49 勇者-3
2017.6.10
ユン編は全5~6話予定なので折り返しです。
「うっわぁ~~~……!!」
村を出た日から一月弱。
ユンは人生初の長旅の末、ついに王都へと到着した。
巨大な門を抜け目の前に広がったのは、この大陸の北側半分を牛耳る超大国、ライゼルファルム王国の首都。つまりは、世界でも一二を争うような、正真正銘の大都会である。
建物はほぼ全てが綺麗に切り出された白い石から作られており、様々な格好をした人々が、道を埋めるかのように歩いている。
馬車の窓から覗いたそこは、完全に別世界だった。
「うわ~、す、凄い! 人ってこんなにいるんだ~!!」
「ふふ、ここに初めて来た者は、皆同じ事を言うよ」
グスタフ将軍が興奮したユンに微笑ましそうに返す。
ちなみにこの一月で、グスタフ将軍とユンはすっかり打ち解けてしまっている。正直この人、中身はただのおじさんだしとはユンの談である。呼び方も『様』から『さん』という気安い物に変わっているほどだ。
「だって、だって、凄いです! ゼルムスでも凄かったのに、あれよりもっともっと凄いだなんて……!! あ、ほら、あれ見て!! グスタフさん!!」
「ははは」
ユンもこの時だけは、色々な事を忘れてしまっていたかもしれない。
興奮しているユンを見て、グスタフ将軍も笑っていた。
「う、うわぁ…………」
――打って変わって、ユンは完全に引いていた。
あれから更に半刻ほどの時間をかけ、馬車は国王が座すという王宮へと到着した。
見上げるような城壁が囲うのは、村の畑何枚分もするような、ありえない規模の広大な庭。
街並みと同じ白い石で組まれた屋敷は見上げるように高く、なんと一番高い所では6階建てになっている。
高さだけでなく、もちろん横もだ。というより視界の端から端までに収まり切らない。もしかしたら建物の大きさだけで、ユンの村ぐらいあるかもしれない。
そして門の内側から見れば、その光景は外から見るより更に凄い。
視界に見える全ての範囲。地平線に至るまでが、この王宮という物の為の敷地であるようだった。
いや、これはない。これはやり過ぎ。
小市民たるユンの感性は、城という作り話のような存在を受け入れられない。
これが1人の人間の権威を主張するためだけに建築された物だというのだ。正直言って冗談だとしか思えない。最初に作った人間は相当な馬鹿で、金の使い道を他に思いつかなかったに違いない。
(こ、これが国で一番偉い人たちが見てる景色なのか……意味が分からない)
「――さあ、ユン殿。参ろうか」
「ひゃ、ひゃいっ!」
グスタフ将軍に促され、彼の後に続くようにしてユンも馬車を下りる。
ガチガチに緊張しながら段差に足をかけた、その瞬間――。
「―――!?」
ユンの目の前に広がっていたのは、何百人もの騎士たちが、敬礼を取っている光景だ。
旗の付いた長い槍を空へと構えた騎士たちは、その格好のまま微動だにしない。
その敬礼と視線は全てがユンに向けられており、この歓迎が誰の為に行われているかなど、残念な事に一目瞭然であった。
「あ、あわわわ……」
「ユン殿、こちらへ」
「!? は、はいっ!!」
いや、これはもっとない。絶対におかしい。なぜ自分はこんな事になっているのだろうか。
ユンはグスタフ将軍とその付き人たちの背中に隠れるように、なるべく周りを見ないようにして先へと進んだ――。
「では陛下との謁見の前に、少し準備をさせて貰っていいかな?」
城内に入ると、グスタフ将軍がユンを振り返るなりそう言った。
「じゅ、準備ですか?」
「ああ。お互い長旅の後だろう? 陛下に失礼の無いよう、少し身なりを整えなければな」
