僕とサビ猫の夏休み
おばあちゃんの家には猫がいる。
みんなでおばあちゃんの家に行くと、尻尾しか見かけないけど、おばあちゃんの家には猫がいる。
「隠れてるのさ。」
猫はどこにいるのか聞くと、おばあちゃんは笑う。人間が嫌いだから、皆がいるとどこかに隠れるんだと。隠れるのが上手なんだよ、おばあちゃんは、ふふと笑う。
おばあちゃんは、猫を『さび』と呼んでいた。錆猫だから、さび。僕もさびと呼ぶようになったけど、さびは全然近寄ってこない。
もらったお菓子を分けてあげても、臭いを嗅ぐ事もなく、尻尾を高くあげてお尻を向けて行く。さびの尻尾は、長くて先だけが、くいと曲がっている。傘の持ち手みたいに、どこかに引っかける事ができそうだ。そんな尻尾をくいくいと小さく振って、いつも歩いている。
おばあちゃんの家は、田舎だ。おばあちゃんの家の周りには、家が沢山あるけど、ちょっと歩くと田んぼと山と川が流れている。道は広いけど、車もあんまり通っていないから、道の真ん中を歩いていても、危なく無い。
僕は、夏休みになると皆で帰省して、一人だけ残って過ごす。お母さんは、塾に行かせたかったみたいだけど、お父さんは、こんな暮らしが憧れだったと言って、僕の好きなようにさせてくれた。
おばあちゃんの家は、古くて変な臭いもして、見たことのない虫も出るけど、とっても面白くて楽しくて、だから、僕は、夏休みにおばあちゃんの家に行くのが好きだった。
「とし君、おばあちゃん、畑に行くけど、一緒に行くかい?」
ある日、集めたカブトムシにスイカを食べさせていると、庭からおばあちゃんが声をかけてきた。
「ううん、今、カブトムシの世話をしてるから。」
「じゃあ、ちょっと出てくるから。もし表から誰か来ても出なくていいからね。」
「隣りのおばちゃんは、庭から来るよ。」
「それは、いいよ。でも、今日は表から誰も来る予定は無いからね。もし、来ても出なくてもいいからね。」
僕は、虫籠にいれた木屑を入れ替えると、畳に寝ころんでプラスチックの板に顔を近づける。目の前のカブトムシは、今年捕まえた中で一番大きい。栗みたいな艶々の茶色にうっすらと細かい産毛が生えている。大きな角は先がデカくて力が強い。きっとここらで一番のオスだ。中にいれた木の枝に登るとゆっくりと口をペロペロとして手先を舐めている。その近くを小さいメスがうろうろと歩いている。中には、数匹のカブトムシがいるけど、きっとこの二匹が夫婦になるんだと思う。幼虫を、どうにかしてお母さんに見つからないように持って帰れないかを考えていたら、いつの間にか眠ってしまった。
おばあちゃんの家にエアコンはあるけど、おばあちゃんは苦手だといってあまり使わない。風が吹かなくて、暑さが酷いとしぶしぶ使う。だけど、おばあちゃんも涼しいのは本当は嫌いじゃないから、文句をいいながらもエアコンをかけると居間から出ない。さびも、毛だらけだから暑さに弱いのだろう。エアコンをつけると、どこからともなく出てきて、居間のタンスの上にのる。そこが一番涼しいみたいだ。
今日は風が吹いていたから、家の中の窓は開けっ放しで、僕は縁側のある和室で横たわってカブトムシの世話をしていた。そこは、風通しもよくて日陰で家の中では涼しい場所だ。
外は、よく晴れていた。昨日も今日も青空で、雲も殆ど無い。電気をつけてない和室から庭をみると、青くて明るくて、逆に僕のいる部屋は暗かった。
風が気持ち良くてうたた寝していた僕は、誰かの声で目が覚めた。外は夕方なのか、薄暗くなっていた。
「こんにちわ。」
表の方の玄関に誰かが来たようだ。僕は、眠気でぼんやりとしながら、応対に出ようと立ち上がろうとして、おばあちゃんの言いつけを思い出した。
(そうだ、今日はお客さんは来ないから、もし誰かが来ても出なくていいて言われたんだ。)
僕は、もう一度横になると目を瞑った。とっても眠かったのだ。
「こんにちわ。」
