intermission-7:ベクトル
それは僕が晴子さんに呼び出されて、昔よく遊んだ公園の、おにぎりみたいな形の巨大な滑り台の上で、夜に星空を眺めながら語り合った時の話だ。都会に星がよく見える日なんて滅多になくて、晴子さんは少し興奮気味に僕を呼んだのだ。
滑り台の天辺に並んで座り、星空を眺める。確かに今日の空は綺麗で散りばめられた小さい光がその輪郭までよく見えた。三日月も彩度がよく色のある夜だった。
「……星々は散らばってるだろう?」
唐突に晴子さんが訪ねてくる。当たり前のことを聞かれると、返す答えは1つしかない。
「そうだね……」
「という事は距離があるわけだ。そして、あの星々は近くで見るとただの岩石であり、岩石らしい質量を持っている。重力がないから浮いてるけれど、外部から力を加えると、力を加えた方向に動き続ける」
晴子さんが長々と説明するそれは、考えればごく当たり前の話であり、一言で言うならば――
「ベクトルの話?」
「うむ。その通りさ」
当ててくれて嬉しかったのか、晴子さんがはにかむ。ゼロ距離でとびっきりの笑顔を向けられると、流石に恥ずかしくて顔を背けた。
そんな僕の気も知らず、晴子さんはお喋りスイッチが入ってるようで、次々と話し始める。
「ベクトルとは、力と方向を合わせたもの。ある物体が、ある方向に対して働く力……。矢印みたいなものだね」
「……今日の晴子さんは物理学者だね」
「ふふ、たまにはね」
もう距離はないのに、ぐいっと身を寄せてくる。なんのアピールだ。ああ、ベクトルか。
「幸矢くん、人間はベクトルで動くのだよ。質量とは人の意志。方向とは、善や悪、愛や憎悪といった、曖昧なもの……。人間は、愛を持つように育てられる。だから憎悪の方向に多少の力が働いても、人を殺すほどのベクトルにはならない。ベクトルは、加算できるからね」
「……矢印が多少マイナス方向に向いてても、大きなプラスがあればマイナスにはならないって事ね」
「むぅーっ、要約しなくていいよ。プラスとマイナスなんて、数学の世界じゃないか。憎悪がマイナスであるとは限らんよ」
膨れる晴子さんがまた体当たりをしてくる。確かに、憎しみがマイナスとは限らない。悪い人に何かされて憎むのは、場合によってはプラスになるだろう。
「それに、ただのベクトルとは違って、人間は相互作用がある。遠く離れた人間にすら影響を及ぼし、ベクトルの方向も、力も変わる。いい影響も悪い影響も受けるということさ」
「……まぁ、人間だしね。影響を受けるのは当然じゃないか……?」
「ああ。だから、ほら」
そう言って、晴子さんは途方もなく遠い星々を指差した。キラキラと輝く散り散りの星は、変わりなく瞬いている。
美しい夜空を指差しながら、晴子さんは言った。
「数多のベクトルを、同じ方向に向けることができたなら――私はそれだけで十分なのだ。人が同じ方へ、できれば良い方へと導いていきたい」
彼女は笑顔を僕に向け、言葉を付け足した。
「だって、多くの人があの星のように輝いて、1つの方向に動いたなら……それは流星群のように美しいだろう――?」
透明感のある透き通った声で、彼女は僕の耳元で囁いた。そんな綺麗なことを、そんな綺麗な声で言われたら、貴女のことを胸が痛くなるほど敬愛してしまう。
だというのに――晴子さんは、僕の手に手を乗せてきて、そっちの方に意識が行ってしまう。
「……美しいね」
「ははは、キミはそれだけしか言ってくれないのか」
「……さっきから近いんだよ、晴ちゃん」
「ん……」
懐かしい呼び方をすると、晴子さんは一度立ち上がって、僕の背後に回る。それからしゃがみこんで、僕の肩の両肩に腕を乗せ、抱きしめてきた。
「こんなにロマンチックな夜に可愛い女の子と2人きりだというのに、キミは相変わらずだね」
「そう思う……?」
「さぁね。キミの気持ちはわからない。何年も心を閉ざしているから、私でもわからないんだ」
それが本当かどうかはわからないけれど、僕の気持ちを知っていたとしても、貴女は何もしないだろう。
貴女の夢を潰さないために、僕はこの"恋愛"を押し殺して貴女を"敬愛"し続ける。それを貴女は知っているだろうから。
「――ねぇ? こう見えて、私は結構病んでるんだよ?」
「……それは意外だね。いつもの晴子さんなら、絶対そんなこと言わないのに……」
「ふふっ……そうだね。私はそういう生き方をしてきたから……」
晴子さんは僕を離さず、さらに力を強める。本気で抱きしめれば僕を潰すこともできるだろうに、どれほど制御してるのかはわからないけれど、そんな彼女も愛おしかった。
「……幸矢くん。話を聞いてくれるかい?」
「さっきから聞いてるだろう……?」
「……ありがとう」
弱々しい声で、また晴子さんは話し始めた。
「私はね、小学生の時からずっと好きな人が居るんだ。その人と釣り合う人間を目指して、今まで頑張ってきた。その結果さ、私は世界を良くしたいとか、大袈裟な事を言い出して、それが人生の目標になってしまった」
それは昔からよく知っている話だった。儚く、触れれば壊れそうな彼女は、さらに言葉を綴る。
「私は――悪いことなんて何もしてない。恋愛と夢の両立はそんなに貪欲なことだろうか? どっちも良い方向のはずなのに……力は、1つの方にしか行けない……」
「…………」
「ごめん、幸矢くん……。私は……」
ポタリと、首筋に雫が落ちる。
何年も、何年も悩んできた事のはずだ。この国でも稀有な程に賢い女性だ、官僚じゃなくても総理大臣までこぎつける実力はある。
その夢と実績を捨て、1人の花嫁として幸せな家庭を築きたいとも思うのだろう。
酷く単純な二者択一かもしれない。総理程の人物を目指さなければ結婚だってしてもいいだろう。だけど、どっちも本気の想いだから――彼女は選べないのだろう。
頭が良すぎると、色々と思い悩んでしまうんだと思う。僕がただ一言、どちらかを選択させれば楽かもしれないけれど、彼女の長い年月を無駄にしないために、そして彼女の人間性を壊さないためにも、口出ししようとは思えなかった。
でも――
「君がどんな選択をしても、僕はそれを受け入れるよ……。そして、誰も君を責めはしない。もしそんな奴がいたら、僕が許さないから……」
これぐらいは言ってもいいだろう。
晴子さんは何も言わない。でも、少し抱きしめる力が強くなった。
なんともギクシャクとした恋愛だと思う。だけど、そんな恋も良いだろう。
貴女がどんな方向に向かうベクトルでも、僕は付いていく。これからも、ずっと――。