「え……!」
確かに。言われてみればその通りだと、ユンは自分の格好を見下ろす。
ここまで緊張のせいで何も考えていなかったが、こんな薄汚い姿で王などという地位の人物の前に出る訳にはいかないだろう。貴族社会など全く知らないユンには、たぶんという注釈が付くが。
「侍女長、後を頼んでいいな?」
「はい。お任せ下さい、将軍閣下」
グスタフ将軍の声に、四十代ぐらいの貫録ある侍女が答える。この女性こそが王宮の全ての侍女、そのまとめ役たる侍女長であった。
「ユン殿、彼女が身の清め方から服の着方まで、全てなんとかしてくれる。彼女の言う通りにしていれば何も失礼な事は無いから、安心してくれたまえ」
「あ、は、はいっ!!」
「それでは、私もしばし席を外させて貰う。また後で会おう」
そう言ってグスタフ将軍は足早に去っていく。彼には報告の義務もあるのでユンより忙しい身の上だ。
右も左も分からぬ地に1人残されたユンだったが、侍女長がすぐに案内を始めたので、いたずらに不安を募らせずに済んだ。
「勇者様、それではこちらへ。まずは浴堂で身を清めましょう」
「は、はいっ!!」
廊下とは一体……。そんな感想を持ってしまう程に広く煌びやかな、どちらかと言うと『空間』と言った方が近い規模を誇る廊下を進み案内されたのは、同じように広く、そして豪奢な調度品に溢れた1つの部屋だった。
言われるがまま中に入ると、やけに湿度が高いように感じられる部屋の中に、侍女長と同じくメイド服に身を包んだ女が更に2人ほど待ち構えていた。
「隣が浴堂になっております。服はここでお脱ぎになって下さい」
「えっ……!?」
フク? ヌグ? ナンデ?
そういえば身を清めるとか言っていた気がすると、ユンは今頃になって先程の会話の意味を理解した。
『よくどう』って何だろうとぼんやり考えながらついて来たユンだが、それが村で言うところの水浴びの事だと今更気付く。
「え、えと……」
「よろしければ、わたくし共がお手伝いしますが?」
「い、いえ!? 大丈夫ですぅっ――!?」
ユンがいつまでも脱ぎ始めようとしなかったからだろう。侍女長と他の侍女たちが一歩近付いてそう言ってきた。
慌てて服を脱ぎ始めるユン。こんな歳になって着替えを手伝われるなんて冗談じゃない。恥ずかしい。
(……でも1人だけ裸になるって現状も、ありえないぐらい恥ずかしい気がする……)
というより、絵面を想像するとどこか間抜けだ。
ユンはいきなり味わう事となった王宮の洗礼に困惑する。
「勇者様。わたくし共は普段から、王族の方々などのご入浴でも、同じように奉仕させて頂いております。こちらとしては普段通りの仕事ですので、何も恥ずかしがる必要はございません。もう少し、肩の力をお抜きになって下さい」
「は、はい……」
ここにきてユンは初めて侍女長たちがどういった役職の人間なのかを理解した。馬車隊の中にも2~3人いたが、恐らくは『下女』という奴だろうと見当をつける。
(そっちが気にしなくっても、ボクは気にするんだけど……。でもグスタフさんも、彼女に全て任せろって言ってたし……)
結局仕方なく、ユンはされるがままになった。
結論として、水ではなくお湯で身体を洗えるというのは凄く良い。とても良い。
だがその体を洗うのまで手伝われたのは耐え難い。まさか自分はこれから毎日こうやってお世話されるのかと、開幕からいきなり新生活に不安を抱くユンだった。
「勇者様、お綺麗ですわ」
「…………」
身を清め髪を梳かしたユンは今、死んだ目をして鏡の前に立っている。ちなみに鏡を見たのは生まれて初めてなユンである。
