虹の市
雪登に付いて行くように、千春は湿った地面の上を歩く。着物の裾が汚れないように、いつもより上げておかなければ、泥が付いてしまいそうだ。
「歩くの、辛くないか?」
「大丈夫です。でも、この先に何があるんですか?」
何があるのかさえ、説明されずにただ付いて行っているだけだが、虹の下に一体何があるというのか。
しかも、届かないと思っていたはずの虹にどうして歩くたびに近づいていくのか。
不思議だと思う事が多すぎて、でも彼は目的地に着くまで内緒にしておきたいのか、中々話そうとはしてくれない。
「それは着くまでの秘密だな。ただ、一つ説明しておくと、その場所に人間は居ない」
「えっ?」
思わず大きい声で、返してしまう。驚いた千春の表情を見て、雪登は苦笑したのか、口の端を小さく上げる。
「だが、たまに人間も迷い込んでいるらしい。そこがどこかは知らずに」
意味ありげに呟くその言葉に首を傾げる。でも、彼が連れて行く場所だから、安全な場所ではあるのだろう。
雪登もあまり表情からは読み取れないが、楽しみそうに歩いているのは分かる。歩みを進めていくごとに、前方の方からいくつかの声が聞こえ始めてきた。
やがて、それは大きいものとなっていき、千春はただそれが何の騒ぎなのか、黙って見ていた。
「着いたぞ」
雪登の声に、千春ははっとする。
そして、騒ぐ声が一体何だったのか、すぐに判明した。
「らっしゃい、らっしゃい! 清から取り寄せた秘伝の薬だよ! 塗れば十歳若返る事間違いなし!」
「ほら、見てきな~。あめ細工だよ~。おっと、飴じゃなくて、雨細工だよ~」
「西方の果物を砂糖漬けにしたお菓子だよ! 安いよ、安いよ! って、こら! 摘み食いするなっ!」
「こちとら、あの安倍晴明が残したとされる秘伝の書だよ! 一冊しかない、貴重なものだ! 早い者勝ちだよ!」
木々の根元に露店を開き、そこで売ったり、買ったり、または話をしていたり……と、大勢の者がその場でやり取りをしていたのだ。
あまりに騒がしい声と、沢山の珍しい物が並ぶ姿に千春は目を丸くしながら、雪登へ尋ねる。
「ゆ、雪登さん、これは……」
「市だ。人間達も良く、やっているだろう?」
「え、えぇ……でも、ここで売っているのって……」
どこからどう見ても、普段目にかかれない物や、怪しい物ばかりだ。
並んでいるもので、まともなのは食べ物くらいかと思っていたが、手が出し難そうな物が並んでおり、開いた口が暫く塞がらなかった。
「虹が出るとな、必ずその下で市が開かれるんだ」
「どうしてですか?」
人の場合は雨の日以外なら、毎日のように市は開いている。しかも、このような山奥で開く事も不思議だった。
一体、このような場所に何故、露店を出し、誰が買いに来るのか。
「古来から、虹は異界と繋がる架け橋とされていたんだ」
遠くから、市の様子を覗きながら、雪登は答える。
「虹が、ですか」
「あぁ。平安の時代から虹が立つと市が開かれていたらしい。だが、昔は神を喜ばせるために市を開いて、交易を行っていたとも聞いた」
「市を開いて、神様がお喜びになられるんですか?」
目の前に居る狗神は特に何もないと言った様子で、肩を竦めて答えた。
「さぁな。まぁ、市というのは他の村の者や旅の者など、自分達にとっては、異界から来た者と関わる場所とされていたから、特別にされていたんだろう」
雪登の話は分かるようで、少し難しくも感じられた。
でも、自分のために、この場所に連れて来てくれた事は嬉しかった。
頼まれた物を市で買う事はあっても、自らの足で赴く事はなかった。
「何か欲しい物があれば、言うといい」
「え、でも……」
自分はお金なんて持って来ていない。困った顔で、雪登を見ると彼は自分の頭を優しく左手で撫でてくれた。
「心配するな。ここでは金は必要ないんだ」
「え?」
「物々交換なんだ、全て」
そう言って、彼は抱えていた風呂敷の中身を広げてみせる。
中に入っていたのは、魚の干物や、木苺、何か入った小さな壺に、書物、薬草がひと束入っていた。
「このような物をお互いに交渉して、交換することで、売買するんだ」
千春が興味津々で雪登の話を聞いていると、前方の方から声がかけられた。
「おや、狗神さんじゃねぇですか」
声のした方を見ると、緋色の頭巾を被り、人懐こそうに、にんまりと笑いながら手招きしている者が居た。ただ、人間ではないという事は見て分かる。
なぜなら、その者には猫のような耳と髭が生え、しかも二つある尻尾をゆらゆらと揺らしていたからだ。
「あぁ、玉吉さん、お久しぶりです」
「そうだねぇ。最近、雨が降らないし虹も出ないから、中々、市が開かなくて困ってたんだよー」
