黒い犬
雪登は自分を呼ぶ声が聞こえ、書物を読む手を止める。外へ出ると、自分に真っ直ぐ飛んでくる、黒羽の姿があった。
黒羽はそのまま、雪登の足元へと降り立つ。
「どうした、黒羽。お前がそんなに慌てるなんて珍しいな」
「い、狗神様っ! 大変だ! 二つ向こうの山から腹空かせた狼が来やがったんだ!」
「……ここのものではないんだな?」
「あぁ! 向こうの山でも被害が大きくて、そいつがこの山に入ったらしく……千春様達の方に近づいているって……」
黒羽が言い終わらないうちに雪登は裸足のまま駆け出していた。
道は聞かなくても分かる。自分には鋭い嗅覚と研ぎ澄まされた耳がある。
だから、どこに居るのか分かっていた。
……一人で行かせなければ。
だが、そんな事を思うのはすでに遅い。間に合わなければならない。
絶対に、彼女を傷付けてはならないのだから。
「ひゃっ……お、狼……」
との子は震え上がり、そこにぺたんと尻餅をつく。ぽん吉の方も恐れが勝り、動けないらしい。
それほど、目の前に居る狼は天敵とも言える存在なのだ。
狼は少しずつ少しずつ千春達の方へ近づいてくる。花畑の中に足を入れ、狼が通った後は美しく咲いていた花は皆、折れてしまっている。
「ぐるるる……」
低い声で、唸る。腹を空かせているのは十分に分かっている。
今は、この場から、逃げなければ。
どうやって。
狼の方が自分達を捕まえるのが早いに決まっている。
そんな事を頭の中で一瞬にして考えていた。
「……っ」
千春は動けなくなっている二匹を抱きかかえた。
腕の中の小さな動物達が、がたがたと震えているのが、伝わってくる。
「来ないでっ……!」
そして、そこらに落ちていた棒切れを右手に持つ。これで戦えるとは思っていないが、無いよりはましだ。
「ち、千春さま……」
「大丈夫。わたしがあなたたちを守るから」
そう、守る。守らなければ。
だって、彼らは弱い。
こんな自分より、弱い立場なのだから。
腰が引け、全身が震えるのが分かる。それでも、彼らだけは守らなければならないという使命感だけで、千春は狼と対峙していた。
狼は恐らく、どれから食べようか狙っているのだろう。
まるで、品定めされているようだった。
「……言っておくけど、あなたのお腹になんか入ってあげないんだからね!」
そう言って睨んでみるが、きっと狼相手には効かないだろう。少しずつ、近づいてくる恐怖は自分も見覚えがあった。
怖い。
痛いのは嫌だ。
生きたい。
狼がどれから食べるのか決定したのか、こちらに向かって走り始める。大きな口にきらりと輝く尖った歯が見えた。
「っ!」
千春は二匹を抱きかかえたまま、しゃがみこみ、目をきゅっと閉じた。
「がうっ!」
狼のひと鳴きが聞こえただけで、痛みは感じられない。
一体どうしたことかと目を開けると、そこには狼の首をがっしりと噛んだまま離そうとしない黒い犬の姿があった。
「……ゆ、きとさん?」
何となく、そう感じられた。
黒い犬は千春達を一瞥する。目が合った。
あの黒い美しい瞳は紛れもない彼と同じだった。
狼は激しく抵抗するも、黒い犬の力が強いのか、そのまま地面へと押し倒される。
だが、狼は最後の力を振り絞ったのか右足で黒い犬の腹を思いっきり蹴り上げる。
それによって、押さえられていた力が緩んだのか、狼はその一瞬を見逃さず、黒い犬から逃れ、今度はその背中をがぶり、と噛んだのだ。
「きゃっ……」
千春は小さく悲鳴を上げる。黒い犬の表情が一瞬曇ったのが見えた。
それに何とか抵抗し、黒い犬はもう一度狼の首に噛み付く。
「ぎゃぅ……」
最後の一撃で、狼はそのまま動かなくなった。
それを確認して、黒い犬は首に噛み付きながら、そのまま犬を引きずっていく。
「あ……」
右手を伸ばし、千春は引き止めようと声を上げる。
だが、引き止めてどうするのだと考えて、その先は何も出来ずにいた。
黒い犬はこちらを見ずに、狼を引きずりながら、どこかへと行ってしまう。
その場に、鮮やかな血だけが残っていた。
「こ、こわかったぁ……」
との子が涙を浮かべて、溜息を吐く。
「狗神さま、やっぱりお強いねぇ……でも、大丈夫かな……」
二匹の声に千春は我に返る。
「……との子、ぽん吉。あなた達は自分の家に戻りなさい。あと、出来るなら他の動物達にもこの事を伝えて来てね」
「うん、分かった」
「千春さまはどうするの?」
「……怪我に効く薬草を取りに行くわ」
千春は二匹を地面へと下ろして、彼らが茂みの中へと走っていったのを見届けてから、薬草が生えている場所へと向かう。
……傷、きっと深いわ。
早く、彼のもとへ行かなければならない。
それだけが、震える足を動かしていた。




