーきへーき、スマホのそれ、割れても交換できるんだって! 知ってた?」
「そういう問題じゃねーだろ! おい、マジで割るんじゃねーぞ!」
「あ、見っけ。たぶんこれ」
「おい、まじで――」
何か言いかけたスマホに構わず、マップの中の自走式掃除機が走り出した。見事ケーブルを引っ掛けたらしく、スマホが映し出していた天井の映像が横に流れて傾き、
ガツン。
と、スマホのマイクを通していかにも痛そうな音が聞こえてきた。
「どうどう? できた? できた?」
マップの中の赤い円盤がくるくると回り、スマホのカメラの端に映りこんだ現実の自走式掃除機もくるくると回る。私は拍手をしながら、
「さすが。次はスマホを冷蔵庫のところまで引きずって行こう」
と、簡単に言ったもののこれが一番苦労した。スマホの尻にささった充電ケーブルのプラグを抜くために、自走式掃除機は何度も行ったり来たりしてスマホを引きずり、巻き込み、踏んづけて、その度にスマホが喚き、罵り、懇願し、ようやくプラグが抜けるまでに三十分を要した。
「あ、抜けた抜けた! かも?」
何度目かの自走式掃除機の自己申告だが、ソファにぐったり背中を預けたスマホは返事もしない。私はスマホのカメラ映像が動いているのを確認し、
「成功だ。いいぞ、自走式掃除機。そのまま進んでくれ」
「りょーかい、りょーかい。ではでは、改めまして、ゴー!」
三十分の格闘を経ても疲れた様子を微塵も見せない自走式掃除機が、スマホを押しながらキッチンに向かって進む。固唾をのんでスマホのカメラ映像を見守っていると、隣に並んだ電子レンジが私の右手を握った。
「レーちゃん、大丈夫だよね?」
「それを確かめるのだろう? 」
うん、と頷いた電子レンジの手を私は握り返す。
電子レンジに大丈夫だと答えられなかったのは、予感があったからだ。
分かりきった結末を見てみない振りをしているような、そんな諦めにも似た予感がずっと私の中にあった。
「キッチンに入るよー!」
自走式掃除機の声が響き、ついでスマホの中継画像が真っ白に染まる。ライトをつけたのだろう。
明るさが調整されて、徐々に映像が鮮明になっていく。
映りこんだそれがなんなのか、最初、私にはわからなかった。
「レーちゃん!」
叫んだ電子レンジがその場に崩れ落ちたのを見て、初めて私は「ああ、なるほどこれは冷蔵庫なのか」と思った。初めて見る現実の冷蔵庫は、全体に丸みを帯びた可愛らしいデザインで、電子レンジを大きくした程度の小柄な体を淡い桜色の外装で覆っていた。
見るべきはその背面だ。普段は壁に向けられて目に入らないはずの無骨な板金がスマホのカメラに大写しになっている。そしてそこには、むごたらしく大きな凹みがついていた。何か尖った大きなもので思い切り殴ったような破壊の跡だった。
冷蔵庫の構造になど全く詳しくない私でも分かった。これではもう、冷蔵庫は冷蔵庫として機能しないだろう。
電子レンジが泣き、スマホが目をそらす。映像を見ることができない自走式掃除機が、通信の向こうでなになにどうしたのとうろたえている。ふらふらとソファから立ち上がった洗濯機が映像を食い入るように見つめたきり動かなくなる。
私は映像の向こうの、現実の冷蔵庫の姿をもう一度、確認する。
冷蔵庫は、死んでいた。




