表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/38

覚えていること


 入口の戸に体をもたれ掛かりながら、雪登は溜息を吐く。

「朝早い時間に何の用だ」

「おはようさん。お、千春さんもおはよう」

 明るく挨拶してくる伊鷹に千春も軽く頭を下げた。

「お、おはようございます」

「うちの大天狗様から、また祝いを預かってきたんだよ。ほれっ」

 懐から文を一つと、陶器に入っている酒だった。

「この酒はうちの山でたまに泉から湧く酒なんだ。あまりに美味いから、これが湧いた時は朝昼関わらず宴会でな、放って置いたらすぐ無くなっちまう。その前に、お前に持っていけって大天狗様が」

「お酒が泉から湧くんですかっ?」

 伊鷹から、酒の入った陶器を受け取りつつ、千春は驚きの声を上げる。

「たまーに、な。しかも、神聖な酒で、上等な酒と来たもんだ」

 にかっと伊鷹は笑う。

「酒、か。私はあまり飲まないんだが……」

「ま、そんな事言わねぇで。折角、嫁さんが居るんだし、晩酌でも付き合ってもらえ」

「なっ……」

 雪登は口を開けて、少しだけ赤面する。

「お? お前のそういう表情を見るのは初めてだな。……さては、俺が来ない間に何かあったな?」

 肘でつついてくる伊鷹を雪登は冷たい表情で睨む。

 だが、伊鷹の方は慣れているのか、楽しそうにころころと笑っているだけだ。

「うるさい。さっさと帰れ。あと……」

 雪登は一度、社の中へ戻り、沢山の書物と紙の束を持ってきて、それを伊鷹に突きつける。

「うおっ、痛っ……。何だ、これ」

「お前から借りていたものだ。あと、借りたいと言っていたもの。……今度、あんなものを入れて来たら、その場でぶん殴るからな」

 そう告げる雪登の顔と、隣で気まずそうに笑う千春を見て、全てを悟ったのか、伊鷹は唾を飲み込む。

 そこで、自分のした悪戯が、悪影響を与えていた事を一瞬で察したらしい。

「そりゃ悪かったな。今度は指南書でも挟んでおくわ」

 受け取った書物の束を懐へと入れて、伊鷹は右手をひらひらさせる。

「お前っ……」

 きっ、と睨む雪登に、小さく舌を出して、伊鷹は何でもなかったように再び笑い始める。

 それを見て、雪登も厭きれたように、深く溜息を吐いた。

「んじゃ、用事は済んだし帰りますか。でないと、俺の分の酒が無くなっちまうからな」

「……大天狗殿に宜しく伝えといてくれ。あと、お礼もな」

「おうよ」

「あ、あの、どうもありがとうございました」

 雪登の隣で千春も深く頭を下げる。

「いえいえー。じゃあ、また来るわー」

 そう告げて、彼は颯爽と空へと舞い上がっていく。

 空を飛ぶ姿は本当に鳥のようだ。

「全く……人をからかったりしなければ、あいつは良い奴なんだが」

「ふふっ……でも、折角、お酒を頂いたんですし、今日の夜にお酌でもしますよ。丁度、徳利と猪口もありますし」

「…………そうか」

 そう言って彼は早々と社の中へと入っていく。千春は頂いた酒を料理棚に置いてから朝食を作り始める。

「雪登さんは、あまり動かないで下さいね。わたしが朝食は作りますから」

「……もう動ける。昼は私も手伝おう」

「ありがとうございます」

 雪登は居間に座り、早速先ほどの文を読み始める。千春も作業しながら文の事について尋ねてみた。

「大天狗様は何と?」

「祝いの言葉だ。あと、嫁は美人なのか、とか祝いの宴をそのうち、花見と一緒にやるかと書かれている」

「え……」

 ぴたり、と米を磨ぐ手を止める。

「言っておくが、大天狗殿は大の女好きで有名だ。もし、会う時は十分に気をつけてくれ」

「は、はいっ……あの、それで……花見、というのは?」

「あぁ、毎年、この山で大きな桜の木がある場所で花見をしているんだ。まだ、花は咲き始めたばかりだから、宴をするには早いだろう」

「桜の木があるんですね」

「かなり見事だぞ。花見の時には、山の動物達と愛宕山の天狗達と一緒にやる。互いに料理や酒を持ってきては夜まで騒ぐのは通例だ」

 内容はとても楽しそうだが、雪登はとても苦い表情をしている。

 何か理由でもあるのだろう。

「もしかして、雪登さん……騒ぐのお嫌いですか?」

「いや……確かに私の性に合わないが、それよりも無理やり酒を飲まされるのが苦手だ。大天狗殿は酒もお好きだからな……酒飲みに付き合うのは大変だ」

「まぁ」

「でも、天狗達がそれぞれ持っている芸を見せ合ったりしていて、とても楽しい宴ではある。そなたも楽しみにしているといい」

「はいっ」

 そういえば、自分は宴というものに出た事がない。

 寧ろ、自分が宴の準備と片付けをする側だった。そのため、酒やご馳走なんて自分が味わう事なんてなかった。

「でも、桜かー……花見なんて久しぶりです」

「桜は好きか?」

「そうですね。でも、あまりじっくりと見る余裕なんてなかったですから」

「……そうか」

 雪登は千春の返事に黙り込んだ。


 ……気にしなくていいのに。


 だが、彼は気にしてしまう。そして、気遣ってくれる。そういう優しさが、自分は好きだった。

 その心が自分に少しでも傾いていると思うと暖かい気持ちになれる。

「あ、そういえば、との子から聞いたんですが、雪登さんは桜がお好きらしいですね」

「……あぁ」

「どうしてお好きなんですか?」

 竃に火を焚き付けながら、何気なく聞いてみるが、返事に困っているような表情をする。

「…………からだ」

「え?」

 良く聞き取れなかったので、聞き返してみる。

「そなたが……私にくれた花だからだ」

 目を逸らし、雪登は再び黙り込む。

 予想していなかった答えに、千春はぴたっと固まる。

「あ……え、そ……そうですか……」

 体が、自然と熱くなるのが分かった。鏡なんて持っていないから自分の顔なんて見る事は出来ないが、それでも、顔は赤くなっているのだろう。


 ……何年も前の事をずっと、覚えていたんだ。


 自分は忘れていたというのに、彼はずっと覚えていて、自分の事を気にしていてくれた。

 そして、ずっとその思い出を大事にして来てくれていたのだ。

 少しずつだが、彼に対して心の奥底で何かがもやもやと、ざわついているこの感覚が、千春にはどういうものなのか分かり始めてきた。


 初めてなのだ、このような感覚は。

 雪登は知っているのだろうか、この気持ちを。


 千春は赤くなった頬を隠す事が出来ずに、雪登の言葉を頭の中で響かせていた。


     

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