第6話:握手
「随分と長い話だったな」
「一言一句逃さず話したからね……。君の方から言ってきたんじゃないか……」
電車を下車すると、退屈と不満に顔を歪めた競華はズカズカと歩き出す。スカート丈が短いのに颯爽と歩いていくのはお見事というか、付いていくのが大変だった。
階段を降りて駅を出ると太陽の熱線が降り注ぐ。まだ夏のように熱い9月の初め、近くを歩くサラリーマンも殆どがクールビズだった。
「まぁ、貴様が北野根と友人になるのなら都合が良い。私に紹介しろ」
「それこそどうしてさ……。君がリスクを冒す理由がわからない」
「好奇心がある、それだけで十分だろう?」
「…………」
晴子さんを見たくて転校し、僕にケンカを売るような女に興味があるって……。
競華の真意はわからないが、確かに理由は十分だろう。好奇心は猫をも殺すという、しかし僕達は狼だ。
狼は好奇心が高く、童話に出てくるような残虐性は殆どないそうで、好奇心のあまり人間を殺してしまう事もあるようだ。仲間を思いやる優しい生き物だ。
それを僕達自身に比喩することは、決してお調子者だからではない。好奇心があるからこそ知性があるし、お互いを信じ合っているのは本当の事だから。信じ合ってるからこそ、競華の言葉に真意が無いのはわかるんだ。こうして問いかけても答えてくれないなら、真意は教えてくれないだろう。
「……はぁ。どうなっても知らないからね」
「誰に物を言っている」
「……ああ、君が心配されるほどヤワじゃないのは、よくわかっているよ……」
競華なら大丈夫、だから僕も、北野根に話をしなきゃな――。
◇
朝のHR前、やっぱり一番にクラスにいるのは晴子さんだった。昨日は事件があったから挨拶をしたが、基本的には挨拶をしないでいる。幼馴染なのに顔も合わせない、不思議な関係だった。
クラスメイトがチラホラとやってきて、北野根は8時10分頃の登校だった。
「おはよう、幸矢くん」
「……おはよう、北野根さん」
彼女の方から挨拶をして来た。それだけでクラスに異様な空気が流れる。
僕という嫌われ者と話す――それはクラスメイトにとっては許せない行為のはずだから。それでも注意の声はかけられないだろう。僕の眼前で僕を卑下する行為をすれば、どうなるかわかっているはずだから。あとでこっそりと北野根に注意の声が掛かるだろう。
「……? どうしたのかしら、浮かない顔をしているわ」
「……この顔は生まれつきだけど?」
「そう。そうね。昨日も同じ顔だったわ」
椅子を引き、北野根はスカートを抑えながら腰を下ろす。自然なその動作が、彼女も女生徒として普通に過ごして来たんだなと思わせた。
「幸矢くん……貴方、世界に絶望してるような顔してるけど、死ななくて良いの?」
……この女は出会って1日2日の相手に、なんで平然と罵れるんだろうな。
「なら君は、なんで生きてるの?」
「死んでないからよ。そして、生きたいという意志がちゃんとあるわ」
「そう……。だったら僕もそうさ。生きる理由がある……。あとは、単純に死にたくないという、人間の原始的な欲求だ」
「へぇ……生きる理由、伺っても?」
「…………」
視線が交錯する。
彼女の妖艶な笑みは今日もまた気持ち悪く、漆黒の瞳も妖しく光っている。
この女は――瑠璃奈にどこまで聞いたんだ?
「……答える義理が、今の所ないかな」
「あら残念。私はもっと幸矢くんの事が知りたいのに……」
「……なら、友達になる?」
なるべく自然に提案した。今の言葉から繋げれば、全く問題ないように思えたから。
なのに、北野根は目が点になって固まっていた。今時友達になる?なんて聞くような事は珍しいが、そんなに驚くほどだろうか?
