狗神の名
手燭を持った巫女の後を二人は静かに着いていく。この後は、確か斎部屋で一晩過ごしてから、明日の朝に狗神の社へと向かうと聞いた。
一晩、見知らぬ男性と初めて過ごすにも関わらず、千春は緊張していなかった。
ただ、穏やかな不安がそこにあった。
狗神の後ろから千春は彼を眺める。身長は見上げる程高い。
……今日から、わたしはこの人の……。
千春は俯いた。彼は神だ。
だが、自分の想像していたものとは、全く違う。
ごく普通のそこらに居るような少年のようだ。十六歳というのだから、年の頃合は変わらない。それでも、やはり普通の人間とは違う雰囲気が伺えた。
……普通の人みたいなのに。
そのような事を思っているうちに、自分が昨日の夜を過ごした斎部屋に着いていた。通されたその場所には二人分の布団が並べられて敷かれていた。
「こちらが寝所となっておりますので……何かあればそちらの鈴でお呼び下さいませ。明日、また起こしに参ります」
手燭の炎を行灯へと移し、巫女は頭を下げて戸を閉めてから出て行った。布団の上には寝着と思われる、それぞれの白い衣が置かれていた。
この後はどうすればいいのか迷っているうちに、狗神がこちらを振り向いた。その瞳はまるで、自分の全てを射抜くかのように鋭いものだった。
だが、その鋭さの中に何か違うものが一瞬だけ見えたようにも思えた。
「……どうして、来たんだ」
低い声が響く。
自分に尋ねたのだと気付くのに少し時間が掛かった。
「えっ……?」
「何故、自分の元へ来たのだと聞いているんだ」
彼は神のはずだ。
それにも関わらず、どうしてそのような事を聞くのか分からなかった。
「そ、その……」
「贄として指名されのか」
相変わらず目線を逸らそうとしない狗神に、千春は無言で固まるしかなかった。
「……そうか」
千春の無言を肯定と受け取ったのか、狗神は静かに溜息を吐く。
「名を聞いてもいいか」
「あっ……ち、千春です」
「千春、か」
戸惑いながらも、何とか答える事が出来た。
名前を呼ばれるのは慣れているはずなのに、何故か心の奥がくすぐられる感じがする。
「あのっ……狗神様……」
「違う」
千春の言葉を狗神は遮る。その厳しい声に千春は身を縮め、肩を小さく震わした。怒ったのだろうか。
もし、何か気分を害す事をしてしまったのなら、謝らなければならない。
そう思い、口を開きかけた時だ。
「雪登」
その場にはっきりと残る声で告げられる。
「私の名は雪登だ」
真っ直ぐと千春を見て、そう答える。
先ほどよりも、視線は鋭くない穏やかな瞳で。
「『狗神』は名前ではない。ただの呼称だ。私の名前は簡単に人に呼ばれてはならないからだ」
村人も神主も皆、「狗神様」と呼んでいた。そこには「神」への敬意と畏れが含まれている。勿論、今までの自分なら、彼らと同じだった。
それでも、今日からは違う。
「ゆ……雪登、さん……」
「そうだ」
表情を変えずに、雪登は頷く。
自分だけが、その名前で呼んでもいいと訴えるように。
「……私はもう寝る。明日、社までかなり山を登るから今日は早めに休んだ方が良い」
そう言うと、雪登は穿いていた袴を脱いで、そこらに捨てるように置いてから、敷かれた布団の上へと体を投げ出すように寝始める。
「…………」
千春を見ないようにと向こう側を向きつつ、寝そべる雪登を千春は黙って見ていた。
その後ろ姿は紛れもない人間とは違う異形の姿。それでも、彼の言葉一つ一つに心が揺れるのは何故だろうか。
「……おやすみなさいませ」
それだけ告げて、千春も寝る準備を始める。
月が空に昇り、風の冷たさが和らぐ、静かな夜だった。




