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無力な反抗


 湿った匂いがした。

 とても、嫌な感じのこの匂いは自分も見覚えがある。


 意識が少しずつ自分のものになってくると同時に、体の節々が痛み始めてくる。

「っ……」

 体は、動かない。目をゆっくりと開けて見る。

「…………」

 ここがどこかの部屋の一室だということは分かった。それにしても薄暗い部屋だな、なんて考えているうちに頭が冴えてくる。

「ゆっ……」

 社ではないこの場所で迂闊に彼の名前を呼んではいけないと思い、唇を噛み締めるように閉じた。

 

 どこだ、ここは。

 

 自分は手足を縛られた上に、柱にも縛られて身動きが取れない。

 ふと、窓が一つだけあるのに気付き、そこから空を見る。空の色はもう、夕暮れの色に夜の色が混じり始めていた。


 ……思い出さなきゃ。


 自分がどうしてこの場所にいるのか。何が自分の身に起きたのか。

 だが、脳裏に浮かぶのは黒い影。

 そして、何故か震えるこの体。


 ―――いや、自分はこの場所を知っているはずだ。何故なら、ここは自分が最も嫌いな場所で、恐れる場所だから―――


 思い出した。

 ここは、折檻部屋だ。この柱、あの窓、この匂い。

 全て覚えている。この場所で起きた事さえ、鮮明なくらいに。


 ……どうして。


 今更になって、こんな場所に自分は居るのだろうという疑問を見つけるのに、時間は掛からなかった。

 がちゃり、と鍵が開く音が聞こえ、鈍い音をたてながら扉が開く。千春はそちらの方に目を細めながら向ける。

「……あぁ、目を覚ましたか」

 入ってきたのは紛れもない大治郎だった。

「久しぶりだなぁ、千春」

 その野太い声、何を考えているのか分からない、怪しい笑み。

「……何のご用ですか、大治郎さん」

 千春は精一杯に睨む。

「はっ……元雇い主に対してその態度はいかんなぁ……」

 大治郎の後ろをちらりと見ると、大柄の男が居た。

 もしかして、自分が気絶する前に見た影というのは彼だろうか。自分がここで勤めていた時には見ない顔ぶれだと言う事は、ここ数日で雇った者なのだろう。

「もう、雇われていませんから。それより、これは一体どういう状況ですか。今更、わたしを連れ戻そうなんて、よくも神に背く行為が出来ましたね」

 怖いのは、分かっている。

 それでも、虚勢を張り、自分の精神をたもつ事しか出来なかった。

「神、ねぇ……村人の善意で生かされた犬っころに、そんな畏敬がはらえるとでも?」

「何ですって……」

 この前までの、大治郎とは変わったような発言だ。

 しかも、雪登の事を馬鹿にしたようなその口ぶりに、千春は目を見開く。

「あぁ、お前は知らないのか」

 これだから、子どもは困ると盛大に大治郎は溜息を吐く。

「狗神ってのはなぁ、代々生まれて来るのは同じ姿の奴ばかりだ。そんな奴らを神だなんて称して、祭り上げてるだけだろ? あいつら一族はなぁ、獣の血が混じった穢れた一族なんだよ。だから、永遠にこの村の生け贄として社に括り付けて、この村のために奉仕し続けなきゃならないのさ」


