第35話:ある冬の1日
ガチャリと音を立て、茶色に金色の模様の描かれた自宅の玄関を閉める。靴を脱ぎながら靴箱の上に置かれた卓上デジタル時計を見ると、PM07:04と書かれていた。夕飯を作る身としては、遅い帰宅だった。
リビングに向かう間も無く2階の自室に入り、カバンを床に置いて家用の服に着替え、エプロンを付けて下に降りる。
リビングに着くと、義母さんと美代がソファーに座り、テレビを見ていた。バラエティ番組なのか、名前も知らない芸能人がワハハハと笑っている。
父さんは外泊するらしく、今日は帰ってこなかった。
僕の足音を察知してか、2人は一瞬僕の方を見た。すぐテレビに向き直ると、よそ見しながらうわずった声で言った。
「幸矢、おかえりなさい」
「兄さんおかえり。今日、パスタ食べたいな〜」
「……ただいま。パスタでいいなら僕は楽だからいいけど……義母さんはそれでいい?」
「ええ、いいわよ」
「……ん、わかった」
2人がいいと言う事で、僕はパスタを作る事にした。いつもならおかず3品ぐらい作るけど、パスタでいいならそれだけでいいだろう。麺を茹でて、ソースを作って掛けるだけ。流石にそれは簡単に言い過ぎかもしれないが、手順だけ見ると、いつもより断然楽なのは確かだった。
そういうわけで美代が好きなミートソースを作る。テレビの音をBGMに料理するのが日課だった。
20分かかっただろうか――まだバラエティ番組が続いてるのをよそに、スパゲティは完成した。テーブルの上に4つ分並べて、僕はお風呂に湯を沸かしに行った。湯船は軽く掃除をして水を流してからお湯を入れるのをじっと見守る。
家事の大半は僕の仕事だ。義母は来年度末に仕事を辞めるらしいが、家事は変わらず僕がやるのだろう。それについては誰も口を出さない。僕だってやりたくてやってるんじゃないが、家事なんて誰だってめんどくさいだろう。口出しすれば自分がやる羽目になるかもしれない、そう考えてのことのはず。
唯一やってもらってることがあるとすれば、自分の洗濯物は自分で畳んでもらってることだ。あと、朝食の皿洗いは誰かにやってもらってる。僕の分は自分で片付けるけど、他のは知らなかった。
どうしてこんな生活になったのか、よく覚えていない。最初は義母がやってた家事を、段々僕がやるようになったのは覚えている。
これやってくれない?
今日もやってくれない?
それからは言われなくても自分でやった……気がする。
まぁ、今となってはどうでもいい事だろう。
お湯が溜まると、僕は浴室リモコンの湯沸かしボタンを押し、入浴剤を入れてリビングに戻った。
リビングでは2人がテーブルに着き、テレビを眺めながらパスタを食べている。僕も手を洗い、パスタを食べ始める。
すると、斜め前から義母さんがとんとんとテーブルを叩いて僕は反応する。顔を上げると、少し頰にシワの出てきたショートヘアの女の顔があった。
「ねぇ、幸矢。今日はどこに行ってたの?」
「……友達とファミレス。食べてきたから、自分の分は少なめなんだ」
手元の皿は水を救う時の両手ぐらいの大きさで、食べるのに5分もかからない。食べてきたのもそうだけど、飲んできたのが大きい。……甘いものを飲むたびに、ブラックコーヒーを飲むよう勧められたのはいい思い出のはずだ。
義母は僕の発言が気にくわないのか、さらに聞いてくる。
「友達って、高校の子? アンタ、学校じゃ問題ばっか起こしてるじゃない」
「……中学の友達だよ。食べてきたのも、真澄原駅前のファミレスだし……」
「ふーん、中学の友達とまだ仲が良いんだ。男の子? 女の子?」
「女子だけど……」
「へぇ、脈はあるの?」
「…………」
怒涛の勢いでまくし立て、僕としては黙り込みたい気持ちだった。子供の恋愛事情とかズバズバ聞いてくるやのはどうだろう。気になる気持ちはわかるけど、聞かれて嬉しくない。
「……ないよ。僕に彼女なんて、できるわけないでしょ? こんな性格だし、ね……」
「……そう。でも、貴方には人付き合いが良くなってほしいとも思うのよ。将来、貴方も黒瀬の名を継ぐんだから……」
「……。器の似た大きさの人間は、自然と引き合う。僕と近い器の人が、近くに居ないだけさ……」
「へー。じゃあ今日兄さんが会った友達は、兄さんと器が似た人なんだ」
横から突如疑問を吐き出す美代に、僕は少し意外そうに思いながらも、彼女の口周りについたミートソースをティッシュで拭ってやりながら答える。
