比べること
夕食後は雪登が淹れてくれたお茶で食休みしていた。
何でも、このお茶は椿の葉と茶の葉を混ぜたものだという。椿は元々、茶の樹の仲間らしく、摘んで来た椿と茶の葉を火で一度燻ってから、粉々にして、日干し乾燥させたものらしい。
そのため、味は微かに緑茶のような味がした。
「わたし、お茶を飲むの久しぶりです。いつだったかな……確か五つくらいの時に飲んだ以来です」
「……神主にそなたは『倉野屋』で働いていたと聞いたが。奉公に出されたのか?」
雪登はふと、思い出したように話す。
だから、千春も小さく頷いて答えた。
「そうですね。私が六つになる前に父が流行り病で亡くなりまして。それで母と一緒に住み込みで働く事になったんです」
もし、父が今でも生きていたなら、きっとあんな場所で働かせたりはしなかっただろう。
下男や下女を人として扱わないあの場所では。
「でも、暫くして母も病気がちになりまして、薬代を払いきれずに倉野屋の旦那さんから借金したりして、私が二人分働いたりしていました」
それでも、母の容態は良くならなかった。
きっと、自分達が寝床として与えられていたあの場所の環境が悪かったせいだと今でも思っている。
じめじめして、日なんて当たらない。
空気は重くて、鼠や虫も見かける事はよくあった。
「もう、十年くらいですね……あの場所から出るなんて、きっと無いと思っていました」
「そんなに、嫌だったのか」
湯のみに落としていた視線を上へと上げる。
囲炉裏の炎が揺らめき合う中、互いに重なり合う視線。
少しだけ、息を飲む音が聞こえた。
「……はい。嫌でした。でも、動けない母を残して出て行く事は出来ませんでしたから」
母も何度か自分を置いて逃げなさいと言った事があった。
それは、自分の事を思って言っている事は分かっていた。
だけど、出来なかった。
例え、辛い仕事を割り当てられても、逃げる事が出来なかった。
母を守るのは自分なのだと、子供心ながらに思っていたからだ。
「……そなたは、自ら生け贄になったのか」
「――いいえ。わたしは旦那さんの思惑によって、指名されたそうです」
この人に嘘は付けない。
だから、本当の事を話してしまう。
もしかすると、彼を傷つけてしまう言葉があるかもしれないのに。
それでも、彼は真っ直ぐな瞳を自分に向けて答えを待っている。
「わたしは倉野屋が繁盛するように、旦那さんの意図によって、ここへ参りました。……でも、もういいんです」
自分は所詮、倉野屋の旦那にとってはただの道具だろう。
それでも、ここへ来て、久しぶりに人として対等に扱ってもらえた事が何よりも嬉しかった。
一日過ごして、彼の事で分かった事なんて、ほんの少しだ。それでも、雪登は穏やかで、とても優しい人なのだと分かった。
「何故だ。生け贄ならこの場所で私と共に一生縛られる事になるんだぞ。もし、戻れるなら……そなたは人の世界へ戻りたいと思わないのか」
まるで怒っているかのような真剣な表情に釘付けになった。妖艶だと思った。
きっと、これ以上美しいものはないのだろうと思う程、雪登の表情が美しく、心の中がざわつく程に切なく感じられた。
「……わたし、生け贄でも、そうじゃなくても……雪登さんの所に来られて、本当に良かったと思っているんです」
雪登の瞳の奥が揺らいだ。
その一瞬の戸惑いのような表情にどのような意味があるのか、自分も分からない。
「きっと、あの場所の事と、これから過ごすこの場所の事を比べる事は出来ません。でも……出来るなら、ずっとこの場所に居たいって思います」
千春は穏やかな表情で雪登を見る。
彼は面食らったように自分を見ていた。
肩が少し震えているようにも見える。
「……そなた、物好きにも程があるぞ」
雪登は思いっきり溜息を吐きつつ、右手で頭を押さえている。
「そうでしょうか……?少なくともわたし、人として扱われた事がなかったので、今日、雪登さんから優しくされて、とても嬉しかったです」
率直な意見を述べただけなのに、雪登はまたも目を見開いた。
「や、優しくなど……」
していない、と小さな声が掠れたように聞こえる。
そして、視線を逸らす。
囲炉裏の火で頬が染まっているように見えるが、本物かどうかはさすがに聞けなかった。自分もそこまで不躾ではない。
しかも、相手は神なのだから。
でも、それさえ忘れてしまう程、雪登と一緒に居る時間は穏やかだった。
「さて、そろそろ火を消してお休みしましょうか。布団を敷きますよ」
「……布団なら、そこの襖に……」
襖を開けてみると、新しい布団があった。きっと、自分が来るので、わざわざ用意してくれたのだろう。
しかも、敷布団だけではなく、掛け布団もあるらしい。庶民の殆どは敷布団に夜着で寝ている。お金を持っている者は掛け布団で寝ているらしいが。
「布団を敷いたら、先にお休みしていて下さい。わたしは少し、片付けをしてから休みますんで」
「それなら私も……」
そんな雪登を制して、千春は素早く布団を敷いた。
「はい、準備出来ましたよー」
それに従うように、雪登は仏頂面で渋々、白い夜着へと着替えてから布団の上へと寝転がる。その上に掛け布団を掛ける。
「まだ、眠くないんだが」
「でも、外は暗いですよ?」
そう言うと、雪登は観念したのか、横に体を向けて、溜息を吐きつつも寝る体勢に入ったようだ。
「おやすみなさいませ」
「……おやすみ」
その言葉が返ってくるのが嬉しくて、千春は目を瞑っている雪登に向けて微笑んだ。
心の奥が騒ぎ出してくる。
彼の一つ一つが嬉しくて仕方ない。
まだ、そこに恋慕があるのかは分からない。
それでも、出来ればずっと、雪登の隣に居たいと思う気持ちは偽りではないのだ。




