第39話:善
12月19日、月曜日。
早朝ランニングで晴子さんとは顔を合わせたけど、すれ違っただけに過ぎない。よくない風が吹いてる気もするが、晴子さんなりに考えあってのはず。僕からは何も言わず、ただ目的を果たそうと思う。
今日も学校に行き、椛と多少話をして、授業中はノートを取る片手間に他の勉強をする。なんだか平和だな――なんて思っていると、久し振りにmessenjerが鳴った。発信者は競華からで、次の10分休みに教室に来い、とのこと。なんの用だかわからないが、とにかく行ってみる事にした。北野根にはどこに行くのか聞かれたが、トイレと答えるとなにも言い返してくれなかった。さすがにトイレと言えば信じるだろう、10分休みだし。
「これを北野根の家に付けておけ」
教室に行くと、すぐさま競華は僕のブレザーに何かを突っ込んだ。彼女が手を戻すと、僕が手を突っ込んで形を確認する。丸い円盤……半径2〜3cmのものだ。付けておけと言うぐらいだから、webカメラか何かかな……?
「……君も、非人道的だよね。盗撮なんて、さ」
「他人の生活に興味があるから盗撮をするんじゃない。23日の修了式、25日のクリスマスに向けて、奴は何かする筈だ。事前にくい止める」
「……彼女、実験室を持ってると思う。そこには入れさせてもらえないから、手の内は見せられないと思うよ……」
「構わん。とにかく、頼んだぞ」
それだけ言うと、競華はくるりと回って席に戻って行く。そんな彼女の背中に、僕は1つの疑問を投げかけた。
「手伝わないんじゃなかったの……?」
「聖人様と取引した。それだけだ」
「…………」
晴子さんが、競華と取引をした。内容はわからないが、北野根の事は競華に任せていいと言う事だろう。もう今週しかないのに、なんで……僕にやらせない?
競華をぶつけても、椛を刺激させて戦いが激化するだけだと思うけど。
「……"私に集中しろ"、ってことかな」
きっと、それが晴子さんからのメッセージなんだろう。長く続いたおままごとを終わらせる。それだけに時間を費やせ、と――。
◇
放課後、今日はすぐさま帰ろうとした所を晴子さんに捕まった。
「ねぇねぇ、黒瀬くん。今日は参加しないかね。どうせ暇なんだろう?」
「…………」
声を掛けられ、僕は冷めた目で彼女を見た。暇といえば暇だけど、その貶すような誘い方はどうだろう。相手が僕だからやってるんだろうが、無遠慮だし、クラスでその物言いをしていいのか……?
晴子さんの言い方がなんであれ、僕は僕のやる事をこなすだけか……。
「神代……。君、勉強はいいのか? 次の全国模試で順位を落としたくないだろう。遊んでる場合じゃ、ないんじゃないか?」
「心配無用。寝るまで勉強してるからね、毎晩頭に知識を詰め込んでるよ。半月ばかり、1日1〜2時間運動をしたって大丈夫。キミも勉強だけじゃなく、たまには運動もし給え」
「体育で十分だよ……。人間は、ラジオ体操で1日分の運動ができる。そんなに運動しなくたって、いいだろう?」
「まぁまぁ、そう言わないで。ほら、更衣室まで行こう」
「…………」
晴子さんに手を掴まれる。何というか、嬉しい展開だ。いつも通り顔には出さないが、僕の手を握る暖かな感触が心地いい。
なのに僕は、その手を振り払った――。
「……馴れ馴れしくしないでよ。君は僕の敵だ。友情なんて無い」
「酷い言い様だね、黒瀬くん。私はキミや、そこの北野根くんとも仲良くしたいと思ってるのだよ」
突然名を挙げられ、椛はニヒルな笑みを浮かべた。喧嘩を売られた、ともとれる。しかし今は客観的に見て2対1、椛の顔には余裕が見えた。
椛が何かを言う前に、僕が晴子さんに噛み付く。
「僕や椛が、君なんかと仲良くなるわけないだろう。神代、お前は偽善者だ。偽善ってわかるか? 偽物の善意のことだ。なんの見返りもない善行を行い続ける事が善だとして、君は他の学生からチヤホヤされるために、善行を行なっているだけ……自分の利益を考える善行なんて、偽善でしかない」
長くもベラベラと話す事ができた。これが今日の指示内容、善行についてだ。晴子さん自身はチヤホヤされたいわけじゃなく、学校1つ支配できるかの実験だと言っていた。きっと、偽善なんだろう。
人を良くする、良い方向に育てる。
それは誰のためなのか。
前に、聞いた事がある。
「――キミが善についてそう解釈しているのなら、キミにとって、私は偽善者なのだろう」
声のトーンが、1つ変わった。いつもの成人らしい雰囲気が、さらに一層高まっている。凛としたその佇まいは美しく、目の前の少女は一言喋っただけで、この空間を支配した。
誰もが晴子さんを見る。あらゆる人の感性を刺激するトーン、口調、声色。それが彼女の、何者にも真似できない力――言論事に特化した少女の真価だ。
「――ただね、私は善について、こう解釈している。誰から見てもお互い様な関係を持つ事、と」
ここは黙って彼女の声を聞く。横槍を入れるのは、美しくない。彼女の美しさを損ねる行為も、したくない。
「――善行とは、自分の身をすり減らして行う行為だ。しかし、それをするだけの原動力とはなんだろう。機関車が石膏を燃やすように、コンセントを刺さなきゃ家電製品が動かないように、何かをするにはエネルギーが要る。善行に及んで利益を上げそれを次のエネルギーにする。それが今の私だとしようか」
そこで一度言葉を区切り、晴子さんはゆっくりと自分の胸に手を当てる。自分がそうだというジェスチャー、しかし目線は僕から離さなかった。
「ならば逆に、なんの返報も得ようとしない場合は何がエネルギーになるのか。それは誰かに強制させられる奴隷の場合と、善行を行いたいという気持ちだけで善行を行なってる場合だ。奴隷として働かされてる善行は自分の満足ではない、実に良い例だ。だが、奴隷の善行はやがて、自身の善行は自分の誇りになるだろう。そして、自ら望んで善行を行う者も、自身の善行を誇りに思う。自分の善行が自分にとって嬉しいのだ。自己満足というのだろうね。善行を行う事で対価として満足できる。結局、善行する側もされる側も満たされる。これこそお互い様だろう――?」
晴子さんは手を下ろし、その大きな丸い目で僕の瞳を覗き込み、問う。
「これでは善も偽善も、同じではないのか――?」
その問いかけは、本当に僕に問いかけてるんだろう。どこか寂しげな表情をする彼女に対し、僕は答えることができなかった。
晴子さんの提示した善と偽善については、少し考えればわかる話だ。だからその答えも出しているつもりだ――。
「善も偽善も同じ……だろう?」
「そういう事だ。一度、そういう風に定義しておこう。ならば次に来る問題は――
――世界を良くするのは、悪い事だろうか?――
その問いは理想郷を作る事を否定する言葉だった。誰もが幸せである世界、そんな世界を作る事が、間違いなはずがない――。
晴子さんの黒く大粒な瞳が、僕にそう語りかけていた――。