「今日会った2人は、僕に似てるんじゃない。僕より凄いんだ……」
人を惹きつけ、崇められる神代晴子。
16歳という若さでグル級と呼ばれるハック技術を持つ富士宮競華。
どっちも個性のある特別な人間で、きっと僕よりも賢い。僕は勉強ができても取り柄はないし、晴子さんが居なかったらやることもない人間だ。2人のことは、とても尊敬している。
今の言葉は心からの言葉だ。2人はどこか納得するような顔をして、美代はにんまりと笑って言う。
「今の時代、尊敬すべき大人なんて全くいないのに、兄さんは尊敬できる人を見つけたんだねぇ」
「美代はもっと勉強しなよ……。僕を見習って、さ」
「勉強つまんないもーん。いいじゃん、学校の勉強はしっかりできてるんだから」
「……まぁ、そうだね。学校の勉強ぐらいできてれば、今はいいや……」
美代は井之川に受験するらしい。受験勉強なんてしなくても、きっと今の成績で入れるだろう。僕や晴子さんのようにオール満点とはいかなくとも、8割9割は取る好成績を出してるのだから。
冬は忙しいが、来年は美代も入学――忙しくなりそうだ。
「……ごちそうさま」
僕は食べ終わった食器を持つと、流しに置いて水に漬け、一度部屋に向かった。2人が食べ終わって食器を置いとくまで、暇になるのだ。普段なら少し筋トレをするけれど、何気なくスマホを見ると、messenjerの通知が来ている。
〈晴子さん:今日はお疲れ様〉
何がお疲れ様なのかわからないけれど、そんな一文が来ていた。何かイベントがあったりするとこんな事も言われるが、今日はイベントというほどのイベントでもない。
わざわざこんな事を送るって事は、構ってほしいのか……?
〈何か用事?〉
そう返信を返し、腕立てを始めることにする。50回やるより、50回やる時間をかけて20回やる方が辛い。最近は体幹トレーニングなんて聞くが、それが実際に効果があるかは不明だ。ある程度鍛えられればいい、どうせ筋肉なんて大して役に立たないから。
とりあえず腕立てだけ終えると、再びスマホを見る。通知は僕が送ったあと、すぐに来ていたようだ。
〈晴子さん:話がしたい〉
「…………」
寂しがり屋か……と思わせる文面だった。今日ファミレスで会ったのに、まだ話したいとはこれ如何に。
まぁ、競華に聞かれたくない内容なんだろう。そう予測して、僕は彼女に電話を掛けた。
3ゴール目で綺麗に通話に応じた彼女は、いつも通り元気そうだった。
《やぁ、幸矢くん。さっき振りだね》
「……どうも。で、どうしたのさ?」
《ははっ。私がキミと話すのが、そんなに変かね?》
「いや、そうじゃないけどさ……」
別に変じゃないけど、いつも通りでもない。それが少しだけ不安だった。何を言われるのが怖いけれど、まぁ、僕は演じるだけだから……。
《幸矢くん、明日から球技大会の練習が始まる。わかってるね?》
「…………」
早速本題か――なんて、呆れる思考が嫌になる。
そうか、明日からか……って、知ってたけど……嫌になる。
「……わかってるよ。ストーリーは決まってるんだから、その通りやるさ……」
《キミに掛ける苦労も、これで最後だ。終わったら、何かプレゼントしてあげるよ》
「……それは、嬉しいな――」
プレゼント、晴子さんからのプレゼントは特別に決まってる。しかも、天才が選ぶプレゼントだ。僕に似合う何かだと思うが……きっと予想もしないものだろう。今から楽しみだ。
《……あまり、期待しないでくれ給え。私はお金がないからね……》
「だからこそ工夫するのが、キミだろう? まぁ、貰えないものだと思って、気長に待っとくよ……」
《ぐぬぬっ……私は嘘はつかぬ。今に見て給え》
画面越しに悔しそうに唸ってるが、それは冗談だろうか。僕と仲良くないフリをしてる、大嘘吐きじゃないか。
「……それで、用事はそれだけ?」
《それだけだよ。明日も頑張ろうという話さ。……それだけだけど、電話を繋げっぱなしにしてはくれない、かな?》
「……どうしたのさ、晴子さん? 寂しくなった?」
《いや、そうではないが……兎に角、ヘッドセットでも付け給え。待つからさ》
「はぁ……」
と言われたので、言われた通りBluetoothヘッドセットを付けてスマホとペアリングする。スマホは充電ケーブルに繋げて放置し、机の前に座る。
「準備できたよ……」
鞄の中から計量経済学の本を出し、ルーズリーフのまとまったファイルを1つ取り出す。両手でそれぞれ開くと、晴子さんから話し始めた。
