第72話:太陽観察①
「……そうですか」
昼休みの屋上で、アリスは少し残念そうにVRゴーグルを受け取った。晴子さんの分も僕が持ってきてるから、彼女は来ていない。そっちの方が彼女にとって好都合だと思ったから、僕が預かって来た。
「……まぁ、3年前に開発した試供品ですし、構いませんわ」
「……3年前?」
「ええ。これはもう、ただのゲーム機でしかありません。仮想世界を体感できる……とは言っても、流石に視覚と聴覚だけでは、ね。指の動きを感知できるハンドホールというものも作ったのですが、やはりそれだけではダメだったようでして」
「……。3年前、か……」
つまり、あの教本も3年前のもので、今では改訂されているのだろう。3年前の時点で、あの内容。一体、理想郷創造委員会はいつからこんな世界を考えていたのか……。
「今は、ライトノベルに出てくるようなVRMMOを参考に、人間が仮想空間に没入できる装置を製作中です。本当にゲーム感覚でできますから、素晴らしいですね」
「……電脳空間に、人間が行けると?」
「人間の脳は、近代化が進むにつれ解明されて来ましたわ。1TB程度しか記憶域を持たないことなんて、最近じゃ良く知られています」
「……それは誰かの計算上だろう?」
「まぁしかし、変わっても10倍程度でしょうがね。ともかく、米国の優秀な脳医学者もチームに加わっていますし、多分なんとかなりますよ」
「……適当だな」
僕がそう呟くと、彼女はクスクスと笑った。
まぁ僕達は専門家じゃないし、投げやりになるのもわかる。
しかし考えてみれば、今はVirtual Realityというものが一般的になっていた。いつの間にやら発売され、あまり持て囃されなかったVRゴーグル、今ではVRでキャラを作ってキャラ同士を介したチャットもできる、とか。
仮想通貨は失敗に終わる気もするのに、VRは少しつずつ伸びて来ているようで……。
そう考えると、アリスの言う突拍子もない話も現実味を帯びてくる。VR、か……。
「……幸矢様。世界は躍動し続けております。技術は伸び続け、その対価として人類は誇りを失いました」
彼女は僕の頰に、ゆっくりと手を掛ける。慈しむような優しい手つきで、彼女の指先の柔らかさが、アリスも女性なのだなと今更ながらに思わせられた。
「プライドなんて何の役にも立たない――そんな事をのたまう輩が増え、自分の汚い部分を肯定している。ですが、貴方は違う。技術と誇りの双剣を持っている。だからこそ――」
――貴方は、人に仕えて終わる命じゃない。
アリスのその言葉は、何度か聞いたことのあるものだった。僕は晴子さんに仕える騎士、そう自分で思い込んでいては大成できない、って。
そんな風に思われるのは、僕を過大評価し過ぎなんだ。親戚の瑠璃奈が日本を改革すべく幼い頃から動いてたり、かつて死んだ兄さんも、僕より凄い人だった。数学の天才で、アメリカの大学からスカウトが来るほどに。僕はそう言う血族に生まれたけど、力は発揮できないのだろう。
過去の凄惨な事件が、未だに僕の心をかき乱している。
前を見て歩けと言われても、道はとうに見えなくなっていた。
晴子さんに照らされたから、その方向へ歩いてみようと思っただけ。
つまり――
「僕は、君が思うほどの力はないよ……。人を導くことも、世界を良くすることも……家族すら思うがままにできない僕には、荷が重過ぎる……」
「――貴方がそう思い込むのは勝手ですわぁ。精神と身体は意見を合致させないもの……フフフ、貴方の体に流れる血は、貴方の精神よりも大き過ぎたのね」
「煩いよ……ちっぽけな心で悪かったね……」
「フフ、それは申し訳ありません」
ちょっと揶揄ってみただけなのか、アリスは年相応に笑みを見せた。こういう茶目っ気が可愛いと言うかもしれないが話題が話題だけに笑えなかった。
しかし、キリがいい。下で椛も待ってるだろうし、戻りたい所だ。
「……じゃあ、僕は戻るから」
「あ、待ってくださいな」
「……?」
「もう1つだけ、お話をしてもよろしいでしょうか?」
「…………」
アリスの顔から笑みは消え、その真紅の眼光はまっすぐ僕を捉えている。まだ何かあるのだろうか?
