第69話:不穏なプレゼント
この作品の目指す制度は、これです。
2月2日、放課後の1-1の席は満席だった。真ん中の最前列、女子側に座る少女だけは机を反転させて教室が見えやすいようにして、シンプルな黒と透明のデザインのシャーペンを動かしている。その人物は言うまでもなく神代晴子であり、勉強する姿は見惚れるほどに美しい。姿勢が良く、ゆったりとペンを走らせ、口元は微かに笑みを浮かべて、こんなに優しい顔で勉強する人がいるのかと思うほどに。
その彼女が主体となって残り勉強をする事で、1組の人も自然と彼女を見つけて勉強するようになった教室。学年問わず、空いてる席に皆が座って黙々と勉強し、分からないことがあれば晴子さんに聞く。それが最終下校時刻まで続く――のだが。
「……アリス、キータイプが煩いよ……」
「幸矢様、私は勉学の4億倍重要なことをしているのですわ」
「他所でやれ……」
新しく先生代わりとしてこの教室に居るようになった僕は晴子さんの後ろに立ち、手の止まっている人がいればそこに行くことにしていた。だけど、今は隣にある教卓の上にタブレットを乗せてシリコン製のBluetoothキーボードを叩くアリスが邪魔だった。キーボードがシリコン製だから静音ではあれど、美しく勉強している晴子さんの後ろで慌ただしくキーボードをタッチする彼女は邪魔だった。
彼女のタブレットにはいくつもウインドウが開き、プログラム言語が書かれていた。僕には何をしているのかわからないけど、ここでやらなくていいのは間違いないだろう。
「……僕等は5時半までここに居るからさ、キミは移動してなよ……」
「お構いなく。私は貴方達を見ていたいだけ……タブレットを見ながらでもそのぐらいは適いますもの。私だって、貴方達で言う"脳別行動"はできるんですのよ?」
「…………」
そう言う問題ではないとわからないらしい。きっとアリスは、他の生徒のことなんてゴミにしか映らないのだろう。晴子さんは、僕等の武器を人間性と言った。確かにコイツは人間性がない。自分よりも下等な人間なんて気にも留めないんだろう。人の間を生きるから人間なのに、彼女は人と認める人間があまりにも少ないんだ。
「……アリスくん」
ポツリと晴子さんが呟く。突然割り込んだ晴子さんに僕とアリスは視線を注ぎ、アリスが首を傾げて言葉を返す。
「なんでしょうか、晴子さん?」
「……キミは私達よりも、快晴くんと一緒に居なさい。私達と居るよりも為になるだろう」
「…………」
アリスは何も言い返さず、両手でキーボードをタッチし続けた。無言がくると、逆に怖い。今の言葉はアリスに喧嘩を売ったのと同義、一触即発の事態といえる。
しかし、1分経ってもアリスは何も言い返さなかった。晴子さんに考えがあって快晴を見てろと言ったのが伝わったのだろう。なんの考えもなくそう言うわけがないのだから。
「……よし。では、私はその快晴くんを探してきますわ。では、幸矢様、晴子さん。天才である貴方達に餞別です」
『…………?』
アリスはペラペラのシリコンキーボードを巻いてタブレットと一緒にしまい、代わりにカバンからは最近良く話題になるものを取り出した。
VRゴーグルの梱包された箱。その側面には日本語でこう書かれていた。
簡易型プロトタイプ参入装置――。
プロトタイプとは、一体なんの事なのかわからない。しかし、アリスが渡してきたと言うことは、きっと理想郷の事なのだろう。
理想郷のプロトタイプ、これに参入しろと言うのか?
僕達に――?
