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侵入者


 千春が雪登のもとへと嫁いで、五日が経った。

 雪登と言葉を交わす事は増えてきたが、その仲は親しいと言えるのかは分からない。

 それでも、一応、自分の事を嫁だと思ってはいるのか、少しずつ頼ってくれているのは実感出来ていた。

「よっし、洗濯終わりっ!」

 本日は快晴で洗濯日和だ。

 物干し竿に並んで干しているのは自分と雪登の着物だ。そのため、今日着ている着物は少し着る季節が早いが、生地が薄めの浅標色だ。勿論、お下がりである。

 新品のものどころか、着物自体をそんなに持っていないため、季節ごとにある着物を全部合わせれば三着程くらいしかない。

「お洗濯、終わったのーっ?」

 ぴょんぴょんと跳ねて、自分の足元へとやって来るのは兎のとの子である。

 名前の通り女の子らしい。

「うん、終わったよ」

「じゃあ、山に行こうよー! 素敵なお花畑あるのー! 見に行こうよー!」

 そういって、自分の周りを跳ねながら回る。

「あら、ぽん吉は?」

「ぽん吉もすぐ来るよー! ねぇ、行こうよー。お仕事終わったなら、行こうよー」

 すりすりと足に頬を摺り寄せてくる仕草は何とも可愛らしい。

「ちょっと、待ってね。今、狗神様に山に行ってきますって、伝えてくるから」

「はーい」

 素直に返事をすると、との子は入口辺りでちょこんと行儀よく座って待っている。

 居間では、雪登がかなり古そうな書物を読んでいた。

「あの、雪登さん」

「何だ」

「との子が山に行こうと誘ってくれているんですが……行ってきても宜しいでしょうか? お昼前には帰って来ますので」

「そうか。気を付けろよ」

「はい。では、行ってきます」

 雪登に軽く頭を下げてから、との子と一緒に歩き出す。

 隣をぴょこぴょこ跳びながら進むとの子は随分と嬉しそうだ。昨日、との子とぽん吉から連れて行きたい場所があると言われ、一緒に行くと約束していたのだ。

 最初は動物達が言葉を話す事に驚きはしたが、慣れれば意外と楽しい。自分の知らない動物達だけが知っている世界を教えてくれる。

 茸の一番生えている場所とか、どんな動物が居て、どんな仲間が居る、など人間の世界で生きていたなら知る事はなかっただろう事ばかりだ。

「…………」


 今の生活はとても楽しいと思う。あの頃とは比べ物にならないほど。

 毎日が穏やかに訪れ、穏やかに過ぎている。この空間に時間は存在しているのか疑う程に。


 との子はまだ、千春が通った事のない獣道をどんどん先へと進んでいく。その足取りは意外と早く、早足でなければ追いつかない。

「あのねぇ、この先にとっても素敵な場所があるのっ! 毎年、毎年、春になると綺麗なお花でいっぱいになるの!」

「お花畑かぁ……わたし、見たことないの。あ、お土産を持って帰ろうかな……」

 雪登にお土産として花を摘んで、果たして喜んでくれるだろうか。

「狗神さま、きっと喜ぶよっ!」

 まるで、自分の心の中を読んだかのように、との子は明るい声で話す。

「お花、好きなんだって。確か、桜の花が一番すきだって言ってたよ」

「桜?」

「うん! でも、今から行く場所には、桜は咲いてないの……。でもねっ、他のお花はいっぱい咲いてるから、いっぱい摘んで帰ったら、狗神さま、いっぱい喜ぶねっ!」

 との子は楽しそうに話すが、千春には何か引っ掛かるものがあった。


―――桜の花。


 思い出せないけど、何か知っている。

 でも、頭の中に掠りもしないその「思い出」。一体、何の思い出なのかさえ思い出せない。

「あ、ここだよ、千春さまっ! 見てみて! すっごく素敵な場所でしょ!」

 との子の言ったとおり、その場所は本当に素敵という言葉が似合う場所だった。

 赤色、桃色、黄色、水色、紫色、白色と様々な色の花がそこには敷物のように美しく広がっていた。

「わぁ……本当に素敵な場所……」

 知っている花もあれば、知らない花もある。

 それでも、この場所は「美しい」ことに変わりはない。

「でしょ!」

 何故だろう、一瞬、この景色を雪登にも見せたいと思った。

「あっ、来た来た。おーい、との子ぉ! 千春さまぁ!」

 花畑の中にぽん吉の姿がひょっこりと現れる。ひょこひょこと千春達のもとへやってくると、彼は大きな葉に包んだ何かを自分達に見せた。

「ほら! 木苺だよ! あっちの茂みにいっぱいあったんだー。あとで、また取りに行こうよ!」

「木苺?」

「うん。甘くて美味しいんだよっ! ほら、食べて食べてー」

