雪とけて、春きたる
千春がこの社に帰ってきてから、いくつかの日々が過ぎ、とうとう愛宕山の天狗達を交えてのお花見の日になっていた。
「雪登さん、お花見用の料理、このくらいで足りるでしょうか?」
積み上げた重箱には二人で作った様々な料理が詰め込まれている。二人で運ぶのは大変なので、後から動物達が手伝いに来てくれるらしい。
「そうだな……足りない時は伊鷹が買い出しに行くだろう。あいつは一番下っ端だから、毎年、買い出し組なんだ」
「まぁ……」
千春は小さく笑っていると、戸の向こう側から声が掛けられる。戸を開くと、この前と同じように竹籠を背負った神主がそこに居た。
「おはようございます、神主様」
「おはよう、千春ちゃん。先日は大治郎の奴がすまなかったね……」
あの後、大治郎は腰を抜かしたままの状態で家人に見つかったらしい。
そして、千春を妾に寄越せと言っていた商家の大島から不満を買ってしまい、旅籠屋の経営の他に別の商売の方も上手くいかないなど、荒れ捲くっているのだと聞いた。
因みに、その後の大治郎は狗神という言葉を聴いただけで、震え上がるとか、何とかと噂で耳にした。
「いえ……もう、過ぎた事ですし……」
そう、過ぎた事となった。
自分があの場所に戻る事は二度とない。
「神主か、おはよう」
雪登も神主の前へ出てくる。
「あぁ、おはようございます、狗神様……。先日は倉野屋の大治郎が失礼を……」
「いや、それはもういいんだ。それより……」
「はい。ご所望のものは出来ておりますよ」
そう言って、神主は雪登に何か上等そうな布で包んだ物を渡した。そして、もう一つの包みを千春へと渡す。
「こちらの籠にはいつものように、供物ですが……そちらの包みには、菓子が入っております」
「菓子とは……珍しいな」
「えぇ。今日は愛宕山の方と花見と聞いておりましたので、団子や饅頭、羊羹、桜餅などを……」
どっしりとした大きい包みの中には、自分が今まで食べたことのないものが入っていると聞いて、千春はつい、目を輝かせる。
それを見て、神主も嬉しそうに笑った。
「今の時期の桜は見事だと思います。どうぞゆっくりとお花見を楽しんできてくださいませ」
「わざわざ、ありがとう。向こうの奴らもきっと喜ぶだろう。あまり、こういう菓子に縁が無いものばかりだからな」
「では、私は戻りますので……」
神主が頭を下げ、空になった竹籠を背負って山を下っていく。その姿を見送ってから、千春は大事そうに持っていた包みを重箱の隣へと置いた。
「千春」
「はい」
振り返った先の雪登の顔は少し、頬が赤くなっているようだが、一体どうしたのだろうか。
「これを……着ていくといい」
「え?」
差し出されたのは、先ほど神主から受け取っていた布の包みだ。千春はそれを手にとって、そっと包みを広げていく。
そこで、息を呑んだ。
そこにあるのは桜色の着物だった。布地には白や金の糸で、鮮やかに桜が散りばめられるように刺繍されていた。見て分かるほど、新しく、肌触りも心地良さそうな着物だ。
「あ……あの、これ……」
千春は目を見開いたまま、雪登の方へ勢いよく振り向く。
「……このような日くらい、晴れ着を着せてやりたくてな。神主に頼んでおいた」
目を合わせようとはせず、ただ、淡々と話す。それでも、自分のためにこの着物を頼んでくれていたという事は、聞かなくても分かった。
「そなたに似合うと思ったんだ。その桜色が」
恐らく、自分が知らない間に神主とどのような着物にするか遣り取りしていたのだろう。
少し、照れながら話すその姿が愛おしくて、千春は雪登の胸へと飛び込むように体を預けた。
「っ、千春……」
「ありがとうございます」
その暖かい胸の中で、千春は着物を大事そうに抱きながら、はっきりとした声で呟く。
「雪登さん、本当に……本当にありがとうございます」
彼は自分が古着しか持っていない事を知っているのだろう。
そして、持っている着物自体、生地が汚れたり、古過ぎてしまっているものばかりだということも。
だから、今日の日のために仕立ててくれたのだ。
自分が初めて、「狗神の妻」としてお披露目されるこの日のために。
「凄く、嬉しいです。……これ、着ていきますね。あと、この前の簪も挿して行きます」
彼の腕の中で、千春は真っ直ぐ雪登の瞳を覗き込むように見ながら、言葉を伝える。
「……そうか」
戸惑いながらも、雪登は微笑を浮かべた。ぎこちない感じはするが、最初に会った頃よりも彼はよく笑うようになった。
そして、自分によく触れるようになった。
「―――千春」
名前を呼ばれ、千春は小さく微笑んでから目を閉じる。彼の右手が頬を伝うように、優しく伸ばされる。
あとは、その優しさが降ってくるのを待つだけだ。
二人の小さな幸せな時間を暖かい春風が包み込んでいた。




