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名の意味


 朝食後、片付けを済ませた千春は居間へと上がる。かなり年季の入った文机で、雪登は何か書き物をしているようだ。

 千春はお茶を淹れて、お盆に載せてから雪登の傍らへと座る。

「お茶です」

「ん、あぁ、ありがとう」

 書き物の邪魔にならないように、文机の下に湯のみを置き、文字を書くその姿を見ていた。

 眉はすっきりとしていて、目元も涼しげ。鼻は少しだけ高く、口はあまり大きくないが、全体から見ても整った顔立ちだということは、千春から見ても分かる。

 恐らく、自分が出会った事のある男性の中で最も「美形」だと言える。

 だが、書き物をしていた真剣なその面差しはやがて、自分の方に向けられる。

「……何か、私の顔に付いているのか?」

「へっ? ……あっ、すいません、じろじろと見てしまって……」

 突然、目が合って、自分が遠慮なく彼の顔を見ていた事が知られてしまったのかと思い慌てふためいたが、どうやら、ただ視線が気になっただけらしい。

「この文を今日、取りに来ると言っている奴が居たんだが、すっかり忘れていた」

「そうだったんですか。……確かに、ここ最近はお忙しかったでしょうね」

 誰か宛に文を書いているようだが、千春は字が読めないため何と書いているのか分からない。

 だが、彼が綺麗な字を書く、ということは分かる。

 流れるような文字はまるで水のようだ。

「水、みたい……綺麗ですね」

「……そうか」

「あっ……またわたし、生意気な事を申し上げてしまいましたか?」

「いや、別に……」

「すいません、勝手な事を言ってしまって……誰かが文字を書いているの、初めて見たので……」

 すると、雪登は一旦、文字を書く手を止めて千春の方を振り返る。

「そなた、文字が……」

 だが、その先は紡がずに、口を閉じる。

 彼が何と言おうとしているのか分かった千春は笑顔で頷いて答えた。

「はい。読めませんし、書けませんよ。習ったこと、ないので……お恥ずかしいです」

 父か母、どちらかが生きていてくれれば、教えてもらっていたかもしれない。

 ましてや、紙と筆なんて触れる機会さえなかった。

 自分の「千春」という字さえ、一度も書いたことがない。

「…………」

 雪登は黙り込み、筆を取って文に続きを書き始めて、再び筆を置いた。

 そして、その文を左脇へと置いて新しい紙を取り出す。

「……そなたの、千春という名前は千の春、でいいんだな?」

「え?あ、はい。そうだと思いますけど……」

 千春が頷くと、雪登は紙の端に「千春」と書き記した。

「……これが、私の名前ですか?」

「そうだ。書いてみるか?」

「……はいっ!」

 雪登は少し横へと体を移動し、紙に対して真っ直ぐ座れるように千春を促す。

 初めて持つその筆は、雪登が大事に使っている事がその触り心地で分かる。

「えっと、……こ、こうですか?」

 なるべく慎重に、千春はお手本で書いてくれた文字を見様見真似でその隣に書いてみる。

「あぁ。初めてにしては中々、綺麗な字だ」

 褒めてくれたのだろう。褒められた事さえ、本当に久しぶりだ。

「あの、雪登さんの字って、どのように書くんですか?」

 千春は隣に座っている雪登の方へと顔を向ける。

 その差はわずか拳ひとつ分。これほどまで、近くで顔を見た事があっただろうか。

 驚いたその瞳に自分がはっきりと映っているのが見えた。その瞳が小さく揺れるのも。吸い込まれそうだと思った。

 黒く、その美しい瞳はまるで玉のようだと思ったからだ。

 だが、視線を重なり合っているうちに、次第に自分の体の芯が熱くなってくるのが感じられ、千春は引き剥がすように再び、紙に向ける。

 何事もなかった、なんて今更出来ない。一瞬だけ、感じたあの感覚は一体何なのだろう。

 すると、ぼそり、と雪登は呟いた。

「……雪に登る」

「え?」

「私の名前は雪に登ると書くんだ」

 そう言って、千春から筆を取り、紙にさらさらと書いていく。

「雪と登る……」

「この名前を付けたのは母だ。私が元々、冬の終わりの生まれという事もあるが、雪という言葉には何色にも染まれるように、と意味を付けたらしい。」

「何色にも、染まれる……」

 それは白を連想させた。

 染物をする時、あの色は使う色次第で、何色にも変化した。

「登、という意味にはこれから先、雪のような道でも乗り越えられるように、という意味だと聞いた」

「雪の道……ですか?」

「あぁ。雪道は歩きにくいだろう? だから、そんな道を登っていける人になるようにと……」

「素敵な……とても素敵な名前ですっ」

 雪登が言い終わらない内に、千春は声を上げた。

「雪登さんの名前、そんなに素敵な意味があったんですね!」

 ぱぁと笑顔になる千春を雪登はぽかんと口を開けて見ていた。

「凄く、素敵だと思います。名前にそんな意味が込められているなんて。あ、もしかして雪登さんの名前を他に知っている人って居ますか? 神主様とか」

「い、いや……そなた以外は誰も……」

「では、わたしだけが呼んでいるんですね。何だか、秘密みたいで嬉しいです」

 千春は雪登の書いた字を見る。

 本当に綺麗な字だ。字体も意味も。

「……それなら、そなたの名前もだ」

 彼はもう一度、千春の名前を紙へと記した。

「千の春……つまり、沢山の春のような暖かさ……という事を表しているのではないだろうか」

「春の、暖かさ……」

「この名を付けた者はきっと、そなたに春のように暖かい心を持った人に育ってほしいと願いを込めて付けたのだろう。……いい名だな」

 その、穏やかな声。

 千春ははっとして、彼の方を向く。

 

 笑みを浮かべているわけではない。

 だが、優しげな表情で自分を見ていた。そこに寂しさはない。

 でも、無表情でもなかった。


  

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