狗神の力
闇夜が染まるその中で、千春はぐったりと体を柱にもたれ掛かっていた。月の明かりが窓から差し込む。
今、どのくらいの時間だろうか。本当だったら、今日の晩は伊鷹から頂いたお酒で雪登にお酌していただろうに。
何気ない日々がある。それだけで十分に幸せだった。
―――これから、自分はどうなるのだろうか。
ふいに不安が頭に過ぎる。
例え、相手が誰であっても、雪登でなければ幸せなんて意味がない。
「――っ……」
蹴られたお腹も、張り飛ばされた頬も、それよりも胸が痛んだ。
苦しくて、ただ苦しくて。息が出来ないくらいに、胸が窮屈だった。
その時、場に合わない声が響く。
「千春さまっ!」
その声に、千春はばっと窓の方を見る。窓枠を必死に掴んでこちらを伺っているのは、ぽん吉ととの子だった。
「ぽん吉、との子……どうして、あなた達が……」
外の見張りに気付かれないような小声で千春は話しかける。二匹は何とか、窓枠の隙間に無理やり体を捻りこむようにして、暗い部屋へと入ってきた。
「狗神さまが、千春さまを探してほしいって」
「え……」
「すごい怖い顔で、お願いされたの。狗神さま、いっぱい心配してたよ。今は黒羽さんが狗神さまを呼びに行っているから、きっとすぐにここに来てくれるよ」
「そ、う……」
やはり、探してくれていたのだ。
嬉しくて、申し訳なくて、涙が出そうだった。
「今、縄を切ってあげるから、待っててね!」
ぽん吉ととの子はすぐに自分の手首を縛っている縄を噛み切り始める。
「うわ……この縄、すごく硬いよぉー……」
「かなりきつく、結んである……千春さま、大丈夫?」
がしがしと勢いよく噛み続ける二匹を千春は心配そうに見つめる。
「え、えぇ。あなたたちも、無理しないで……。歯を痛めてしまうわ」
「平気だよ! これより硬いもの、食べたりしているもん……あっ、切れた!」
ぱらり、とその場に縄の塊が落ちる。
「ありがとう。後は、自分で……」
だが、足首に結ばれている縄と腹に巻かれている縄はそう簡単には解けそうにない。
「あっ……千春さま、手首が……」
自由になった手首を見ると、そこにはくっきりと縄の痕が残っており、擦れたせいもあって血が出ていた。
「平気よ。それより、こっちの縄を早くどうにかしなきゃ―――」
その時、怒号が扉の向こうから聞こえた。
「おいっ! 何を話しているんだっ!」
見張りだろう。自分が二匹と会話している声が漏れてしまったのかもしれない。
がちゃり、と鍵が開く音が聞こえ、扉が開きかける。
千春は瞬間、全身が冷たくなるのを感じた。
「っ……! 二人とも、今すぐわたしの後ろに隠れて!」
「は、はいっ」
千春の背に二匹はぴったりとくっ付くように隠れる。もし、見つかればただじゃ済まされないだろう。
「他に誰か居るんじゃないだろうな?」
開いた扉の向こうに見えたのは影―――だったのだが、その影はすぐさま、前のめりで倒れる。
「え……?」
何が起きたのか分からずに、千春は目をぱちくりと瞬きする。消えた影の向こうに、違う影が見えた。
高身長で、犬のように尖がっているが柔らかそうな耳。
―――あぁ……
聞きたかった声が、その場に響く。
「怖い思いをさせて……待たせて済まない」
入口に立つその姿を、もう一度見たいと思っていた。
会いたいとそう願っていた。
「ゆ……きと、さん」
「迎えに来た。帰ろう、一緒に」
千春の前へと腰を下ろし、雪登は微笑む。ずっと、見たいと思っていたその笑顔。
それは言葉に出来ないくらいに、胸がいっぱいになるものだった。
「はい……っ!わたし、帰りたい、です……!」
目から涙が溢れる。止まる事を知らないように。
ただ、暖かい涙だけが、その感情を知っていた。
「そなたは……本当に泣き虫だな……」
彼の右手がそっと、千春の左頬に触れる。細くもしっかりしたその手は全てを包み込んでくれるかのようだった。
「ぽん吉、との子……お前達も良く千春を見つけてくれた。本当にありがとう」
千春の背中に隠れていた二匹もひょこっと出て来て、嬉しそうな顔で尻尾を振る。
「えへへー。千春さまの匂い、とっても優しい匂いだから、探しやすかったの」
自慢げにぽん吉が笑う。
「そうだな……。さて、二人は離れておいてくれ。残りの縄は私が切ろう」
「はーい」
二人が千春の傍から離れた事を確認すると、雪登は千春の縄に向かって、何かを一刀両断するかのように右手を振り上げて、そして下ろした。
ふわっと優しい風とともに、千春の体を柱に縛り付けていた縄ははらり、と落ちる。
「大丈夫か? 次は足の縄を切る」
「は、はい……」
今度は先ほどよりも、丁寧に切るつもりなのか、右手を手刀にして、縄に向かって軽く下ろした。
これもまた、あっさりと簡単に切れてしまう。
「あ……ありがとうございます」
自由になった体は所々が痛む場所があるが、我慢できる程度だ。
「雪登さん、今のはどうやって……」
