狗神の役目
夕飯は山菜と野菜を沢山煮込んだ鍋にする事にした。朝に炊いておいたご飯も少し残っているので、最後にこれを投入すれば雑炊にもなる。
それを雪登は美味しそうに食べてくれた。
それが嬉しくて、千春は笑みを零す。
「……そなたは小さなことでも笑うんだな」
「えぇ。嬉しいんです」
「そうか」
顔をすぐに下に向けるのは、照れているのが分からないように彼なりに隠しているつもりだろう。
「雪登さん、お茶です」
「ありがとう」
彼の前に淹れたお茶を差し出す。春とは言え、まだ夜は肌寒い。隙間風が入ってくるが、社の中は囲炉裏の火のおかげで大分、暖かかった。
まだ、冬物を片付ける事は出来ないだろう。
「そういえば……昼間の狼、どうなったんですか?」
何気なく、聞いてみたつもりだが、一瞬だけ彼が言葉に詰ったのが分かった。
「……肉を食らうものは穢れを背負いやすい。ここは神の領域に等しい聖域だ。血は穢れをもたらす。それを祓うことが出来るのは禊だけだ」
「禊……」
「あの後、狼は一度、川の水で体を清めて、近くの場所に埋葬した」
「では、雪登さんも……」
「あぁ。勿論、川で禊をした。これで、一応、穢れは祓えているはずだ」
昼間、川で傷のついた背中を洗おうとしていたのは、禊の意味もあったらしい。
「……今までに、こういう事って何度かあったんですね」
雪登は一度、目を伏せてから答える。
「背中の傷を見たんだな」
その問いかけに、千春は縦に首を振った。
「確かに、こういう事は何度かある。それに……この山に住むもの達を守るのも役目の内だからな。……でも、それだけの傷ではない」
一瞬だけ、彼の表情が歪んだのが見えた。
「聞いても……いいですか」
今なら、聞いてもいいような気がした。
彼が何を秘めているのかを。
雪登は少し、戸惑ったようだがすぐに頷いた。
「…………私は、人間が嫌いなんだ」
その言葉に、千春は息を呑む。
「言っておくが、そなたの事は嫌いではないからな。ここの世話をしてくれる神主や、神社の者も嫌いではない。ただ……」
唇を噛み締めている、その姿を見てふいに、抱きしめたいと思った。
「私が『狗神』になった時、この村の者達を守りたいとは思わなかった」
雪登は少しずつだが、話してくれた。
この「見坂村」の本当の存在の意味は言わば盾のようなものであった。都の北東に位置しており、都へと悪しきものが行かないように塞ぐための村なのだと。
そして、その役目が「狗神」である雪登に課せられた使命なのだと。この村を守るために、「狗神」は何百年も前から代々と受け継がれた一族なのだと語った。
それを継いでいくためには、その血を分ける番が必要だったため、「狗神」が成人すると、必ず村から一人、対になる者が選ばれ、その者と夫婦にならなければならなかった。
それは男女というものには、生を生み出す力があるため、それが魔を祓うとされてきたからだと雪登は告げる。
「よく、村外れや、道の端に道祖神という石の建造物があるだろう」
「はい」
「それと同じようなものらしい。……つまりは、ただの守り神として、永遠にこの社に縛られているだけなんだ」
その時の雪登の表情は何とも言い難いくらいに寂しげだった。
それだけしか、存在価値が認められていない。
まるでそんな事を言うように、その面差しを見ているのが辛かった。
「私も最初は人間の事は嫌いではなかった。自分が、守らなければいけない者達……。そう、言い聞かされていた。だから、その人間がどのような生活をしているのか見てみたくて、村へ下りたことがあったんだ」
それはまだ千春に会う前の幼い頃。
興味本位で人間を見てみたいと思い、村へ下りた雪登は自分が異形だという事を改めて目の当たりにした。
村人達の彼を見た反応は、まるで化け物を見るかのようだったと言う。
確かに、人間で黒い犬のような耳が生えている者は村には居ない。
村人は自分を見るなり、声を上げ、石を投げつけて、鍬や鎌を持って追いかけてきたという。
「そんなっ……、だって、雪登さんはこの村の神様なのに……」
千春が悲痛そうな声を上げると、彼は小さく苦笑する。
「それでも、彼らにとって自分は異形なんだ。耳だけじゃない。そなたにはまだ見せていないが、尻尾だってある。……こんな私を化け物だって罵った奴も居た」
雪登は長い前髪をそっと掻き揚げる。左目の上辺りに何かの傷跡があった。
恐らく投げられた石が当たったものだ。それを見て、千春は声を上げないように、手で口で抑える。
幼い雪登は怪我を負いつつも、何とか村人の手から逃げ切り、この事を狗神神社の神主へと相談し、その後、雪登は村へと一切下りなくなった。
そして、雪登に会える人間は神主ただ、一人としたのである。
「ひどい……ひど過ぎます! 雪登さんは、村のためにここで守っているのに……」
「見える神なんて、元々居ない」
ぼそり、と雪登は虚空を見つめながら答える。
「私はただの異形の人間と変わりないんだ」
雪登は自嘲の笑みを浮かべる。
そこに、悲しみが混じっているのを彼は気付いているのだろうか。
彼の体に刻まれたのは傷跡だけではなかった。
人間への不信感。
そして、絶望だった。
千春は自分の頬に冷たいものが伝うのが感じられた。それでも、拭う気にはなれずに、ただ雪登を真っ直ぐに見つめていた。
「……どうして、そなたが泣くんだ」
「あなたが……泣かないから、です……。雪登さんこそ、どうして泣かないんですか。辛かったんですよね。痛くて……悲しくて……」
自分だけだと、思っていた。
この世で、一番の不幸者だと。
両親に先だたれ、毎日辛い仕事をこなすしかない、それだけの人生だと。
そんな浅はかな考えが、一瞬で砕け散った気分だった。
「自分が守ろうとした人達から、そんな風にされたら、誰だって悲しいです」
「……そなたも悲しいと、思ってくれるのか」
雪登が目を細めて聞いてくる。
千春は頷いた。
涙が出るのも止めずに。
「そうか……」
そう言うと、彼は立ち上がり、千春の隣へと腰掛ける。
そして、千春をそっと抱き寄せた。
陽だまりのように暖かく優しい匂いが、ふわりと通り過ぎる。この細い腕で、どれ程の事に耐えてきたのだろう。
彼はきっと、優しすぎるのだ。
だから、傷ついても、それを表に出そうとしない。
「ありがとう、千春。こんな私のために、涙を流してくれて……」
暖かかった。
暖かくて、悲しかった。
こんなにも優しい人が化け物なわけがないのにと、言ってやりたかった。
雪登に辛い思いをさせた者達の方がよっぽど化け物だと。そう叫びたかった。
千春は雪登に縋るように抱きつく。
それを彼は一瞬だけ戸惑っていたが、やがて、千春の背中に手を回し、ぽんぽんと赤子をあやす様にゆっくり叩きながら、千春が泣き止むまで抱きしめてくれていた。
今日の事をきっと忘れる事はないだろう。
この先、ずっと二人でこの社で暮らしていくのだとしても。
絶対に忘れたくはない。そう思った。




