不穏の影
それは、その日の昼過ぎの事だった。
社に訪ねてきたのは神主だった。
「ご無沙汰して申し訳ありません、狗神様。あぁ、それと千春ちゃんも元気そうでなりよりだ」
人懐こそうなその笑顔は前と全く変わらないままだ。
「こんにちは、神主さん。」
千春も雪登についていくように、入口へと向かう。
本当なら、五日に一度、供物として食料をこの社まで運んできてくれるはずだった。
「実は少し、面倒事があってね……。おっと、その前に……」
よっこいせ、と神主は竹籠を目の前へと慎重に下ろす。
「狗神様、こちらが供物でございます。ご希望でした、紙と墨に……米と粟、野菜は旬のものに、海の魚の干物……あと調味料として味噌と醤油と……そしてこちら、酒樽でございます」
神主が背負ってきた大きな竹籠の中には、沢山のものが入っていた。これを抱えて、あの坂道を登ってきたのなら、相当大変だったに違いない。
神主はもう十分に年なので、腰を痛めていないといいのだが。
「いつもすまない。だが、酒があるのは珍しいな……」
そういえば、今朝、伊鷹が来た時に雪登は酒をあまり飲まない方だと言っていた。
「実は……」
神主は自分の方をちらりと見てから答える。
「倉野屋の旦那からなんです」
「……え?」
千春はつい声を出してしまう。
それを神主は苦い表情で頷いた。
「本当は二日前にこちらにお伺いしようとしておりました所、倉野屋の大治郎が私のもとを訪ねてきたのです」
「何だと? その、大治郎という者は、何用でそなたのもとへ参ったんだ?」
「……お気分を悪くなされる覚悟で申し上げます」
一度、深呼吸してから、神主は言葉を続けた。
「大治郎が、この子を……千春ちゃんを返して欲しいと申してきたのです」
「えっ?」
あまりの申し出に千春は引き攣った声を上げる。
「……ど、どうして」
嫌な予感が頭を過ぎる。
もう、その名前さえも忘れたかったのに。
「何故だ」
雪登は表情を変えずに、冷静に問う。
だが、その声が明らかに曇っていた。
「理由は告げませんでした。ただ、三日以内に返して欲しいと……勿論、断りましたが毎日のように私の元へ尋ねてくるのです。そして、昨日にはこの酒樽を供物として捧げるので、彼女を返して欲しいと言って置いて行きました」
千春はその酒樽を見た事があった。
一番金を払ってくれる客に対して出す、かなり上等な酒だ。大治郎自身もこの酒を好んで飲んでいた事は知っていた。
だが、今頃になって何故、自分にあの場所に戻って欲しいと言ってくるのかが分からなかった。
頭の中に、押し込めておきたかった記憶が浮かんでくる。
嫌だ。
怖い。
もう、二度と、戻りたくない。
「千春」
雪登の声に千春ははっと我に返る。
「は、はい」
「顔が真っ青だぞ。……大丈夫か?」
覗き込んでくる顔は、とても心配そうに自分を見ていた。
だから、答えるしかなかった。
「はい、大丈夫です。少し、驚いただけですから」
違う。
これは恐怖だ。
また、あの場所へと連れ戻されたらどうしようと、そう考えただけで震えが起こりそうだ。
それを必死に押し止めようと、指に爪を食い込ませる。
「また、何か企んでいるんですよ、きっと。わざわざ、神主様のお手を煩わせてしまって、申し訳ありません」
無理やり笑みを作って千春は何でもないふりをする。
そうしなければ、自分がもたなかった。
「……酒は受け取らない」
雪登は低い声で告げる。
千春は彼の顔を見る。
その眼差しは鋭いものになっていた。
「これは次に大治郎が来たら突き返してくれ。……そして、千春は絶対に返さないと伝えてくれ」
「畏まりました」
恭しく、神主は頭を下げる。
「……千春ちゃん、すまないね。こちらで、どうにか治めておくから、気にしないでくれ」
「はい。本当にありがとうございます」
「では、また五日後に……」
「あぁ、すまない」
神主は酒樽だけを抱えて、山を下りていった。それを見送ってから、千春はほっとしたのか、急に体が傾く。
だがそれに瞬時に気付いた雪登はそれを後ろから受け止めてくれた。
「あ……」
「おい、本当に大丈夫なのか?」
真剣な表情で問いかけられる。
でも、答えるのは同じ言葉だ。
「大丈夫です。ちょっと、ふらついてしまっただけですから……支えてくださってありがとうございます」
気遣う彼の優しさが胸に響く。
痛い。
どうして、こんなにも、痛くなってしまったのだろう。
「とりあえず、これを中に運びましょうか」
千春は大きい竹籠を抱える。
やはり、かなり重い。
すると、雪登が手を出してきた。
「……私も手伝おう」
「あ……ありがとうございます」
一緒にそれを社の中へと運んでいく。
幸せなこの日々が終わらなければ、それでいい。
……それだけなのに。
その不安に押しつぶされそうになるのを、千春はただ黙って耐えるしかなかった。