まだ誰かがいるようだ。早く諦めて帰ればいいのに。僕は、そのまま無視して眠る事にした。
さっきまで何か夢をみていたような気がするけど、どんな夢だったのか思い出せない。夢の途中で起こされたから、眠くて仕方無いのに、ぼんやりとするだけで眠れない。
うとうとする頭に、忘れたように声が届く。
「こんにちわ。」
誰だろう?しつこいな。
聞いたことの無い声だ。女の人の声みたいだ、でも近所の人じゃ無い。近所のおばちゃん達はもっと、年をとった声がする。そしてがらがらと少し低くて、そして明るい。
「こんにちわ。」
びっくりした。別の声が聞こえてきたのだ。
近所のおばちゃんみたいな声が、玄関で呼んでいる。出た方がいいのかな。でも、さっきの人はどこにいったんだろう。
知らない人みたいだし、眠いし、聞こえないふりをしよう。
「こんにちわ。」
それは、隣りのおばさんの声だった。
「こんにちわ、開けて下さい。」
本当に隣りのおばちゃんなのかな。知っている人の声だけど、おばちゃんなら、生け垣の向こうから直接声をかけてくるはずだ。
なんか変だ。おかしい。
僕がどうしようかと悩んでいる間にも、声は一定の間隔をおいて聞こえてくる。だけど、段々とその間隔は短くなってきているようだ。
じれてきている。一向に返事が無いというのに、留守だと思わないんだろうか。声は普通なのに、やっている事は変だ。
僕は、気持ち悪さを感じて絶対に出るもんかと、体を丸くして寝るのに集中する事にした。
「どんっ!」
僕は、ぎゅうと閉じていた目を開いた。今、玄関を叩かれた?この家には古いけど、ちゃんと呼び出しベルがついている。なのに、叩いた?
怖い
さっきまでは、ただ気持ち悪いだけだったけど、それは怖さに変わった。
先程までの声に変わって、玄関の扉がどんどんと叩かれる。一定の間隔を置いて響く鈍い音が、空気をびりびりと振るわせて、僕の体にまで伝わってくる。
どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!
僕は、怖くて怖くて、どうしようも無くて、それで玄関に出てみようかと思った。絶対にやめた方がいいと思うのに、その音を聞くと体がせき立てられているような、追いつめられているような気持ちになる。
玄関を開けないといけない。応対に出ないといけない。おばあちゃんは、必要無いっていっていたのに、誰かが来ても出る必要は無いって言っていたのに。
僕は畳から起きあがろうとして、それに気付いた。
いつから居たのだろう。部屋の角に、さびが居た。障子の影でじっとこちらを見ていた。
「さび…」
さびは、あの先の曲がった尻尾をゆっくりと降って返事をした。さびが、じっと僕を見ている。今まで、こんなにさびと見つめ合った事があっただろうか?ふいと顔を背けて、いつも特徴のある尻尾ばかり見ていた気がする。
さびの金色の瞳がきらりとひかる。それをみると、押さえていた不安や恐怖がどばっと出てきた。涙が次々にせり上がってくる。
「さび、どうしよう。」
さびは、何も言わない。そっと僕の傍に来ると、ごわごさとした毛を僕の足にすり付けてきた。初めてさびから近づいてきたので、おもわず涙が止まった。
「さび、慰めてくれるの?」さびは、何もいわないが、あの先の曲がった尻尾が僕の足を引っかける。まるで、行くなというように。
その間も、ずっと音は鳴り止まない。玄関の扉が壊れるんじゃないかと思うような、音。何度も何度もこの家自身が揺れているようなそんな大きな音が繰り返し響いてくる。
僕は、動く事もできず、たださびを抱きしめるようにして、うずくまった。怖いけど、さびが居るからその怖さは半分になった気がした。さびが僕の気持ちを半分もらってくれたから、僕はどうにか耐える事ができた。
外はすっかりと暗くなっていた。家の中も、更に暗くて、電気をつける事もできずに、僕はただ、じっとさびを抱きしめて、目をつむって、小さくなっていた。
どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どん!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!どんっ!・・・・・
「とし君、ただいま、とし君。」
いつの間にか、音は消えていて、そしておばあちゃんが僕を覗きこんでいた。
「おばあちゃん…」
「ただいま、とし君。今、おやつを出すから、起きなさい。」
起きあがって、おばあちゃんの方を見ると、おばあちゃんは大きなスイカを下げていた。外はまだ明るくて、青い空が見えている。
「おかえりなさい。」
「誰か、来たかい?」
「…ううん。」
「そうかね、お留守番ありがとう。」
明るい庭に、さびがいた。
さびが、こっちを見て「にゃあ」と鳴いた。
□□□
こんな事もあった。
家を出るさびの後を追いかけた時だ。さびはよく居なくなる。時々、道を歩いているのを見かける事があったので、僕は、さびがいつもどこにいっているのか気になっていた。
おばあちゃんの家の古い自転車を持ち出すと、僕は、特徴のある先の曲がった尻尾を追いかけた。
さびは道を悠々と歩くが、猫の足は僕よりも早いのか、一向に追いつけない。どうにか尻尾を見失なわないようにするのが精一杯だった。自転車は、きいきいと音が出て、今にもチェーンが外れそうで、さびが後ろを振り返らないか、冷や冷やした。
もう8月で、セミがうるさくて、今日も青い空に太陽が照っているから日差しがちくちくと痛い。慌ててでてきたから、帽子を被り忘れた。おばあちゃんにも、何も言わずに出てきたし、周囲は田んぼと見知らない家が並んでいる。ちゃんとおばあちゃんの家に戻れるだろうか。
僕は、段々と不安になってきた。
さびは、僕の不安なんてお構いなしに、道を進んでは、気ままに角を曲がっていく。
何度目かの角を曲がった時に、とうとう先の曲がった尻尾を見失ってしまった。周囲は知らない家が並んでいる。家と家の間をすり抜けたんだろうか、塀の間を見るが、尻尾の先は見あたらない。僕は、諦めて帰る事にした。
だけど、どこから来たのかわからなくなった。細い道が二本交差している。交差点は狭くて車が一台どうにか通れるような幅だった。周りは古い家が並んでいる。塀は木でできていて、下に少し隙間はあるから、もしかして潜って家の中に入っていったのかもしれない。
僕は、今度は、塀の下を覗きこんでみた。木が並んで植えてある。木の陰で暗くなった塀の奥できらりと何かが光った気がした。
途端に、背中が冷たくなる。僕は、勢いよく立ち上がった。日差しは、変わらず燦々と照っている。だけど、体が冷えて、冷たい汗が流れる。
今のは何だった?
何か居た?
あんな所に?
猫?
でも、猫の目じゃなかった。じゃあ、何だったんだ?
僕は、傍においてあった自転車に飛び乗ると、その場を離れた。
どきどきどきどき…
全身は心臓になったみたいだ。まだ冷たい汗が流れている。僕は、見知らぬ道を何度も曲がった。手当たり次第、右に左に右に、また左に回って、少しでも遠くに行くように、ここから離れるように。
何度目かの角を曲がって、疲れた僕は、ようやく自転車を止めた。自転車を木の塀に立てかけようとして、ぎくりとした。
その木の塀には見覚えがあった。さっきも見かけたやつだ。造りはしっかりしているけど、随分と古い。おばあちゃんの家の玄関よりも古い木、丁度、サドルの高さにキズがある処まで一緒だ。
僕は、ゆっくりと視線を下に下ろした。
そこには目があった。
塀の下から、何かが僕を見ていた。黒い膜のようなもので、人の頭のような形で、そこから目だけがぎょろりと覗いている。
おかしい、変だ。
だって、塀の下は猫がどうにか潜れる位の高さしか無い。人の頭が出て、こちらを覗くようなそんな高さは無い。それに、
どうして、目しか見えないんだ?