「『風切り』というんだ。風を操って、物を両断する事が出来る。それより、痛むところはあるか?」
「だ、大丈夫ですっ! こういうことには、慣れていますから……」
千春は何でも無さそうに無理に笑ってみせるが、雪登にはお見通しだったのだろう。すぐに千春の腕をがしっと掴んで来た。
「ここ、怪我をしている。……頬にも殴られた痕があるのは気付いている。無理やり隠そうとするな」
真剣な表情で、真っ直ぐと見て来る雪登に千春の胸は小さく高鳴った。
彼は、本気で自分の事を心配してくれているのだ。
だから、隠してはいけないと思い、小さく頷いた。
「は……はい……」
「後で、手当てするから、あまり触ったりするな。それより、ここを出ないとな」
雪登はそのまま千春を抱きかかえながら立ち上がる。
「わっ……あの、雪登さん……」
だが、雪登は有無を言わせぬ言い方で、そっぽを向く。
「足を怪我している。そんな状態で歩かせる事は出来ない。ぽん吉、との子、お前達も私の肩に乗っておけ」
「はーいっ!」
二匹はぴょんっと簡単に雪登の肩へと飛び乗る。無事に着地した事を確認してから、雪登は頷く。
「帰るぞ」
顔を上げる、その先にある表情はとても悲しそうだった。きっと、自分のせいだと責めているのだろう。
だが、雪登が入口へと向かおうとした時、その入口は影に塞がれてしまう。
「おいっ、何だこれは……! なっ……おい、そこの奴! 一体何をしている!?」
大治郎だ。
見張りが気絶している事に驚いているようだったが、千春を抱えた雪登を見つけて、その表情は暗い中でも分かるくらいに赤くなっていく。
「貴様……何者だ!? その女をどうする気だ!!」
「あれが、大治郎か?」
「……はい」
あんな男の下で働いていた事が知られるのはあまり、喜ばしくない事だが、この状況では仕方ないだろう。
「私は狗神だ」
「なっ……」
まさかの返答にさすがの大治郎を絶句しているらしい。
「私はただ、自分の妻を迎えに来ただけだ」
その口調はあくまで穏やかだが、相手を圧倒させる何かがあった。
「そ……その女には用があってな、仕方ないが返してもらう事になった。お主には後で、新しい女を……」
「千春だけしかいらない」
はっきりと、透き通る声が響き渡る。
ぱっと、彼の顔を見る。そこにあるのは、静かな怒りだった。
「私の妻は千春、一人だ。それとも、一度神が手を出したものを今更返してもらえるなんて、思っていたのか?」
暗闇の中でも、雪登の瞳は獣のように鋭く光る。
その瞳に睨まれて、大治郎も腰が引けているようだ。
「た……たかが、獣の分際で……っ! とにかく、そやつは……」
それでも、大治郎は引こうとしない。懐に入れていたのか、短刀を取り出す。新品同然の鋭利な刃先がきらりと光っている。
やはり、彼は災いを恐れるよりも金の方が大事なのだ。
「黙れ」
低くも全てを遮断するような声が大治郎の言葉を消す。
「千春は私のものだ。これ以上彼女に手を出そうと言うのなら、私は容赦しない」
雪登は千春を左腕で抱え直しながら、右手をすっと頭上に上げる。
その瞬間、千春は何かを感じた。言葉にするのは難しいその感覚が、少しずつだが、自分達の方へと凄い勢いで向かって来る。
すると次第に建物が大風に揺らされるようにがたがた震え始めたのだ。
「なっ、何だっ!?」
大治郎は大声を上げて、何事かと天井を見上げる。千春は、ぎゅっと雪登の体にしがみ付いた。
一瞬だけ、雪登が目配せしてきた。穏やかなその瞳が「大丈夫だ」と語っていた。
やがて、建物全体が大きく横揺れし、軋む音が激しさを増していく。
そして、雪登は上げた右手をすっと、静かに下ろした。次の瞬間、大きく揺れていた建物が地響きのような盛大な音を上げてばらばらに崩れ去る。舞うように、建物だったものが木屑へと変わっていったのだ。
大きな風、いや嵐のような突風が襲ってきたかのようだった。そこに建物があったのかさえ、疑ってしまうほど、崩れ去るのは一瞬だった。
雪登の周りには全く建物の残骸がなかったが、大治郎のすぐ傍には大きな柱が倒れており、それを見た大治郎はぺたんと尻餅をついた。
彼はがたがたと震え、何かを恐れるようなその表情で雪登を見ていた。いつも威張ってばかりの大治郎がそんな表情をするのを見るのは初めてで、千春は雪登が風を操って建物を壊した事よりも、そちらの方に驚いていた。
「今後、一切千春に近づくな。そして、また傷付けるような事をしてみろ。その時はお前とお前に関わるもの全てを塵のように消す」
静かに、だが重くそう告げると、雪登はすたすたと大治郎の脇を通り過ぎていく。千春はちらり、と尻餅をついたまま動けない大治郎を見る。
何も出来ない神だと、そう思っていたのだろう。それでも、あの怯えた表情がいつか、畏敬へと変わる事はきっとない。
何も思い残す事のない千春は、少しだけほっとした様子で溜息を吐き、やがて安心してしまったのか、社に着くまで眠りについていた。




