第93話:素直さ
晴子さんと別れて家に着くと、玄関の前には見慣れたポニーテールの女の子が、家に入らずそっと立っていた。不審に思ったが、なんとなく声をかけてみる。
「何してるの、美代……?」
「兄さんを待ってたんだよ。一緒に帰らないと、兄さんの達成がないでしょ?」
「……立つ瀬がない?」
「そう! それ!」
ビシッと僕を指差す義妹。わかっててボケてるんだろうが、残念ながらまったく面白くなかった。僕はため息を吐いて、玄関のドアを開ける。
「ほら、入りなよ……」
「わーい」
美代が中に入ると、僕は扉を閉める。美代が先行してリビングに駆けていくのを見て、家の中では普通なのかなと感じた。僕もリビングに行くと、中に居る義母が本を置くところだった。義母は僕の存在に気付くと、美代と交互に見比べて、最後に僕の方を見る。
「おかえり、幸矢。先に帰したってmessenjer貰ったけど、一緒だったのね」
「……美代が玄関の前で僕を待ってたんだ」
「えーっ? 兄さんメッセージ送ってたのー? 家入っとけばよかった」
投げやりな声の美代だが、僕には義母の視線の方が気になった。
ニタリと歪んだ義母の口元。僕と美代が仲良くなるのは、彼女にとって好都合なのだ。下卑た笑みが気持ち悪くて、僕はそそくさと部屋に向かう。
「あ、兄さん。あとで部屋に行くから」
「……そう」
それだけ言い残して、僕は部屋に入って行った。
◇
1時間が経って、午後8時半。
僕がダンベルを上げ下げしているところに、美代がノックもなくやって来た。来て早々にげんなりして、僕の顔を見る。
「うわぁ……それはないよ、兄さん。自分の顔鏡で見なよ、筋トレするような人じゃないじゃん」
「……日課なんだけど」
「10kg片手に持ちながら、普通に言われるとね……。というか、どこにそんな筋肉があるのよ、ほんと」
まったくと言わんばかりの偉ぶった美代だが、僕はもやしと呼ばれる人の二倍は腕が太い。毎日鍛えてるから、当たり前だが、手首は誰でも細いから、普段からはわからないだろう。滅多に半袖着ないしね。
「……お小言は聞き飽きたよ。それで、何の用?」
ダンベルを置き、僕はベッドに座った。美代は勝手に僕の机の椅子に座ってこちらを向く。
「晴子さん、中学生の頃から凄い人だったし、名前は私でも知ってる。実際に会って、びっくりしちゃったよ。何もかも見透かされてるみたいで、怖かった」
「……全部は見透せてないよ。憶測でしかない。……君が本心を話してくれれば、手っ取り早いんだけど……?」
「……わかってないなぁ、兄さんは」
美代の声が低くなる。悲しみに満ちた声、その弱々しい独白を、僕は聞いた。
「――人間、本音を言うのが一番難しいんだよ。人間関係なんてただのお飯事。他人に気に入られるように、人は平気で嘘を吐く。それで人間関係がうまく行くなら、尚更ね」
「……君は、自ら人間関係を壊そうとしてるじゃないか。普通にしてれば仲良くできるものを、僕等に疑心を持たせ、僕等を惑わせている」
「だから辛いんだよ……」
「…………」
美代はくるりと回って向こうを向いてしまう。涙声での独白はまだまだ続いた。
「本音を言って嫌われるのはわかる……でも、嘘を言ってわざわざ嫌われないといけない……。私には、それは辛いんだよ……。そんなにッ!! 私は、強い人間じゃない……!」
「…………」
「それでも、私の役割だから……。もう後戻りできない、このことはずっと前から決まっていた。だから――」
突如、美代の肩が落ちた。力が抜けきり、項垂れている。不意に、彼女は椅子を回して僕の方を向いた。その顔に、涙は流れていなかったけど、目頭は赤くなっていた。
「……ごめん。どうせ意味わからないでしょ。忘れて」
「……まぁ、君も色々苦労してたんだって、それだけはわかったよ」
