第70話:秘密
「人材育成というのは、生まれた時から始まっている」
晴子さんは、過去にそう言った。それを前提として晴子さんは今、話し出した。
「一番社会に良いメリットというのは、人材育成であり、多くの人間の性格が良い事だ。そのためには幼い頃から不満なく生きて行く必要がある。この教本の世界において、家庭や社会で嫌なことがあれば別の場でリスタートできる。ランクさえ上げられれば、自分をやり直せる。ランクを上げれば生活も良くなる。親となる人間は前よりも生活のランクが高い人間だから」
「でもそれって、家族体制の崩壊……そして、方言や特産という言葉がそのうちなくなるという事じゃ……?」
僕の質問に、晴子さんは素早く答えた。
「家族体制は壊れるだろうね。だが、それでも大丈夫なように親子の同意があれば同居できるようになっている。つまり、自分の好きなように環境を組み替えられる。素晴らしいことだろう?」
「…………」
なるほど、それなら素晴らしいかもしれない。僕だって、いまの家族との生活は苦でしかないんだ。黒瀬家の跡取りだから、という引け目を感じる部分も、そもそも跡取りという概念がない世界ならいらないし。
「生みの親とは連絡が取れないわけじゃないし、いざとなったら生家に帰っても良い。子供が随分と優遇されている……かのように見えて、素行の悪い子は親からの報告が国にあればランクも下がり、学校に寝泊まりさせる学校謹慎なんていうのもある。子供も大人も、個人が尊重されているのさ」
「……それは、だって――」
教本のタイトルを見ればわかる。
そのタイトルは――〈完全個人主義社会の世界〉。
つまり、個人個人のステータスが重要な世界なんだ。
こんな僕も、小学生の頃はRPGをやったことがある。主人公のレベルを上げて、アタックとかディフェンスとか数値を割り振る。レベル上げは、この世界におけるランク上げなのだろう。より高い生活水準を目指すのならランクを上げれば良いし、自分で満足すればランクを上げなくても良い。倒す敵なんていないけど、頑張った分だけ自分に富が還元される。
これが、競華の組織が考える理想郷……正直、あまりパッとしなかった。理想郷というぐらいならもっと大胆な改革があるのかと思ったけれど、個人個人には既にマイナンバー制が施行されているし、ランクはそこに付け足す程度で良いのだろう。
「……理想郷か。針小棒大だと思うけどね……」
「でも、明らかにこの国は良くなる。そうだろう?」
「…………」
それは否定しようのない事実だった。いじめやDVもなくなり、人の流通が活発になって人見知りもなくなる。終生の友を作れないのかもしれないが、仲間意識ができればランクを上げなくなる可能性だって高い。それに、幼少期の間は友達と別れたくないだろうから、一生の友にもなる、か……。
「……幸矢くん。誰もが自分の目標とする生活を目指して頑張れる、誰でも天才を目指せる、自分を自分で築いていける。そんな世界こそが理想だと、私は思う。金持ちになったら幸せという人はAランクを目指せば良く、平凡な人生でも満足ならLランクあたりを目指せば良い。ランクはずっと保証されるものではないから、適度に頑張りつつでも平凡であれると思う」
「…………」
「この世界に、自分の幸福がなんなのかわかっていても、それを手にできない人があまりにも多すぎる。その要因となるのは人間関係、自分の周りの環境なのだよ。だから、自分さえ頑張れば環境に依存せず幸福を手にできる世界――"個人主義"と呼ばれるようなものが必要だと、私も考えていたのさ」
「……君も、この本と同じような世界を思い描いてたの?」
「違う所も多いがね」
苦笑まじりのその言葉に、僕は安堵した。この本みたいな思考じゃないことを。だけど、それと同時に驚愕もした。彼女は学校で多くの人と交わりながら、彼女だけの理想郷を思い描いていたのか、と――。
「しかし、違うが故に勉強になる。一度でいいからこの世界を体験し、家庭は上手くいくのか、人間関係はしっかり築けるか、個人個人の尊厳が保証されるのか見てみたい」
その口振りは残念そうで、とても変だった。目の前にその世界を体験できるVR装置があるのに、何故そんな羨むような言い方をするのだろう。
いや、それは決まっている。答えはわかっていた。
「……晴子さん。貴女はこのゴーグルを――」
「――使わないさ。こんなものを付けてしまえば、私は今の生活を捨てなくてはならない。それを防ぐために、競華くんは留学という名目で学校を去ったのだろう」
「…………」
今思えば、確かにそうだ。アリスのインパクトが強くて競華の留学を忘れていたけど、留学なんて嘘なんだろう。VRによる理想郷プロトタイプに参加するために学校を出た、のか。
しかし、それなら彼女はVRの事を晴子さん達に知られたくなかったのだろう。そうじゃなければ、競華が事前にVRについても晴子さんに教えてるはずだ。
アリスは、独断で僕等にこのゴーグルを渡したのだろうか? 彼女は競華とどちらが階級が上なんだ?
分からないことが多過ぎる。かと言って、アリスに聞いてもまともな答えは帰ってこないだろう。
「……幸矢くん?」
「……ん?」
「考え込んでるね。そんなに使ってみたかったのかい?」
「……いや」
VRの世界には、あまり興味が惹かれなかった。所詮は仮想のゲームだ、こんなゴーグル1つで何がわかるんだろう。
そんなことより、競華に連絡を取りたかった。アリスとの関係を知って、彼女の動きとかいろいろと対処したかったから。でも、それは晴子さんの考えを聞いてからでいい。
「……晴子さんはこれからどうする?」
「これから? とりあえず、この本を全ページPDF化してからアリスくんに返す。それだけだよ」
「……報告とかは? ほら、競華に……」
「しなくていいさ」
「なんでさ?」
晴子さんは目を鋭くさせ、僕に忠告した。
「このゴーグルを贈与したのは、十中八九アリスくんの独断さ。渡すにしても春休み前とかもっとタイミングがあったのに、あまり時間の取れない私達にチュートリアルだけで1時間もかかるものを普通は渡さない。独断で行動したのなら、それが本部にいる競華くんに知られれば、アリスくんにどんな罰が下されるかわからないだろう?」
「……でも、それこそ競華なら真相を話してくれるんじゃないの? 僕達に知られたんだから」
「競華くんは私達にこんな大きな隠し事をしていたのだ。彼女の性格から言って、嘘は言わないだろうけど黙秘はする。彼女は6歳から企業で生きてきたからね、そういうのはわかってる。寧ろ言わないで、こちらが秘密にしていれば私達の手札が増えるわけさ」
「…………」
それはもう、競華と対立してるんじゃないだろうか。険悪な雰囲気はもう嫌なのに、悪夢は終わりそうにないな。
それでも晴子さんに従おう。僕はいつまでも彼女の味方だから。
「……わかった。僕もそうするよ」
「いろいろ知りたいだろうが、我慢することが大事だよ。あらゆる成果は我慢の先にあるのだ」
「……そう」
名言らしい事を言う晴子さんは僕を視界から外し、スマホを本に向けていた。カメラモードで写したものをそのままPDF化するアプリがあり、それを使うのだろう。
……長くなりそうだし、僕は他の生徒に見つかりたくないから先に帰るとしよう。
今でも僕と晴子さんが一緒に下校することは殆どない。そんな事をすれば、あんなに仲が悪かった2人が、と噂が立つ事待った無しだ。
人間とは面倒なもので、そういう噂が立たないよう器用に生きなくちゃいけない。それができないから、この国の引きこもりが50万人を超えると言われるんだろうが――。
上手く生きていくために、今日も早めに帰るのだった。




