intermission-9:死への対応
晴子は珍しく競華と2人きりで学校の屋上に佇んでいた。競華と2人きり、というのも、屋上にいる、というのも、どちらも晴子には馴染みない事象だった。
ならばこの場所に来る理由は1つ、競華に呼ばれたからだった。
「この世の物は皆、一様に朽ちる」
競華はフェンスに手を掛け、暮れゆく夕日を見ながら語り始める。逢魔時には相応しい話題に、晴子はフッと笑った。
「――人は死に、物は錆び、壊れ、木々は枯れる。全ては海や大地に返され、偉人と呼ばれるようなものでなければ、誰の記憶にも残らずに忘れられる。死は忘れられることで初めて完成するのだ。墓など立てても、忘れられれば意味は無い……そう思わぬか?」
競華の問いかけについて、晴子は整然とこう返した。
「人の死は、堪え難いほどに悲しいのだ。その人の無念が伝われば伝わるほどにね……。ならばせめて、死後の国があると信じ、そこで死者が幸せであると願う。そういうものさ。そうやって不確かな幻想を信じ、心にゆとりを持たせる事によって、人は忘れるという段階を踏むことができる。人の痛みを知りながら、忘れることなどできぬからね」
「だが、人間は忘れないようなシステムができている。墓の掃除を定期的に行うだろう? そうでなければ、バチが当たるからな」
「ふふっ……そんなこと、微塵も信じてないくせに」
バチが当たる、競華はそんな事信じていないし、神様の存在も信じていなかった。信じているのは自分の技術と、経験からの信頼。それ以外は興味がないし、たとえ人が死んだとしても、死者の国に行くなんて考えてない。
「死は死としてそこにある。他には何もないさ。貴様は、子供の頃に遊んだオモチャの事を覚えているか? お気に入りのオモチャでさえ、壊れれば直せず、捨ててしまう。そうやって捨ててきたオモチャを、一々悲しんだりするか?」
「そんなの、10年ぐらい昔の話さ。一々思い出して、感傷に浸る事もないよ」
「だろうな。オモチャとは子供用だ。成長した我々は、子供の頃ほどの喪失感を感じない。時間が経てば忘れてしまう。しかし、人間を失う事は違う。オモチャはずっと子供用のままだ。だが、人間は我々と同じように時間変化する。だから、共に築けたかもしれない未来を想像できてしまう。"もしこの瞬間にも、彼が生きていたなら――"。そんなありもしない、未来をな」
そのような言葉に、晴子は短く付け加える。その声音はいつもよりもずっと低いトーンで、悲しみを孕んでいた。
「……人は、人の死の痛みさえも忘れ行くものさ。そうでなければ、いつまでも挫けたままじゃないか。――葬式をせねばならんのだよ。それは大きな家や寺で親戚を呼び、辛い記憶を刻むこととは別に、自分の心の中で、死者と別離の儀式を行うのだ。でなければ、死者に足を引っ張られるのだよ……」
「幸矢みたいにな……」
「……どうだかね。彼はもう、4年前の事に決別をつけてるんじゃなかろうか。そんなに弱い人じゃないだろう?」
「決別できるかどうかは、"どれだけ死者の生前に依存してたか"と、残された者の"精神"による。12歳で家族を半分失ったんだ、強い、弱いはあまり関係ないだろう」
「……まぁ、昔の話だね」
競華の語る精神論は、4年前の事だった。今は違う。時間が経って、多少幸矢の心も変わってるのだから。
しかしながら、死によって物を失う際、その時の年齢によって心構えが違う。だから晴子は、顎に手を当ててこう言った。
「幼少期の友人の死は、心を大きく傷つける。しかし、老人になるまで共に生きた友人、家族死んだとしても、それは歳のせいだと、仕方ないと諦められるんじゃなかろうか?」
「そうだな。長く一緒に生きた、もう十分。そんな気持ちもあるかもしれない。いつ死んだっておかしくないからとか、そう心に区切りをつけられる。それでも、悲しいものは悲しいものだろう」
「傷が浅いか深いか……若者は致命傷を受けやすいからね。失うという事に慣れてない。充足してきたからこそ、当たり前のようにある何かが無くなったときとき、立ち直るのが難しいのさ」
「――自虐か?」
競華は刺すような言葉で問うた。充足しているから失った時に辛い――それは晴子自身にも当てはまる事。何もかもを満たしている晴子が何かを失った時を、彼女は危惧していたのだ。
晴子は鼻で笑い、答える。
「私は、人の上に立つ人間。先導者が倒れてしまえば、最後尾までドミノ倒しになる。そんな悲劇を起こしたくないから、私は何があっても倒れぬよ」
「……プライドが、貴様を支え続けるのだな」