「……チュートリアルが1時間ありますわ。ご注意下さいませ」
そう言い残して、アリスは去っていった。後に残された僕達は後味悪く、彼女の置いたVRゴーグルを置くことしかできなかった。
◇
その日、僕等は最終下校時刻を過ぎても帰らなかった。僕は早めに生徒会室に行き、最終下校時刻を過ぎて晴子さんがやってきた。すると彼女はスクールバッグを机に置き、その後に自分の目の前にVRゴーグルを置いた。
僕の机の前には、既に箱の中身が広げられている。ヘッドホンが一体となり、マスクまで付いている胡散臭いVRゴーグル、片手でも両手でも持てるコントローラー、手首・足首に付ける位置感知リストバンド、説明書、そして――300ページもある教本。
教本は少し目を通したが、VR空間でのルール、秩序が事細かに描かれていた。文字数にすると、きっと30万文字ぐらいあるだろう。それほどまでにビッシリと文字が敷き詰められていた。
この教本を読んだ上でチュートリアルをやれと書いてあり、先程ため息を吐いたのを思い出す。VRは楽しい動画を見たりゲームをする為のコンテンツだろうに、それを使ってのプロトタイプ……それも、膨大な量の文字を読んでから。なるべく今日でチュートリアルを済ませたかったが、それは無理なようだ。
そこまで晴子さんに相談して、僕等は教本を読み進める。この理想郷と呼ばれる世界観は、実に面白かった。
日本には昔、武士や百姓といった階級があった。この理想郷という世界も階級別社会だった。アルファベット順でありながら、SランクだけはスペシャルとしてAの上に位置する、なんだかゲームみたいな世界だった。
ランクは、僕等みたいな学生のうちに殆ど決まる。大人になると、子育ての度合い、会社の出勤率、その他生活面によって個人のランクは変わる。あとは企業の売り上げ、国の実地する社員に対するアンケートによって企業のランクも変わり、給与などが変動する。ランクによって入れる学校、できる仕事が違う……。
ただ、ランクわけがなされたからといっても法の下での平等は変わらない。だから、ランクによる格差があっても横暴な真似はできないのだ。罪を犯した場合は禁固刑や上位ランクによる生活の監視などが課せられる……。
はっきり言って、ここまでは今の時代と何が違うのかわからなかった。給与体制が変わるのはわかるけど、執行猶予とかもあるし、入れる学校が学力のランクで違うのなんて当たり前のことだった。個人にランクをつけてなんの意味があるのか、それはきっと、この一文に意味があるのだろう。
――親及び子は、同じランクの者同士でのマッチングにより、両者の承認を得ることによって決定する。
つまり、ランクによって親をコロコロ変えることができるのだ。ランクは落ちることもある。学校の試験がマズければ転落もする。マッチングした親が合わなければ、そうして変えることもできるのだ。その時の転落には親に過失があると国のアンケートに記載すれば親の個人ランクを下げることもできる。
そしてまたランクを上げて親を変える事ができる――。
例外として、親子の両者が今の関係を維持することを望めば、両者のランクが違っても良い……。無理して親を変えなくてもいいということだろう。引っ越しも繰り返すのが面倒だし。
しかし、そういう引っ越しを繰り返す子が増えれば、親の家には子供が暮らせる部屋が常備されるのだろう。
あとはランク分けについての事や生活の仕方について書いてあるけど、パラパラと読み飛ばして晴子さんを見た。相変わらず姿勢良く本に目を通す彼女は教本に没頭して僕の視線に気付かない。外は既に暗くなり、静かな教室で、僕はただ晴子さんを見ていた。
こうしてゆっくりと彼女を見ていると、少し恥ずかしくなる。大きな瞳は本を凝視する為に半分ほど閉ざされ、鼻のラインのしたにある小さな口は時たま小さく開き、肩がわずかに上下する。そんな当たり前の動作を観察しても意味はないのに、晴子さんの色んなところを見てしまう。
普段は気を張ってるから気付けないだけで、こういう何気ないところでは"この人を好きなんだ"と感じさせられる。
「……ふむ」
短く呟いて、晴子さんは教本を閉じた。まだ半分も読んでいなかったが、時間はもう7時になりそうで、時間的問題なのだと考える。そんな彼女は、僕の方を向いて一言呟いた。
「これは、素晴らしいね」
それはアリス達の組織を全肯定する言葉であり、僕にはとても信じられないのだった。