職人の手により恐ろしいまでに均一に磨き上げられた黄金色の銅板の中には、水色の上等な服を着た、赤髪の女……つまり、ユンが立っている。
まるで貴族のような服だ。というより、本当にそういう物なのだろう。
こんな服に自分なんかが袖を通すなんて恐ろしい。もしもどこかを破ったりしたらどうしよう。彼女たちは自分が怪力だという事を知らないのでは……。
そんな事をグルグルと考えている内に、同じく生まれて初めてとなる化粧や、香油を擦りこまれ時間は過ぎた。
最後に侍女長が隅々まで出来を確認し、別の部屋へと通される。慣れない高い靴のせいで歩きにくい。
「――おお!? ユン殿か!? なんと、見違えるようじゃないか。うーむ……君はとても美しいのだな」
同じく身なりを整え、報告も既に終えていたグスタフ将軍が合流するなりそう言った。
「い、いえ、そんなっ。服が綺麗なだけだと思いますっ……! というか、ボクはお世辞を言われるような身分の人間じゃないですから!」
「いやいやいや。それこそ、まるで本当にどこかの貴族家の御令嬢のようだよ。いやぁ、我ながら一月も一緒にいたのに気付かなかったとは。貴族を長くやり過ぎたかな。にしても、ううむ、これはこれは……」
「も、も~! やめて下さいよ!」
グスタフ将軍は庶民的ながらも歴とした貴族であり、その価値観は過剰な装飾を是とする文化に染まっている。これまで接してきた女性たちは常に華美に着飾った状態であり、ユンがそれらと同じ次元に立った事で、やっとその美しさに気付いたのである。
その後も何度も容姿を褒めてくるグスタフ将軍にユンはひたすら頭を下げ、やっと本題に入って貰う。
「さて、これから陛下との謁見がある訳だが……その前に、いくつか注意をしておこう」
そう言ったグスタフ将軍が教えたのは、国王の前に出る際の最低限の作法だった。最低限と言っても、その数は十にも及ぶ。
ユンはなんとか暗記しようと指折り数えながら、本当に大丈夫だろうかと不安になる。
(ぼ、ボクって一応勇者らしいし、滅多な事で首を落とされたりしないといいけど……)
「まあ君が平民である事は既に私の方から伝えてあるからね。陛下は心の広い方であるし、少しぐらいの無礼は笑って許して下さるから、安心したまえ」
「は、はあ……」
「うむ。それでは参ろうか」
「!!」
そうしてついに、ユンはこの国の頂点に立つ人物――国王と、対面するのだった。
「――その方がユンか。面を上げよ」
「は、はい!!」
玉座の間と呼ばれているらしい、これまでに輪をかけて広大かつ荘厳な部屋でユンを待ち構えていた男。この男が、この国の頂点に立つ人物。
――ライゼルファルム王国現国王、キール・クロロ・ノア・ライオノス。
金持ちだというのにほとんど肥えておらず、眼光は静かな迫力を有している。
歳はユンの父親やグスタフ将軍より一回りばかり上だろうか。それなのに、身に纏う気配には一切の衰えがない。奥底に宿している物が違うのだと、ユンは見た瞬間にそれが理解できた。
これが人の上に立つ人物というやつなのだろう。
「まずは長旅、苦労であった。休む暇も与えず呼び出して、悪かったな」
「!? い、いえ!! 大丈夫ですっ!!」
「…………」
口を開いてから、しまったと後悔する。今のは礼を言うべき場面だったのではないか。
まさか国王の第一声が謝罪とは思わず、咄嗟に返事してから気付いたのだ。
ユンは慌てた様子で付き添いとして隣に参上していたグスタフ将軍を見やるが、彼は平然としている。
「――うむ、そうか。ならば良かった」
国王はユンの平民丸出しな失礼な応答にも、嫌な顔一つしない。