「うん……」
美代は立ち上がり、とてとてと歩いて僕の横に腰を下ろした。体を僕の方に傾けながら、話を続ける。
「ねぇ、兄さん? 私達は、あまり仲の良い兄妹じゃない。それはもちろん、お互いが連れ子だし、距離感がわからないのも仕方ない。全然話もしなかった。だけど、私は兄さんのこと、たくさん知ってるよ。生活リズムはよくわかってるし、趣味とか勉強とか、勉強してるときに誰かと通話してるとか、寝るときはいつも右手を肩より上に上げて寝てるとか」
「……なんで寝相のことを知ってるのかな?」
「ぎゃぁぁぁぁああ!!! 頭を鷲掴みしない!」
夜な夜な部屋に忍び込んでたらしい義妹の頭を掴むも、ぽんぽこ叩かれるので手を離す。まったく、常識のない義妹だ。いろんな意味で。
「……まぁとにかく、私は兄さんのこと、たくさん知ってるの。過去に何があった、とかもね」
「……そう」
「でも兄さんは、どうせ私の過去なんて知らないんでしょ? ううん、中学生の時の兄さんに、私の過去を知るほどの余裕はなかった。だから、知らないのも仕方ない」
さもそうであるかのように美代は口にする。実際、その通りだった。昔の僕に美代のことを知る余裕はなくて、未だに何が好きで何が嫌いかもわからない。食べ物なら、わかるけど……。
「……じゃあ、何? 今から過去を話してくれるの?」
「やーだよっ。兄さんは私なんてどうでも良いんでしょ。だからお話ししてあーげないっ」
「…………」
ふてくされて美代はベッドに頭を埋めた。きっと、僕の態度が気にくわないのだろう。もっと「聞きたい聞きたい!」って積極性を出せば良いんだろうが、正直、まともに話してくれるとは思っていない。信用できない言葉を聞くだけ無駄だろう。
「……そのうち、君の思惑が失敗したら聞くよ。本音で話し合える頃に、ね……」
「兄さんはずっと本音じゃん。あーあ、ラクに生きれるっていいよね」
「……本当にそう思う?」
「……ラクではないね。心の負担はある。でも――今ある負担は、死ぬほどじゃないでしょ?」
「…………」
確かに、今ある心の重みで自殺することはない。だけど、それは多くの人がそうなんだ。死にそうな思いをしても、ギリギリのところで自殺には至らない。そうして生き残ってしまった人なんて、いくらでもいる。
僕もその1人だから、よくわかる。
「……死にそうな状況に陥って、初めて限界がわかるんだ。そして、死ぬ気って言葉がどんなに軽いかも。……ねぇ、兄さんは死ぬ気で生きてる?」
美代の質問には、答えられなかった。毎日同じリズムで、毎日知能と体を鍛えている。死ぬ気と言えるかもしれない。無駄な時間なんて殆どないから。でも、その努力がなんのためと言われれば、死ぬ気ではないだろう。僕は、ただ単調に自分磨きをする機械に過ぎない。作業しているだけの機械に誰が関心を向けるだろう?
それを、生きてると呼ぶのだろうか?
「……ごめんね、意地悪だった」
美代の手が僕の頭に伸びる。年下の少女の小さな手が、僕の頭を優しく撫でた。
「……私だって、命懸けで生きてるなんて全然言えないもん。だから、ごめんね……」
「……別に、そんなに頑張って生きなくたっていいだろう? 君は黒瀬美代、ただの女子高生……それの何が悪い……?」
「…………」
美代は、僕のお腹に頭を埋めた。
細い両腕を回し、抱きしめてくる。
「……根暗なくせに、無駄に優しいよね、兄さん」
「失礼千万……君だって優しいから、そんな押しつぶされそうになってるんだろう?」
「……そう。私は優しいんだよ。バカ兄さん」
「……うん」
人に嫌な思いをしたくない、そんな美代の気持ちがわかった。それでも、彼女は自分に何かしら天命を与えられたから、それをこなすのだろう。
しょうがないから、その天命を乗り越えてやろうと、妹の頭を撫でながら思うのだった。