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神婚の儀


 神社の奥の間で、神婚の儀は行われようとしていた。


 静かに揺れる灯りの下で、千春は白装束に赤い袴を着せられ、さらには長い髪を肩下辺りでゆったりと括られる。頭には金装飾の冠を載せられて、ただ、黙って口を一筋に結んで座っていた。


 もうすぐ、来る。

 

 自分の右隣に、一つの席が設けてある。ここに座るのだ。

 薄暗いこの空間で、時を待つのは本物の時間よりも少しだけ長く感じられた。


 耳の奥にちりん、と鈴の音が響く。

「―――狗神様のお見えです」

 戸の近くに控えていた巫女が静かに告げて、そっと戸を開けていく。外はすっかり日が沈み、宵の色へと染まっているのが見えた。

 そこに黒い影が一つ現れる。心臓がどくん、と跳ねた。

 はっきりとは見えないが、ただ背が高く、体は細いという事だけが影から分かった。

「こちらのお席へ……」

 巫女の促す声が聞こえ、千春はゆっくりと隣を覗くように見てみる。

 灯りの下に照らされるその顔は自分の想像していたものは全く違っていた。


 ……人、だわ。

 

 肩上に切られた黒髪、切れ目で思わず見惚れるほど整った顔立ち。年は十六歳と聞いていたが、本当に自分と変わらないくらいの年齢の風貌だ。

 だが、一つだけ「人」とは違うとするのなら、それは耳だった。彼の耳は黒い犬のように真っ直ぐと立ち、とても柔らかそうな耳をしていた。

 千春の視線に気付いたのか、「狗神」は前に向けていた顔を目線だけ、千春へと向ける。

「―――っ」

 一瞬、目が合った。

 重なったその視線の奥の瞳に飲み込まれてしまいそうなくらい黒い瞳をしていた。


 ………綺麗な瞳。

 

 自分が今まで見た中で一番美しいと思った。

 何も知らなさそうな無垢で、純粋で、でもどこか神秘的で。


 ……この人になら、食べられてしまっても後悔しないわ……。


 そう思い、軽く目を閉じた。

「――それでは、神婚の儀を始めさせて頂きます」

 神主の低いしわがれた声がその場に響き、巫女によって鈴が三度鳴らされる。

 神主は狗神と千春の前へと座り、深く頭を下げてから、懐から取り出した懐紙を広げて祝詞のようなものを詠唱し始める。

 

 神婚の儀。

 それは、神との結婚を意味する。


 千春は静かに覚悟した。

 でも、彼は?

 この隣に居る「狗神」は自分を受け入れてくれるだろうか。胸の中で何かがざわめき、頭が楽器のようなものを間近で鳴らされているかのように響いて痛い。

 そして、いつの間にか握り締めていた拳には、自分の爪が指に食い込んだ痕が出来ていた。

「杯をお交わし下さい」

 どうやら、祝詞は既に終わっていたらしい。自分達の目の前には巫女によって杯に注がれた酒が置かれていた。

 狗神がそれに手を伸ばし、最初に一口だけ飲む。

 そして、千春の前へと杯が置かれた。


 ―――これを飲めば、神婚の儀は終わる。そして、「狗神」の妻となるのだ。


 もう、「人」には戻れない。人に戻れないなら、いっその事、「千春」として。

 たった個人の人間として、どうかこの方が自分を受け止めてくれますように。


 それだけを願い、千春は杯を取った。迷わずに杯に口を付けて、ゆっくりと一口だけ口へ含める。 酒を今まで飲んだことが無い千春にとっては、これは初めての味だが、これから一生飲むことは無いだろう。

 すると、それを見ていたのだろうか。隣の狗神は少しだけ、目を丸くしていたようだった。

 だが、彼も自分の前へと戻された杯を掴むとそのまま片手で一気に残りを飲み干してしまった。

 

 暫く、沈黙が流れ、巫女が鈴を三度鳴らした。

 目の前に玉串を持って座っている神主は穏やかな表情をしていた。

「これにより、全ての神婚の儀を終わらせて頂きます」

 深々と頭を下げて、こちらへ背を向けないように神主はそのまま後ろへ下がり、もう一度頭を下げてからこの部屋から出て行った。

 その後ろ姿を遠くのものを見るように少し呆然を見つめていた。頭の中がぼんやりする。

「……では、斎部屋へとご案内します故、どうぞこちらへ付いて来て下さいませ」

 巫女に起立を促され、狗神はすっと立ち上がった。それに続くように千春も慌てて立ち上がる。


   

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