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願う事


 血は何所まで続くのだろうと思い、それに沿って歩いていると小さな川へ出た。

 恐らくこの川の少し上流に社がある場所だ。川の真ん中辺りに、雪登が立っているのが見え、千春は静かに歩み寄る。

 彼は自分に背を向けているが、きっと居る事は気付いているのだろう。

 雪登の着物は藍色だが、彼の背中は藍色が黒く染まる程、血が染み込んでいた。

「雪登さん」

 思わず声をかけてしまう。

 彼の肩が一瞬震えた。

「……怖い思いをさせてしまってすまない。先ほどの狼はこちらで処分する。気にしないでくれ」

 感情は言葉に詰っていない。

 それでも、何か戸惑っている言い方にも聞こえた。

「先程は助けていただいてありがとうございました。おかげでわたしも……との子もぽん吉も無事でした」

「無事なら、それでいいんだ」

 それだけ告げて、雪登は着物の上部分だけを脱ぐ。

 顕になる肌には先ほどの狼に付けられた目を背きたくなる傷があった。

「っ……」

 千春は思わず息を呑む。鮮血がべっとりと背中を覆っているようだった。

「見ない方がいい」

 彼はそういって、手ぬぐいを取り出し、水に浸す。

「わ……わたしが背中をお流し致します」

「……いいのか」

「はい」

 雪登に駆け寄り、千春は手ぬぐいを受け取り、強く絞ってから、彼の背中を出来るだけ傷が痛まないように慎重に拭い始める。

 白い手ぬぐいは雪登の血であっと言う間に染物のように赤く染まっていく。

「っ……」

 さすがに沁みるのか、辛そうな声を漏らす。

「すいません、でも……ちゃんと拭いておかないと……」

「あぁ……すまない」

 彼の肌を見るのは初めてだ。

 だが、至る所に小さな傷跡が見える。

 どれも深くないものばかりだが、痕に残るような傷だった。


 ……今まで、どれ程の痛い思いをしてきたの。

 

 そう聞きたかった。

 それでも、聞けなかった。

 彼の背が、何も聞かないで欲しいと訴えてくるから。

 だから、聞けない。聞きたい。話してほしい。


 千春はいつの間にか自分の手が震えている事に気が付かなかった。

「千春……?」

 雪登は手が止まった千春の方を顔だけこちらへ向けようとする。だが、

 千春はその背中に自分の額をぴったりとくっ付けた。

「っ!? おい、どうした……」

 ただ、彼の背に額と手を添えて、千春は静かに涙を流す。

 それに雪登も気付いたようだ。

「…………この傷はそなたのせいではない。だから、気にすることは――」

「心配も……させて頂けないんですか?」

 声をどうにか出して、千春は尋ねる。

「それは……」

「わたし、雪登さんが助けに来て下さって、凄く嬉しかったです。誰かに守られるの、初めてでした」

 漏らすような声で、必死に言葉を繋げる。

「…………」

「わたしのために、来てくださったんですよね? この傷も……ごめんなさい。わたしのせいで……」

「違う……!」

 千春の言葉を遮るように雪登が珍しく大声を出す。

 いや、初めてかもしれない。

 彼が、強くものを言うのは。

「そなたを一人で山へ行かせた自分の責任もある。だから……」

 雪登は息を呑んで、言葉を続ける。

「だから、そなたのせいなどではない。守りたかったのだ。千春が傷付くのだけは見たくなかったんだ」

 彼の真剣な瞳が、とても悲しかった。

 とても辛そうに見えた。

「……どう、して……」

「そなたが今まで、傷付きながら生きて来た事を本当はそなたがここに来る前から知っていた」

 自分の知らない事実を、雪登は告げる。

 伝えるのを迷っていたのだろう、言葉が震えていた。

「だから、せめてここに……自分の傍に居る時だけは誰からも傷付けられないよう私が守ろうと、ずっと、思っていた」

 そこで雪登は初めて千春の方へ体を向ける。

 黒く吸い込まれそうなほど美しい瞳。柔らかそうな耳。切なそうなその表情。


 ……あぁ、知っている。


 彼に会った時、どうして自分は恐れなかったのか。どうして驚かなかったのか。

 それは、自分が彼に会った事があるからだ。

 自分に向けられた彼の全てを。どうして忘れていたのだろう。

「千春、私とそなたは昔、一度会っている」

 

