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現の悪夢


 朝、起こしてくれたのは、鳥の声だった。美しい囀りが響き、千春は目を覚ます。

 ふと左を見ると、自分の隣には男性が寝ていた。

「…………」

 そうだった。自分はこの人の嫁になるべく、この場所へ来たのだったと思い出す。

 あまりにも気持ちよく眠ってしまっていたので、少し頭が働くのが遅れたようだ。


 雪登はぐっすりと眠っていた。その寝顔はまだ子どものあどけなさが残っていて、見ているこっちが安心出来るような安らかな表情だった。

 たまに、黒い耳がぴょこっと動くのが可愛らしくて、口元を袖で隠しながら笑った。


 さて、雪登が起きる前に朝食の支度をしなければならない。今までより、起きる時間は少し遅いが、それでも起きたのは早い方だろう。

 千春はなるべく音を立てないように布団を畳んだ。襖は雪登の隣にあるので、さすがに開ける事が出来ないので、彼が目を覚ましてから襖の中へ仕舞う事にした。

 まず、髪を一つに束ね、うなじ辺りで、結い紐で軽く括った。そして夜着から、持参してきた普段着へと着替える。

 元々は若葉色の着物だったが、かなり使い古されたお下がりであるため色がくすんでいる。それでも、千春にとっては大事な所有物の一つだった。

 袖が垂れないように襷をかけて、今日の朝食は何にしようかと考える。

 とりあえず、米を炊いて、そして、味噌汁と昨日残っていた山菜でおひたしでも作ろうかと悩んでいた時だ。


「……っん、ぐ……」

 小さく唸る声が聞こえ、千春は雪登の方へと振り返る。

 先ほどまで、安らかな表情をしていたのに、いつの間にか苦しそうな顔をしている。

「雪登さん……?」

 容態に気付いた千春はすぐさま雪登の枕元に駆け寄る。もしかすると悪い夢にでも、うなされているのだろうか。

 雪登は顔を顰め、胸辺りをぎゅっと強く握っている。

「あの、雪登さん、大丈夫ですか? ゆき……」

 その瞬間、伸ばそうとしていた腕ががっしり、彼の手に掴まれる。

「……ぃ、…だ………こっ……、い……」

 苦しそうにそう呟いたのだ。

 言葉にはなっていなかったが、それでも、彼が辛い思いをしている事は分かった。

「雪登さん、大丈夫ですか? 起きて下さい……」

 千春は左腕を掴まれたまま、右手で彼の肩を揺する。

 すると、彼は気付いたのか少しだけ目を開けて、一度閉じてから、今度はがばっと起き上がった。

「っは――……」

 左手を額に当てながら、ため息を吐く。彼の額や首辺りには汗が流れていた。

 相当、怖い夢でも見たのだろうか。

「あの、雪登さん……大丈夫ですか? とても苦しそうでしたが……お水でも持ってきましょうか?」

 千春は雪登の顔を伺いながら尋ねてみる。

 すると、彼はまだ辛そうだが、こっちに顔を上げて口を開こうとしたが、何かに気付いたらしく、ぴたり、と石のように固まる。

 その視線の先にあるのは、雪登が握りしめた千春の腕―――……

「……っ、すまない……、寝ぼけていたようだ……」

 すぐにその手を離し、何事もなかったかのように額の汗をその手で拭う。

 見たところ、体調が悪いわけでは無さそうだ。何か寝苦しくなる夢でも見ていたのだろう。

「いえ。でも、突然、うなされていましたから驚きました……。あっ、すぐにお水持ってきますね」

「あぁ、頼む……」

 千春はその場を離れて、水を取りに行く。


 だが、ふと思った。さっき、彼が呟いていたあの言葉。

 あの響きにどことなく、聞き覚えがあるのは気のせいだろうか。

 例えば、「嫌だ」とか「怖い」とか。


 ……まるで自分みたい。

 

 雪登には見えないように、自嘲する。

 小さかったあの頃、柱に縛り付けられ、動けない自分に浴びせられる罵倒と、蔦のような鞭が自分に向けられ飛び交っていた。

 その中で、ひたすら叫んだ言葉。

 この体を彼に見せてはいけない。きっと、目を背けたくなるだろう。あの店の主人と、その妻は、見えない所に一生消えないような傷を付けるのだから。

 自分だけではなく、他に雇われていた者も同じ様な体をしているはずだ。あの場所に、あの部屋にだけは二度と、二度と帰りたくない。

 千春は湯のみに瓶に汲んである水を注ぎながら、ちらりと彼を見る。なんだか、疲れきった表情で、頭を抱えている。


 ……この人にも、何か嫌な思い出があるのかしら。


 それでもいつか、彼の胸に秘めた事を話してくれる日が来るだろうか。

 いつか、自分も自身の事を言える日が出来るだろうか。

 自分は「嫁」であって、まだお互いに心からの「夫婦」ではない事は分かっている。この関係を乗り越えて、お互いに思い出話のように話せる日が来るだろうか。


 ……そんな事ばかり考えても仕方ないわね。

 

 自嘲の笑みを止めて、雪登の元へと向かう。自分の立ち位置が生け贄のままでも、それでも支えたいと思うことはいけない事だろうか。

 自分はまだ、彼の笑った顔を見た事がない。それならば、彼が笑ってくれる日が来るまで、彼のために何か出来ることはないだろうか。


 些細な事でもいい。

 彼に一度だけでいいから、微笑んでほしいと何故か思ってしまった。


   

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