《……ありがとう。我儘に付き合ってくれて》
「……別に、いつものことでしょ?」
《そうだね。私はキミに我儘を言うが、キミは言わないからなぁ。私ばっかり我儘を言ってしまう。キミも何か言ったらどうかね?》
「……別に、君にしてほしいことなんてないし、いいよ……」
《それはそれで傷つくのだがな……まぁ、思い付いたら言い給え》
「うん……」
思い付けば良いけど、願い事が出来ても晴子さんに何かしてもらうなんて、畏れ多くて頼まないだろうな。
それより、僕は時計を見て、15分ほど経っているのを確認する。
「……ちょっと、お皿洗ってくるね」
《ん? ああ、待ってるよ》
それだけ聞いて、僕はヘッドセットを机の引き出しに仕舞い、リビングに向かった。リビングでは別のバラエティ番組がやっていて、2人は楽しそうに見ていた。
僕は1人皿洗いに徹し、手洗いも含めて3分ほどで自室に戻った。再びヘッドセットを付け、彼女に告げる。
「お待たせ……」
《おかえり。家事をやる身は大変だね》
その言葉はどう言う意味だろう。彼女には僕の親が再婚してることを知らせてないし、父親がいない間は1人で家事をやってると言う意味だろうか。
そうなら良いけど、ね……。
「……君も、たまには静子さんに変わって、料理でもするといい」
《たまにはやってるさ。家庭的な女は昨今この国の主婦の象徴とも呼べるからね。ある程度はこなすよ》
「働く女性も増えてるし、君だって働く女性になるんだろう……? そんなこと言ってていいの……?」
《……ん。まぁ、まだ悩んでるということさ》
「…………」
何に悩んでいるのか、それは聞かないでおこう。家庭的な女――簡単に言えば主婦――になりたいといことは、結婚するという事で……これ以上は思考するに及ばない。
夢か、恋か。二者択一といっても、選べないものは選べない。晴子さんでさえ悩むのだ、他の人も悩むだろう。
《とはいうものの、2つ取れれば良いのだがね》
「……本気?」
《これからの社会次第さ。私達が社会的地位を得る前に世界が良くなれば、私は恋に集中しても構わないのだ》
「……その頃にはもう、恋愛をする、一番良い時期は過ぎてるだろうに……」
《ははは……まぁ、ね。しかし、それでも構わんのだよ。幸せにはなれるだろう》
「……多分、ね」
そうなると、幸せになれるかは僕の手腕によるから、少し怪しい。僕は賢い方だけど、晴子さんみたいにもっと賢い人が居る。歳を食い敬虔を積んだ先人達に勝てないかもしれない。まぁ、少し弱ったところでお金は手に入るだろうし、家庭を守る分には――
「…………」
何を考えてるんだろうか、僕は。晴子さんが頑張らなかったら、世界にとっての不利益だ。彼女が国を先導する立場になれば、この国は躍進を遂げるだろう。それを阻止するのは、いけないな。
これが、彼女の本当の我儘なんだろう。
成る程、それを阻止するのが僕の我儘だな……。
「……ねぇ、晴子さん」
《んぅ?》
「普遍的な幸せなんて、君には似合わない。……2つとも取るか、この世界を変える事が、晴子さんらしいと思うよ……」
《…………》
晴子さんが、珍しく黙った。彼女の沈黙はどこか胸が痛くなる。
やがて、ボスンと椅子に深く座り込む音とともに、彼女の声が聴こえた。
《ははっ、フラれてしまった》
「い、いや……そんなつもりは……」
《わかってるさ……まぁ、ここまでやってきたんだ。ひとまず、球技大会での最後の演劇は、無事に成功させよう》
「……うん」
一瞬慌てたけど、フラれたとか言いつつ彼女の声は元気で、揶揄われたのだと察する。晴子さんの事だ、僕の心なんてお見通しなんだろう。流石は親友というか、人徳というか……。
「……君と話していると、脳が疲れるよ」
《失礼な。喋るという事はカロリーの消費やストレス軽減になるというのに、脳が疲れるなどと適当言うでない》
「……いちいち考えさせられながら話すんだから、本当に疲れるんだよ……。君、演技しなかったら友達できないんじゃない……?」
《……凄く失礼な事を言われたが、特別に目を瞑ってあげるよ。君なんて演技してようがしてまいが、その性格では友達できないだろうに》
「……君の方こそ失礼だよ」
主要な話も終わり、雑談というか、昔馴染みだからできる会話に転じる。
それから先はお互いに黙って勉強したり、ふと思い付いた話をしながら、通話は寝る前まで続くのだった。
ダラダラ書いて来ましたが、漸くメインストーリーですかね。
 