玉吉と呼ばれたその者の露店には様々な形をした器が並べられていた。高そうな物だったり、薄汚れて古くなっているものだったり、と露店自体は普通そうだ。
千春はもう一度、辺りを見渡す。
露店を出している者や、その客達は頭巾や布を被っている者が多く、顔が見えないようになっていたりするが、そこに人間は居ないように思えた。
それでも、売り買いで賑わうその場所を、千春は好ましく思えた。
……楽しそう。
そこに居る彼らはとても、いきいきとしていたのだ。やはり、市が賑わうのは人間の世界だけではないらしい。
「おや? 狗神さん、ご結婚なさったんですか?」
玉吉の猫のような目が千春を映す。
そこには、人間が居て珍しい、という好奇というよりも、どこか嬉しそうな表情だった。
「あぁ、千春というんだ。千春、こちら、玉吉さんだ。猫又なんだ」
「えっ?」
思わず、大きな声で聞き返してしまうと、目の前の玉吉は明るい声で笑った。
「そりゃ、そうか。猫又なんて人間の世界に、いないからねぇー」
そう言って、何でもなさそうに尻尾を揺らす。
「……もう少し前までなら、人間達に交じって露店開いても誰も気にしなかったんだけどねぇ」
彼がどれ程の年月を生きて来たのか知らないが、自分が想像する以上の長生きなのだろう。
玉吉の表情には少しだけ寂しそうだった。
「……人間の方も、ここにはいらっしゃる時はるのですか?」
ふと、千春は尋ねてしまう。
何かを期待するように。
「おぉ、来るよ、来るよ。たまーに、だけどねぇ。驚く奴も居るけど、大体の者はこれがどういう市なのか、心得ているんだろうね。ふらーっと来て、ゆらーっと楽しんでから、帰っちゃうから」
楽しそうに話す玉吉は懐かしそうなものを見るように目を細めていた。
「ま、おかげで異形狩りされずに、安心して商売出来るわけだが……狗神さん、折角だから何か買って行きなよー。安くしとくよー」
玉吉の瞳がきらん、と光る。
「お薦めは……そうだな。あ、これなんて、どうだろ?」
そう言って、二人の前に差し出してきたのは、徳利と二つの猪口だった。どちらも、真っ白で、新品同様に綺麗だ。
「これはな、月の光が当たると光りだすんだ」
まるで、秘密を教えるように玉吉の口の端が上がる。
「元々は、他の露店で見つけて買ったんだけど、あんまり綺麗な物だから、自分じゃ使えなくて。でも、折角だから、誰かに使ってもらおっかなぁ、と」
見てごらんと、手渡され、千春は慎重に持ちながら、その徳利とお猪口を眺める。
素人から見ても分かるほど、美しい陶器だと思う。
「雪の色みたいで綺麗ですね……」
ぼそり、と千春が呟くと玉吉はにまっと笑った。
「千春さん、お目が高いなぁ。そいつら、三つ合わせて『雪月器』って言うんだ」
「雪と月か」
雪登も感心するように、それらを眺める。
「何でも、作った本人が雪と月の明かりの下でこれらを作ったらしい。名器だから、お薦めだよ」
「名器を薦められてもな……見合う物は持ってきていないんだが」
「いえっ! おいらには分かりますよ! その風呂敷の中! そいつは魚の匂いですな!」
目を輝かせながら玉吉は尻尾を左右に振る。
さすがは、猫といったところか。魚には目がないらしい。
「よく分かったな……」
雪登も渋々と言った様子で、風呂敷から魚の干物を笹の葉で包んだ物を取り出す。
「おいらには、それお一つで十分ですよ」
目の前に餌を待て、とされている猫のように玉吉は尻尾を激しく振っている。
「……そういえば、社には徳利も猪口もなかったですよね」
「あぁ、そうだな」
思い出したように雪登も頷く。
「お一つくらいあれば、使う機会があるかもしれませんし、どうでしょう?」
千春の提案に玉吉も、嬉しそうに何度も頷く。
仕方ない、と言った様子で雪登は溜息を吐き、魚の干物を玉吉へと渡した。
「お買い上げありがとうございますー!」
そう言うと、玉吉は早速、徳利と猪口を一つずつ割れないようにと、古い紙で包み始める。
「まさか、徳利と猪口を選ぶとは……」
隣の雪登は唸るような声で呟く。
「でも、良い品ですし……。それに、いつか雪登さんにお酌出来る時が来るかもしれないじゃないですか」
にこり、と笑う千春に雪登は顔を逸らす。
「全く……そなたという者は……」
厭きれたような溜息ではなく、少し明るい声で返事をする雪登に、千春は小さく声を立てて笑った。
そこへ、品物が包み終わったのか、玉吉が品物を渡してきた。
「お待ちどうさま~。毎度あり~」
「ありがとう。では、また次の市で」
雪登の隣で千春も頭を下げる。
上機嫌で手を振り、自分達を見送るその姿はまさに招き猫のようだった。