グスタフ将軍の言う通り、心の広い人物なのだろうか。
(それとも偉い人はみんなこんな感じなのかな……グスタフさんもそうだし)
……想像よりマシな状況だったからか、ユンは少しだけ冷静さを取り戻す。
(そうだ。ボクは言われた通りの返事だけすればいいって、グスタフさんも言ってたし)
グスタフ将軍に教わった事を頭の中でもう1度思い返し、ユンは国王の話を聞き逃さないよう、真剣に耳を傾ける。
「将軍から話を聞いていると思うが、今この国は……ひいてはこの世界は、滅亡の危機に瀕している――」
グスタフ将軍に聞いていた魔族の話を、国王が改めて説明する。
世界がいかに危機であるか。
それにより既にどれだけの被害が出たか。この先どれだけの被害が出るか。
そしてユンなら、その全てを止める事が出来るとも――。
「――ユンよ。この国の為、民の為、そなたに力になって貰いたいのだ。頼めるか?」
「は、はいっ!! ボクで良ければ――!!」
自国の王からそのように言われて、断れる訳が無い。
ユンは一も二も無く頷いた。
「そうか、礼を言おう。――ではこれより、『選定の儀』を執り行う。皆、用意を」
「はっ!!」
騎士たちが剣を掲げて道を作り、それを見守る大臣たちも一列に並ぶ。
そしてグスタフ将軍から聖剣を受け取った国王が、座していた玉座から立ち上がった。
「――では勇者殿。私の言う通りに、前へ」
「は、はい」
途轍もなく高い地位にいそうな老人――宰相が、ユンの隣に立ち指示を出す。
彼に言われる通りにして、ユンは国王の前までやって来た。
国王の隣に控えていた背の高い騎士が、なぜか1歩、ユンを見ながら注意深く前に出る。
「――この剣は闇を払い、災厄を断ち、民草を護るだろう……」
国王が鞘に入ったままの聖剣を掲げ、口上を述べる。
どうやらユンは聞いているだけでいいらしい。
それはなんとなく、村に年2回ぐらいの頻度で来ていた吟遊詩人の歌のようだった。
「そなたが求めるのが『救い』であれば、この剣は光を持って応えるであろう。そしてそなたが『滅び』を求めるのなら、この剣はそなたこそを滅ぼすだろう。――さあ、挑みし者よ、示すがいい」
国王が、ユンに聖剣の柄を向ける。
「勇者殿、鞘から聖剣を引き抜き、上に向かって掲げて下さい」
「えっ!?」
(今、ボクを滅ぼすみたいな事を言ってた気がするんだけど……)
いや、この前一度触ったのだ。大丈夫な筈だと自分に言い聞かせ、恐る恐る指を伸ばす。
そして聖剣に触れた瞬間、不意に『それ』が――『伝わって』来た。
――――。
「……!?」
指先に触れた聖剣の柄。
そこから『何か』が……伝わってくる。
言葉ではない。色でも、形でもない。
ただ、それは――ユンに向かって、「自分を使え」と念じて来たような気がしたのだ。
その不思議な感覚に導かれ……ユンはごく自然に、柄を握る。
宰相に言われた通り、鞘から刀身を引き抜いた。
まるで最初からそこにあったかのように――
――その剣は、ユンの手の中へと納まった。
「――!?」
「おお!!」
そしてその瞬間、白銀の刀身から、眩い光が発せられた。
(――――っぶないから!! おっことす所だったじゃん!!)
ユンは心臓の鼓動を爆発させながら柄をしっかりと握り直す。
最初に出会った時に光っていたのを見ていなければ、間違いなく手を離してしまっていただろう。
聖剣の発した光に、ユンだけでなく、大臣や騎士たちもどよめいている。
だが、そのどよめきは嫌な感じの物ではなく、純粋な驚きから生じた物のようだった。
(これは……大丈夫だった、って事なのかな?)