「……北野根さん?」
「……フフ。大丈夫。そう、それが貴方の選択なのね」
「…………」
選択とは、どういった事だろう。今の僕の立場なら、北野根を突き放すこともできたからか。
彼女は自分が危険な人物だと、自覚があるのだろう。危険な人間と付き合うのはリスクしか無いのに、僕が友達になるという選択は確かにおかしなものだ。
勿論、自分の意思じゃないからおかしいのだが――。
「いいわよ、同学年で同じクラス、席も隣。友達にならない理由はないわ」
「……随分と俯瞰的だね」
「いろいろと達観してるのよ、フフフフ……」
「…………」
北野根はスッと右手を僕の方に差し出した。握手――それは信頼の証。この女は、僕の事なんて信頼してないだろうに……。
「……どうしたの? 握手ぐらいしないと」
「……古典的だね」
「そう思う? ビジネスマナーでも握手はするのよ?」
「それ、社会のルールだろうに……」
彼女は手を差し出しながらも手のひらは見せなかった。手の内は開かせないという意味もあるんだろうが、残念な事にそんな手と握手はできない。
僕は北野根の右手を、手のひらが上に向くようにひっくり返した。
手のひらの中心には画鋲があって、鋭い針が天井に向くのだった。
「……握手されたらどうしようと思ったわ」
「その時点で僕と手を切るつもりだったんだろう? 文字通り、ね……」
「まぁ、酷い言い草ね。刺すだけに留めるつもりだったのに……私、そんなに冷酷じゃないのよ?」
「はいはい……」
彼女の手から画鋲を取り、握手を交わす。女性らしく柔らかい手だったが、込められた力は僕と同程度だった。
「よろしくね、幸矢くん」
「ああ、よろしく……」
こんなしっかりとした形で友達になるとは思わなかった。立って握手なんかしてるもんだから、多くのクラスメイトが僕らを見ている。嫌われ者の僕が友達……北野根もこれから騒々しい生活を送る事になるだろう。
中でも、晴子さんがしっかりこちらを見ているのは、僕も北野根も、横目で確認していた――。
◇
誰かと共にする昼休みは久し振りだった。1人である方が自由に時間を使えていいが、北野根の話は飽きないし、とても興味深いものだった。
「この世界に複雑じゃないものなんて、ないのよ。幸矢くんは酢酸を作ったことがある? CH3COOH……水素、炭素、酸素だけの簡単な化学式。二酸化炭素と水を混ぜれば出来そうなものなのに、風説でできるのは炭酸水……簡単にいかないのよね。酢酸を作るのは、少し複雑……」
「……確か、酢酸を作るのに使うのは、殆どがメタノールだったっけ?」
「ええ。幸矢くんは物知りね」
「……どうも」
あまり褒められてる気もせず、僕はため息まじりに頬杖をつくのだった。
昼食を取ってからの暇な時間、僕と北野根は1つの机を挟んで向かい合っている。僕らの周りに人が寄って来ず、とても話しやすかった。
「複雑って、人間を悩ませるのよね。複雑に絡まった糸を解くのって、とても面倒でしょう?」
「そうだね……けど、もしも複雑なものがなかったら、世の中はこんなに発展しなかった……」
「まぁね。良いこともあれば、悪いこともある。私達はこの複雑な世界の恩恵を享受し、そして、足に糸が絡まっているの。気付いていないだけで、ね」
「…………」
言葉を上手く解釈するなら、与えられると同時に蝕まれる、という事だろう。飴と鞭で上手く教育されてるのに、教育されている人には自分が教育されていることがわからない。罠にハマっているとも気付かず、滅びていく。
複雑なこの世界では、さらに気付かない。
学校教育を経て社会人となる、そんなわかりやすいレールを敷いて、子供を社会に食べさせていく。レールから逸れた行いは大半が犯罪で、レールから逸れた道は狭い。子供から見れば、今の社会は牢獄にしか思えないだろう。
無論、"気付いた人"に限るけども――。
「……お喋りが過ぎたわね。幸矢くん、まだテストがあるんでしょう?」
突然話題を横に置き、藪から棒に訊いてくる。今更だが、今日は夏休み明けテストが行われていたのだ。
「次は適性検査……性格診断みたいなもので、勉強する必要はないよ」
「そう……。まぁ、次の時間が試験でも、貴方は100点取りそうね」
「……まぁ、そうだね」
否定はしなかった、おそらく午前に行われたテストは満点だろう。いつも勉強してきたんだから、当然の事だ。
しかし、つい昨日転校してきた北野根もテストを受けている。勉強などした様子はないのに。
つまり、彼女も相当な努力家なんだろう。
怖い事だ。信用できない上に賢い人間が、近くに居るのは。
昼休みはこうして過ぎて行く。
チャイムが鳴る間際、競華からメールがあった――。