 一瞬、彼の言った意味が分からなかった。


「え……? いけ、にえ……?」


 どういう事だ。

 狗神が生け贄。

 雪登が。

 では、自分は。


「あぁ、生け贄だ。永遠に、奴らに子どもを生ませておけば、この村の平穏は安泰だ。そして、この倉野屋もな」

 豪快に、いや汚い声で大治郎は笑う。

 何だ。

 今、何の話がされているというのか。

「どういう事なんですか、それは! わたしは……わたしが生け贄ではないのですか!?」

 自分が狗神である雪登のもとへ嫁ぐ、それは生け贄であるという意味ではなかったのか。

「この村の事を全く知らねぇとは、本当にお気楽な奴だな……。奴ら一族は獣だ。獣は人間の糧にならなきゃならねぇくらい、理解できるだろ?」

「理解出来ませんっ!」

 その言葉に千春はすぐさま反論した。

「あの方は……狗神様は、獣などではありません! そのように侮辱するのは止めて下さ……っ」

 がっ、と大治郎の右足が千春の腹へと思いっきり乗せられる。

 久しぶりの痛みに、千春は唸った。

「駄目だなぁ、千春。主に対しての口の利き方がなっとらんぞ」

 ぐりぐりと、その足を鳩尾へと食い込むように捻ってくる。

「ぐっ……」

 涙が出そうだ。

 痛さ、ではなく、悔しさで。

 雪登の事を嘲られ、見下された。自分が大切だと思っている人を、目の前で侮辱されたのだ。

 それでも、抵抗が出来ない事が悔しかった。

「それに、お前はもう狗神の事を気にする暇なんてないんだ」

「え?」

 大治郎は足を下ろし、自分の前へと腰掛け、視線の高さを合わせてくる。

「なんと、都で一番と言われている程の商家……大島様が、お前の事を随分と気におられてなぁ。明後日に、お前を妾として迎えたいらしい」

「なっ……」

 千春は目を見開いて唖然とする。彼は何を言っているのか。

 

 妾だと?

 自分が?


「な、にを……申しているのか、わたしには理解出来ませんが」

 乱されないように冷静を装い、千春は静かに聞く。

「頻繁にこの倉野屋をご利用なさっていた大島様だ。あの方がお前を見初めたんだよ」

 大治郎のこれまでにもない程の笑顔が不気味に感じられた。

「何と支度金として、五十両に上等な反物を頂いたぞ。……お前にしては高値の値段が付いたな」

「わたしは狗神様の……狗神様の妻でございます!」

 千春は声を上げる。

 最後の、反抗だった。

「そのように勝手に婚儀を取り計らわれても、迷惑で……」

 ぱちん、と乾いた音が響く。大治郎が千春の頬を叩いたのだ。

「うるさい!お前の意見など聞かんわ!婚儀?取り計らい?そんなものないに決まっておるだろうが!!これは商売だ!お前は大島様に買われたのだ!!」

 嘘だ。

 嘘だと言って欲しい。

 それでは、自分がここへと連れ戻された理由は、この身を売り飛ばされるためと言う事なのか。

 そして、それはこの目の前に居る大治郎の利益のためだけに。

「安心しておけ。お前が去った後は、新しい女をその狗神のもとへ送っといてやろう。奴はただ、子孫を作りさえすればいい。あの犬っころは、この村の安寧のためのだけの存在に過ぎんのだからな」

 ふんっ、と鼻を鳴らし大治郎は立ち上がる。

 そこへ、下男らしき男が部屋でと入ってきた。

「すみません、旦那様……お話が……」

「何だ」

 大治郎が男に耳を貸すと彼はみるみる鬼のような憤怒の顔になった。

「何だとっ!?鹿が一匹も捕まらない!?」

「へ、へい。一匹は捕まっていたみたいなんですが、どうやら逃げられたようで……」

「鉄砲でも何でもいい。早く捕まえろ!明後日、お出でなさる大島様は鹿肉をご要望なんだぞ……出さねば、大金を落としてもらえぬだろうが!!どうにかしてさっさと捕まえてこい!」

「も、申し訳ありませんっ」

 そう言って、男は早々と部屋から出て行く。


 ……きっと、雪登さんだわ。


 無事にかの助の仲間を助けたのだろう。

 本当に良かった。

「……狗神の山の動物は狩ってはいけないはずですよ」

 静かに諭すような声で千春は告げる。

「ふんっ。神なんぞの怒りが怖くて、商売がやっていられるか」

「そう、ですか……災いを信じないなんて……よっぽどの怖いもの知らずか、ただの愚か者だわ」

 ふっ、と千春は口の端を上げて笑う。

「けっ……まぁ、いい。これ以上、手を上げたら商品にならなくなっちまうからな。粋がっていられるのも、精々今日のうちだ」

 大治郎は千春に背を向けて、部屋から出て行く。大柄な男もそれに続くように出て行き、やがて扉が閉まり、鍵が閉められた。


 ……あぁ、またか。


 幸せになれると、そう信じていたのに。

 幸せに、出来ればとそう願っていたのに。


「ごめ……ん、なさい……っ」

 薄暗い空間の中で、千春は涙を流す。彼の事だから、きっと心配してくれるだろう。

 でも、雪登が山を下りて助けに来てくれるだろうか。彼を縛り続ける昔の記憶が、それを踏み止まらせるかもしれない。

「ゆき、とさん……っ」

 せめて、あなたに伝えたかったのに。

 自分があなたと居て、幸せだと感じるのは、あなたの事を慕っているからだと。

 そう伝えたかったのに。


   


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