幸福のはじまり
目を覚ますと、いつの間にか布団へと寝かされていた。両手を布団から出してみると、そこには白い布がぐるぐるに巻かれている。
きっと、自分が眠ってしまっているうちに、雪登が手当てをしてくれたのだろう。
「起きたか」
雪登の声の方に千春は頭を向けて、ゆっくりと体を起こす。
「すいません、運んでいただいて、ありがとうございます」
窓の外を見ると月は天辺まで昇っており、すっかり夜中だった。
「簡単に食べられるものを作っておいた。夕飯、食べていないだろう」
「あ、そうでした……そういえば、捕まっている時はそれどころじゃなくて、お腹空いているの忘れてました」
差し出された椀には、春の野菜が刻み込まれて作られた雑炊のようだ。いただきます、と一言添えて口へ運ぶと、あまりの美味しさについ笑顔が綻ぶ。
それを見て安堵したのか、雪登も千春の傍らに座って、自分の分を食べ始めた。恐らく自分を探す事に専念していて、食べる事さえ忘れていたのだろう。
それくらい、必死に探してくれていたのだ、雪登は。
「あの、雪登さん……」
「ん?」
「探してくれて……助けてくださってありがとうございました」
千春は椀を置いてから、深く頭を下げる。一瞬、戸惑ったようだったが、雪登も食べかけの雑炊を傍らに置く。
「……すまなかった。私がここに居れば安全だと過信していたせいで、そなたを危ない目に合わせてしまった」
「そんなっ……わたしの方こそ、ご迷惑を……」
顔を見る事が出来ずに、千春は視線が交わらないように頭を下げる。
「……大治郎は一体何の目的でそなたを捕らえたんだ」
「それは……、そのわたしを……気に入ったという方が、いらっしゃって……」
その言葉だけでも、雪登の表情は硬くなる。
「その方がわたしを妾としてご所望なさって、倉野屋の旦那さんはそれを取り計らうように、五十両でわたしを……」
続きの言葉が出なかった。
目の前の雪登の表情がだんだんと怖くなっていくからだ。
「最低だな、その大治郎という男は」
吐き捨てるように雪登は告げる。
「それで、どうして頬を殴られたんだ。痕には残らないと思うが、暫くは腫れたままだと思うぞ」
頬には何か塗り薬のようなものが塗られていた。
きっと、これも雪登が自分で作ったものだろう。
「……自分はあなた様の妻だと、申したのです。妻だから、そのように勝手に婚儀を勧められても迷惑だと……そう告げたら、殴られてしまって」
それでも、大治郎にそう告げた事は後悔していない。
痛みなんて、今、目の前に居る人の抱えたもの比べたら小さいものだ。
「でも、そんな事はどうでもいいんです。本当は、色んな事に反論しても、あの人は聞く耳なんて持ちません」
大治郎はそういう人間だと知っている。
それでも。
「……村人の善意で生かされた犬だと……獣の血が混じった穢れた一族だと、あなたをそう侮辱されたのに何も出来ない自分が一番、悔しかったんです」
千春の頬にはいくつもの涙がゆっくりと流れ始める。
「ごめんなさい……何も、あなたのために、何も出来なくて……」
彼のために、出来る事なんて、なかった。
自分はただ、助けられて、守られてばかりで。
「……そなたが謝る事は一つもない」
雪登は大切なものに触れるように、そっと千春を抱きしめる。
「ありがとう。千春のその言葉だけで十分、私は救われている」
優しい匂いが、懐かしく思えた。
この社に、彼の傍に帰ってこられたのだと、実感する。
「……この村は都への疫神や厄神が通らないように防ぐための村だという事は話していたな」
「はい……」
「もともと、狗神は山神と人が交わって生まれた子だった。その外見は白い髪に耳と尻尾を持ち、神の力を備えた少女だったらしい」
ぽつりぽつりと、まるで昔話をするように雪登は耳元で語り始める。
「そんな子どもを人々は蔑み、禁忌の子として忌み嫌った。やがて、彼女はこの社へと閉じ込められた」
それが、狗神の始まりだという。
「だが、疫病がこの村を襲った時、彼女はその力を揮って、一人で疫病を治め、その事を称えられて『狗神』とされた。そして、人々は考えた。『狗神』の力があれば、この村は安泰だと」
一つ一つ語られるその言葉が、胸に響く。
「それから、村人は狗神となった彼女のもとに、男を生け贄として捧げた。やがて、二人の間には狗神の姿と同じ子どもが生まれた。その子どもも成長し、対なる人との間に子どもを儲けた……私のこの血はずっと、そのようにして繋がって来たんだ」
大治郎が言っていたように、過去の村人達は狗神を永遠にこの社に繋ぎ止めようとしたのだ。彼らの一生を生け贄として捧げる事で、平穏を維持しようとしたのだ。
ひどい、と思った。
そこに、幸せなんてあったのだろうかと。
「狗神が子どもを生むと必ず、私と同じ姿の者が生まれてくる。同じ、神たる力を持った者が。だから、私はそれを……自分で終わりにしたいと思っていた」
雪登の言葉に千春は思わず、彼の顔を覗き込むように見る。そこには自嘲のような笑みが浮かんでいた。
それが途轍もなく悲しかった。
「まるで、自分達の方が生け贄だと思った。永遠にこの村の、この社で飼われて、ただ、村の安寧のためだけに生きていく……こんな村なんて、守る価値がないと思っていた」
千春を雪登は更に強く抱きしめる。
「でも、そなたが居た」
雪登は千春の頭を優しく撫でる。とても心地いいと思った。
「千春が居るから、守ろうと思ったんだ」
千春はいつの間にか彼の着物をぎゅっと握っていた。ただ、真っ直ぐ見つめてくるその表情に動けず、魅入っていた。
そうだ。初めて会ったあの時もそうだった。確かに自分は驚いていた。
でも、それ以上に魅入っていたのだ。彼の全てに。
「もう、そなたを絶対に傷付けさせたりしない」
逃す獲物は無い獣のように鋭く真剣な瞳で、でも、どこか穏やかに雪登はその言葉を続ける。
「だから、これから先も隣で守らせてくれないか」
嬉しいと感じるこの心は、一体どこから来るものなのか。
でも、そんな事はどうでもいい。
ただ、自分はこの身の全てを彼に託すだけだ。
これから先、永遠に。
この身、この心の全てを彼に捧げればいい。
「……はい」
千春は涙を流しながら、笑みを浮かべる。ただ、嬉しさだけを表すように。千春の表情を見て、雪登も優しく微笑んだ。
自分が今まで見た彼の表情の中で、一番幸せそうな笑顔で。
「ありがとう、千春……」
雪登は左頬にそっと触れる。千春はただ、目を閉じた。
自分の唇に、柔らかいものが触れ、小さく震える。優しいその口付け一つで、胸の奥が幸せでいっぱいになっていくのが感じられた。
この幸福が現実なのだと、これからも続くのだと、千春はそれを初めて実感したのか、静かに涙を零していた。