 ぽん吉が勧めてくるので、千春は一つだけ木苺を頂く。口の中に入れると、その甘さが一気に広がった。

「本当ね。とても美味しいわ」

 そう答えるとぽん吉は嬉しそうに尻尾をふりふりと揺り動かす。

「もう、やっぱり、ぽん吉は花より団子なんだからー」

 との子もそう言いながらもぽん吉から木苺を分けて貰って、もぐもぐと美味しそうに食べている。

「おっ、ぽん吉じゃねぇか」

 頭上から声が聞こえて千春が見上げると、そこには一羽の鴉が空中を飛んでいた。

「あ、黒羽さん。こんにちはーっ」

「おう。そっちの驚いてないお嬢さんが例の嫁さんかね?」

 黒羽、と呼ばれる鴉はそのまま千春の目の前へと飛び降りてくる。

「はい。千春です。えっと、黒羽さん、ですね?」

「おうよ!」

 ばさぁっと黒い翼を広げる。村人達は鴉の事を良く思っていない人間が多い。

 鴉は畑に蒔いた種を食べたり、畑を荒らしたりする害獣とされているからだ。

「黒羽さん、凄く早く飛べるのー」

「この山で黒羽さんの早さに勝てる鳥はいないくらいだよ」

「へへっ。そんな事言っても何もやらねぇけどな! そういや、おめぇらに言っておく事があったんだった。昨日、二つ向こう山に遊びに行ったんだが、そこでちょいと怖い話を聞いてな」

 小さな二匹は首を傾げながら、顔を合わせる。

「怖い話?」

「あぁ、何でもかなり凶悪な狼が出たらしく、周りの獣らもかなり被害にあっているらしい。一応、ここらの連中には声かけているんだが、お前らも注意しとけよー」

 まるで、二匹の兄貴分のようだ。

 以前、雪登に聞いた事がある。この山の動物達はお互いに争ったりしないのだと。

 確かに、この山は神の持ちものという訳もあるが、皆、草や木の実、虫などを食べて生活していると言っていた。


 ……ここでは弱いものも守られているのね。

 

 少し、羨ましくも思う。

「はーい。でも、二つも向こうの山なんでしょ? それなら、大丈夫なんじゃ……」

「いや、狼は足が早いからな。しかもここの山生まれじゃないから、話も通用しねぇ。もしかすると侵入してくる可能性だってあるんだ。用心するに越した事はねぇよ」

 黒羽は何度もうんうん、と頷いている。

 すると、またも頭上から声がした。

「おーい、黒羽! 大変だーっ!」

「おう? 赤羽じゃねぇか。どうしたー?」

 同じ鴉仲間らしい。

 赤羽と呼ばれた鴉は飛びながら叫ぶ。

「おい、お前の言っていた狼がこっちの方向へ向かって来ているぞ!!」

「えっ!?」

 その場にいた全員が驚きの声を上げる。

「俺も遠目で見たんだけど、あいつは危ねぇ。口周りにびっしり血が付いてた! お前らも早く逃げるんだ!! 俺は、そこらに居る奴らに声かけてくるから!!」

 そう言って、赤羽は向こうの方へと飛んでいってしまう。

「お、狼って、黒羽さんの言っていた……」

 千春はまだ狼を見たことがない。

 それでも、畑仕事中に腕を噛まれたなどの狼の被害については聞いた事がある。

 狼は肉食だ。自分達だって狙われかねない。

「間違いねぇ……俺は狗神様を呼んで来るから、お前達も逃げろよ!」

 黒羽は大きな羽を広げて社のある方向へと飛び去っていく。

「どうして、雪登さんを呼んで来るの?」

「狗神さまだけなんだ。この山で殺生をする事が許されているのは」

 いつもは明るい声で話すぽん吉がごく真面目に答える。


 殺生。

 つまり、殺す、ということ。


「この山は狗神さまのもの。だから、その分だけぼく達の事も狗神さまが守ってくれるんだ」

「狗神さまは凄いお力を持っているから、狼なんてぱぱーっと倒しちゃうよ!」

 との子の言葉にぽん吉も頷く。

 でも、千春は一つの事が気になった。


 ―――殺生する事が許されている

 

 それは雪登が殺す、という事なのだろうか。あの穏やかで優しい雪登が。

 でも、今は考えている暇などない。

「とりあえず、この場所から逃げましょう」

「そうだね。この場所だと目立っちゃうしね。あっちの方向に登り易い大きな木が……」

 そこで、ぽん吉は言葉を紡ぐ事を止めて、後ろの方を振り返る。

 彼の手元から、木苺がばらばらに零れ落ちていった。

「どうしたの、ぽん吉……」

 そう尋ねて、千春はぽん吉の向いた方を見た。

 

 花畑の向こう側、雑草の隙間に見えたその影は、紛れもない腹を空かせた狼だった。



    

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