「それが先ほどキミが言った”精神”というやつだろう? 私は、普通よりも真摯に人生を生きてきたと思う。今までに気づき上げたものがあるからこそ、簡単に挫けたりはしないさ」
「……それが本当なら、よいのだがな」
憂さの残る声で、儚く競華が呟く。知人の死を悲しまない人は滅多にいない。晴子は賢いだけであって、感情は人並み以上にあるのだ。世界をよくしたいと考えてる人間なのだから、人の死は悲しむだろう。
それさえも超えると宣言する晴子に、疑念を抱くのは仕方なかった。
強い人間であると、わかっていても――。
「死は心構えかい? 近年の死生学の方がもっと詳しく物語ってるよ?」
「死を受容することについてはな。貴様の見解を知りたかっただけだ」
「はははっ。聖者に死を語らせたいのか。まぁ、たまにはよいだろうね」
晴子はからからと笑うと、睨む競華がさらに問いかける。
「人は、痛みと死の2つを必ず恐れる。貴様であっても恐れるだろうな。しかし例えば、その死や痛みが”仕方ない”と受容できるならば、恐れることはないだろう。貴様はどうだ、晴子?」
「予想外なもの以外は受容しているよ。交通事故に巻き込まれて足を骨折、みたいな場合は、受容しきれるかわからないけど。理不尽な痛みや死が、この世界にはたくさんある。そのすべてを受け入れることなんて私でも難しいさ」
「理不尽というなら、死より理不尽なものなんてないだろう。我々は生まれながらにして死を約束されているそれなのに人間は人間を生み出していく。人が人を生むことで未来ができていくわけだが、皆一様に死ぬのだから、悲しみだけが無限に続いていく。凄惨な世界だ」
「それはどうかなぁ……」
競華の意見に、晴子はぼんやりとあいまいな返事をした。ゆっくりとその場を歩きながら、オレンジに輝く夕日に目を向ける。
「私は人が死んでまた生まれるこのサイクルを、悲しいとは思わない。人の人生は一冊の本だと、よく比喩されるだろう? 本には、必ず終わりがある。その中身は人によりけりだろうが、かならずドラマがある。悲しい人生もあるだろう。辛くて何度も涙を流した人生もあるだろう。人が戦ってきた証が、多くの本に刻まれているはずだ。それを”つまらない本だった”とバカにするなんて、私にはできない。人生に満足できない人なんてごまんといるだろうけど、その人生だってこの世界にあったから誰かに影響を及ぼして、その生には、意味があったはずだから……」
「…………」
晴子はさらに言葉を続ける。
「私という人間がいるのも、多くの人と関わってきたからだ。私と話してくれた人、支えてくれた人、頼りにしてくれた人、全てのおかげで私は悲しい人生であっても、その人がいたおかげで、他の人間が何らかの影響を受けられる。だから人が死ぬのは悲しいというよりは、生まれた方がいいと思うのだ」
「…………」
競華は何も言わず、自分のスクールバックを手に持って屋上の出入り口の方へ歩いて行った。
「……競華くん?」
「帰る。歩きながら話そう」
「ああ……」
晴子もカバンを持ち、競華に続いて屋上を後にした。階段を降りる靴音だけが響き渡り、会話はない。昇降口を出た所でポツリと、競華は呟いた。
「人間は知能がある分、損をしているかもしれないな。同種族の死体を食べる動物もいるし、仲間の死体を投げる動物もいる。我々に知能がなければ、死んだ人間を悲しんだりせず、もっとぞんざいに扱えただろうに」
「私はそれで良いと思ってるよ。悲しむことは、とても人間らしい事だ。他人を思いやれるから悲しめる、悲しむことすらできないのなら、優しさすら欠陥した事だろう」
「ほう。私は優しくないと思うが、知人の死は悲しめるつもりだ。優しさと悲しさが結びついてるとは思えんが?」
「不器用なだけだとわかってるよ」
「よせ、気色悪い」
晴子から2、3歩距離を置く競華。競華だって、いろいろと人の手を焼こうとする。幸矢にも晴子にも、快晴にも、何度も手を貸してきた。口は悪いが、その親切心は隠しきれない。
「人間というのは、大抵のことは損得勘定で分別できる。キミは私が死んだとしても、割り切ったなら、損得勘定なのだろう。でも割り切れないほどの友情を抱けるから、人間は機械や動物を超えてるのさ」
「なら、私はまだまだ人間未満だ。他人の死にいちいち感動していられないからな」
「感動ばかりだと疲れてしまうから、それも丁度いいだろう」
人死にの全てに涙を流していては慣れてしまうし、疲れてしまう。そんな苦しみは避けたいから、親しい友人の死だけ涙すればいい。現実の人間は我々が考えるよりずっと人間未満なのだから、それで良いのだろう。