 覚えている。

 そうだ、自分が六歳か七歳くらいの頃だ。

 確か、自分は倉野屋の旦那の命で山へ山菜を一人で取りに来ていたのだ。

 それで、道に迷って―――そして初めて、彼と出会った。


「千春が自分の嫁として生け贄に捧げられたと聞いた時、私は絶望した。……そなたには幸せになって欲しかったからだ」

 川の流れる音が、場違いな程、爽やかに聞こえる。

 足元の水さえまだ冷えるのに、その感覚がないように思えた。

「最初は生け贄を断ろうと思った。だが、思ってしまった。……自分の傍に居れば、守ってやれると。……傍に、居て欲しいのだと、そう願ってしまった。願ってはいけなかったのに」

 今、聞いてはいけない事を聞いてしまっているような気分だった。

 それでも、彼があまりにも真剣で、辛そうな表情をしているから、その目を逸らす事は出来なかった。

 ただ、その先の言葉を待つように、千春は耳を傾けていた。

「私がそう願ってしまったから、そなたはここに居る。神の願いは絶対だ。……だから、謝らなければならないのは、私の方だ」

「あっ……謝らないでください!」

 やっと声を出すことの出来た千春はつい、雪登の胸元へと体を寄せる。

「わたし、今、凄く幸せです。わたしが今、幸せなのは、雪登さんのおかげなんです。……これまでだったら、幸せという事がどういう事なのかさえ考えられませんでした」

「千春……だが、私と居れば、そなたに自由はない。ずっと、あの社で暮らし続けるしか……」

 すると、突然、千春は自らの着物の帯を緩め、両肩の肌を顕す。

 その突然の行為に雪登は驚いたが、すぐに目を丸くし、眉を深く寄せた。

「……あの場所で、わたしはずっと、耐えるしかありませんでした。」

 その肩にはくっきりと残った、みみず腫れの痕がいくつもあった。

「背中にも、腹にも、この腕、足、全てにこのような痕が付いているんです。……気持ち悪いでしょう?」

 ずっと残ってしまう、二度と消えない傷。

「あそこの旦那さんやその奥方様は粗相する者が居るとすぐに仕置き部屋へと連れて行き、動けないように柱に縛りつけて、蔦で編まれた鞭で、何度も何度も打ち据えるんです。そして、見える痣が出来ると喜ぶような人達でした」

 全部は見せられない。

 こんな体、本当は見られたくさえない。

 それでも、彼は話してくれた。

 だから、自分も話さなければならないと思った。本当の自分はこんなにも醜くて、高貴な立場の彼の隣に居ることは、許されないのだと。

「それに、腹の居所が悪いと、誰でも構わずに当り散らし、物を投げられ、蹴られ、殴られ……」

 涙は出てこない。

 ただ、淡々と事実を述べているだけだ。

「こんなにも、穢れたわたしが、雪登さんの隣に居ていいのだろうかと思っていました」

 伝えなければならない。

 自分が、思っていることを。

「あなたの傍で過ごす毎日は、とても穏やかで、ゆっくりで……。雪登さんがわたしに優しくて……もう、それだけで十分でした。あぁ、これが幸せなんだって感じました」

 少しずつ、雪登の表情が歪んでいく。

 黒い瞳に潤いが増していく。

「だから、あなたのところに来られて、わたし、本当に幸せなんです。……わたしが幸せになれるように願ってくれてありがとうございます、雪登さん」

 千春はただ、笑った。幸せだからこそ、出来るその笑顔。

 その瞬間、雪登が千春を抱きしめる。

「……ゆき、とさん?」

「私も……幸せだ。幸せなんだ。……そなたが自分の傍に居る。それだけで幸せなんだ」

 強く、それでも優しく抱きしめられる。

 彼の体温が直接感じられ、それさえも千春は嬉しくて涙が零れそうだった。

 だから、泣いた。

 嬉しくて、涙が出てきた。

 自分は、こんなにも人から幸せを願われる人間なのだと、自分もこの人を幸せに出来るのだと、それを実感して。

 これからも、この人の隣で、幸せで居られるのだと、嬉しくて。

 千春は暫く、雪登の体に身を寄せて、その幸福を噛み締めていた。


         

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