「……何?」
「今の話の続きですわ。私が幸矢様に独り立ちしろというのは、血筋だけで考えて、神代晴子を信用できないからなのです」
「……それで?」
「貴方はご存知のはず。瑠璃奈様はいつか倒れる。その時、代わりとなる人材が必要なのです。それが――同じ"黒瀬の血"を引く貴方なら――可能だと思ったのですよ」
「…………」
瑠璃奈が倒れるというのは、死ぬと同義なのだろう。
その理由はオーバーワークか病気かわからないけれど、確かに倒れる事は代わりない。しかし、瑠璃奈の後を継ぐことなんて、今まで極普通の一般人として生きてきた僕なんかにできるわけがない。それは晴子さんも同じだろう。
僕達は瑠璃奈の弟子でもないし、後を継ぐことなんてできない。
「……妄言にしか聞こえないけどね。僕は瑠璃奈の世界をちっとも把握してないし、彼女の功績も知らない。僕を勧誘するのはやめなよ」
「……。そうですわね。"今"はまだ早いですし、また今度にしましょう」
「……そう」
何が早いのか知らないけど、今は解放してくれるらしい。僕はアリスを置いて、足早に校舎の中へ入って行った。
◇
その日の放課後、私は5組の教室に残る裾野快晴の様子を、屋上から潜水艦で使うような曲がるスコープをぶら下げて覗いていた。彼は仲のいいバカ共と大声でくっちゃべることで人生の時間を浪費していた。
彼を見ていることに、一体なんの意味があるのだろう。彼のような"人生は楽しむためにある"と言いそうな輩は動物と遜色がない、ただ生きて死ぬ命。
別に、それが駄目だとか、生きてても無駄だから早く死ねとは思わない。我々が普段、動物に向かって「なんのために生きてるの?」とか「早く死ねば?」と言わないのと同じ。
そんなことを言う方が、きっと狂ってる。
だからって動物がどうやって生きてるとかどうでもいいし、彼らの事も死ぬ程どうでもいい。
どうでもいいものを見続けることなんて億劫極まりなく、今すぐにでも帰りたいのが本音だった。
まぁ、人を惹きつける性格は認めるし、名前に"晴"が付くのは分かる。かと言ってそれだけでは為政者になるには力が足りないだろう。こんな事をしてる間にも瑠璃奈様は血反吐を吐いて頑張っていらっしゃるのに、何故こんな益体も無い事をしなくちゃいけないのか。
それを自分で解き明かしてこそ意味があるのだろうけど、私にはまるでわからない。
「……困りますわぁ」
スコープから目を離し、ため息を1つ吐く。外は相変わらずの寒さで、体力を消耗してまでこんな事をする意味もわからず、私はスコープを縮めて校舎の中に入って行った。
「……あら」
「む?」
それは運が良かったのか悪かったのか、3階の階段を降りる所で晴子さんと遭遇する。両手でダンボールを持ち、生徒会長の腕章をしている事から仕事中だと伺えた。
彼女は私に気付くと、笑顔で話し出す。
「これはこれは、アリスくんではないか。どうだい? 何か分かったかな?」
「いえまったく。貴女が何を仰りたいのか、皆目検討もつきませんわ」
「そうだろうと思ったよ。嫌なら辞めてもらって構わないし、キミの好きにするといい」
「……意地悪ですわ」
そんな言い方をされたら、辞めるわけにはいかない。それと同時に気付く。既に人心掌握が成されたのだと。
「……キワモノですわね、晴子さんは」
「えっ? 何がだい?」
「こっちの話ですわ。貴女と話しているとマインドコントロールされそうで怖いですし、幸矢様の所へ行くと致します」
「残念だが、幸矢くんはもう帰ったよ。椛くんと一緒にね」
「そうでしたの。貴女という女性が居るのに、幸矢様も罪な人ですね」
「ぶーーーーっ!!?」
ゴシャンッと重い何かが落ちる音がする。それは目の前で晴子さんがダンボールを落としたからで、中から分銅みたいなものが飛び出した。
……そんなに驚く事、言ったかしら?
「どうしたのですか、貴女ともあろうお方が」
「えっ……い、いや……なんでもないさ……ははは……」
「…………」
彼女の顔は真っ赤に染まり、片手で顔を隠しながら落ちた鉄の何かを拾う。……成る程、聞いてはいましたが、これが晴子さんの弱点ですか。瑠璃奈様が晴子さんに引け目を感じていたある一点、それ即ち――
恋心
為政者に恋慕など不要だから。
(百人の前では聖人君子でも、一人の前では恋に盲目な乙女なんて、笑えないにも程がありますわ……)
呆れ果てて思わずため息を吐く。せめてポーカーフェイスでもできればいいのに、この人は幸矢様の事になるとダメになるのだろう。成る程成る程……。
「本来なら今日も放課後に幸矢様の横を歩き、「ねぇ、私のことは好き?」とか尋ねたりして年頃相応の甘酸っぱい青春を謳歌したいでしょうに、大変ですわね」
「え……いや、私は……」
益々顔を赤くして、その場に座り込んでしまう晴子さん。普段堂々としている姿を見ているせいか、縮こまった姿はなんとも無様で見ていて気持ち悪かった。これで天才少女と謳われるのだから、世も末ね。
「……途端にヘタレになるなんて、犬も食いませんわ。しっかりなさい、聖人君子」
「しっかりしたいからそんな甘々しいことを言うでないよ……。カロリー摂取しすぎて糖尿病になる……」
「普段しょっぱい話しかしてないからそうなるんですわ。耐性をつけるために、少女漫画でも読んだらどうです?」
「……できるだけ前向きに検討することを善処するよ」
それって結局しないのでは――と思ったけど、聖人君子が少女漫画を読んでいる方が笑い話かと思った。
なんか急に全てがどうでもよくなってしまったけど、あの人も一応天才だし、私ももう少し裾野快晴の観察を続けるとしましょう。