僕は、それと目があった途端に体が動かなくなって、目が離せなくなった。どうしてかわからない。見えているのに、それがどんな目なのかわからない。ただ、怖い、
怖い、怖い、怖い、怖い怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い…
頭の中が『怖い』で埋め尽くされていく。どうにかして、ここから逃げないと行けないのに、ただ怖くて、動けなくて、誰かに助けを求める声も出なくて、僕は、いつまでもその目を見続けていた。
どの位、見つけあっていたのか、ほんの一瞬だったのか、五分は経っていたのか、わからない。
でも、ほんの一瞬、どこかで猫の鳴き声がした気がした。
その瞬間、固まっていた僕の体が動いた。そして、こちらを覗いていた頭も動いた。塀の下から、こちら側に出てこようとしている。僕は、固まっていた足をどうにか動かして、その怖いものから視線を反らすと、自転車をそのままに走り出した。
交差点を曲がる余裕も無くて、真っ直ぐ道を走る。後ろから、怖いものが追ってくるのがわかる。僕よりも足が遅いのだろう、でも、僕を見つめる二つの目を背中に感じる。じっとりと氷のような暗くて冷たい視線。
どうして、こんなに走っているのに、誰にも会えないんだろう。どうして、車の一台も見えないんだろう。ここはどこなんだろう。もうおばあちゃんの家には帰れないんのかな。
いつのまにか、僕は泣いていた。いつまで走っても木の塀が続いていて、同じ風景が続いている。足が疲れた、もしかして、振り切れているんじゃないないのか、僅かな希望で後ろを振り返ってみようかなと思い出すが、視線はいつまでも張り付いていて、それさえもできない。僕は、涙を流して顔をぐちゃぐちゃにしながら、走り続けた。
にゃー
目の前を猫が横切った。
その尻尾は、見覚えのある先の曲がった尻尾で、一瞬で路地へと消えた。僕は、吸い込まれるように、その尻尾の曲がった方の交差点を曲がる。目の前の交差点で、また尻尾の先が見えた。僕は、その尻尾を追いかけるように同じ方向に曲がる。それを何度繰り返したのか、気付いたら見覚えるのある商店街に出ていた。
おばあちゃんの家から少しだけ離れた商店街、八百屋さんやお魚屋さん、お肉屋さんに、お薬屋さん、みんな知っている。そして、商店街を買い物している人たちがいた。
僕は、ほっとして、おもわず声を出して泣いてしまった。わんわんと、大声で、泣き出してしまった。
通りがかった近所の人が、僕をおばあちゃんの家まで送ってくれた。恥ずかしくて、でもおばあちゃんの顔を見たら、なんでか止まっていた涙がまた出てきてしまって、おばあちゃんのスカートを握りしめて、また泣いてしまった。
気付いたら、自分の布団で寝てしまっていた。いつも使っている和室だ。豆電球が小さく揺れていて、扇風機が回っている。遠くで、猫の鳴き声がした。おばあちゃんが誰かと離している声もする。お母さんに今日の事を電話しているのかもしれない。僕は、布団を顔までかけて目を閉じた。
恥ずかしい。
遠くの方で、猫の声とおばあちゃんの声が続いていた。
□□□
あれからも、何度か、おばあちゃんの家には遊びにいった。お母さんは、迷子になって泣いた事は知らなかったから、怒られる事はなかった。
あれからも、さびは、お母さん達が来ると姿を隠して、僕だけになると、少しだけ姿を見せてくれた。おばあちゃんは、僕が高校生の時に亡くなって、おばあちゃんの家は、もう売られて、今は介護施設になっているそうだ。
時々、目の前を先の曲がった尻尾が横切る気がする。僕は、どこかで、まださびが元気でいるような気がして、こんな暑い日は、思わず猫を捜してしまう。