――――。
こうしている間にも、光と共に、聖剣から色々な感覚が流れてくる。
不思議な事に、振り返ってもいないというのに、後ろの騎士たちの様子が手に取るようにして分かった。
こんな感覚は初めてだ。まるで視界が広がったかのよう。
後頭部に目でも生えてきたんじゃないかと、ユンは思わず手をやってしまう。
「うーむ、文献の通りか……」
国王がポツリと零すのを、ユンの人並み外れた聴力が捉えた。
……そういえば、グスタフ将軍が馬車の中で、最後に勇者が現れたのは百年以上前だと言っていた。
(もしかして、王様たちも半信半疑だったんじゃ……)
ユンがそう思って国王を見ると、ほんの一瞬だけ、誤魔化すように片目をパチリと閉じられた。ウインクだ。
それはこれまでの威風堂々たる様子からすると似合わない、子供っぽい反応だった。
意外とお茶目な人なんだろうか。ユンはそう思ったが、言ったら周囲から怒られそうなので黙っていた。
そのまま国王は、何事も無かったかのように儀式を進めた。
今の光が、聖剣に使い手として認められた証だと教えられたのは、少ししてからの事だ。
(どうやらボクは、本当の本当に、勇者という奴らしい――)
こうしてユンは、聖剣を預かる身となったのである。
「ユン殿に会わせたい者がいるのだ」
グスタフ将軍がユンに与えられた過剰な大部屋を訪ねて来たのは、それから1刻ほどしてからの事だ。
「ボクに会わせたい人……ですか?」
「ああ。前に言っていた、君と共に戦う事になる仲間達だよ」
「あ!」
話に聞いていた、自分と一緒に戦ってくれるという猛者たちの事だろう。
ユンは緊張の面持ちで頷いた。
(どんな人たちなんだろう。優しい人たちだといいな……)
グスタフ将軍に連れられてやって来たのは、先程国王と会う前に作法を教えられていた、あの部屋だ。……廊下には右にも左にも同じような扉が並んでいるので、本当に同じ部屋かは確証が無いが。
その部屋の中央に3つ置かれた、非常に高級そうな皮張りの長椅子。
そこに――ユンと同い年ぐらいの、1人の少女が座っていた。
「――ハーゲン殿。彼女が勇者だ」
グスタフ将軍にハーゲンと呼ばれたその少女は――
――ユンの事を、出会っていきなり、胡散臭そうな目で睨みつけた。
(いきなり怖い人だった――っ!?)
唾でも吐き捨てそうな雰囲気だ。ここが村だったら、ユンは回れ右して一目散に逃げ出していたのは間違いない。
「…………」
「あ、あの……はじめまして?」
「……はぁ」
勇気を振り絞ったユンだが、それに対して返って来たのは呆れたような溜め息だった。
そしてその目線はユンではなく、その斜め前にいたグスタフ将軍の方へ向かう。
「――将軍、本気で言ってますか? まだ子供、しかも女性じゃないですか」
歳はほとんど変わらないと思うんだけど……女なのも同じだし。
ユンはそう思いはするが、口には出さない。その同い年の少女相手に十分ビビっていた。
「何を驚く事がある? 文献に残る勇者の半分は女性だろう。伝説の方でも語られている。それこそ君や、クラリカ様だって同じじゃないか。女性で、若く、誰よりも実力があ――」
「チッ――」
(舌打ち!?)
将軍というのは偉い役職だったのではないのだろうか。ユンは目の前の少女の、自分だったら絶対に出来ないであろうそのリアクションに面食らう。ただし将軍をさん付けで呼ぶのも本来なら十二分に不敬である。
「あのですね、将軍。そもそも、なぜ私なんですか? 魔物の討伐など……そのような物は、元々戦士団の仕事でしょう」
「いや、魔族は強すぎる。戦士団でも相手にならん。それこそ、聖剣が反応する程の世界の危機なのだぞ?」
「じゃあ、かのご高名な賢者様にでも倒して貰ったらどうですか? 彼女は『王国最強の魔法使い』なんでしょう? 『王国魔法使い長』であるこの私より、さぞかしお強いのでしょうねぇ」
「うーん」
グスタフ将軍が眉間を押さえる。
(『王国魔法使い長』?)
『しょうぐん』とどっちが偉いのだろうか。ユンは2人を見比べる。正直ハーゲンという少女の方が偉そうだ。グスタフ将軍は偉そうじゃない。最近はもしかして本当に偉くないんじゃないかという疑惑が浮かぶぐらいだ。
「……ああ、すまない。ユン殿、こちらは王国魔法使い長のルーチェ・ハーゲン殿だ。この王国で最強の魔法使いだと、正式に認められている方だよ」
「え? 最強の魔法使いは賢者様なんじゃ――」
「――――」
「ひっ!?」
ユンが口を開いた瞬間、彼女の眼光が鋭くなった気がした。
腰に下げた聖剣からユンへと、『良くない感覚』が流れてくる。
(これって……さっきの儀式の時もそうだったけど……。――もしかして、聖剣がボクを、助けてくれようとしてる……?)
「は、はは。まあ仲良くしてくれたまえ。歳も近いのだし、気が合う事も多いと思う」
「――あ、は、はいっ! ユンです! よろしくお願いします!」
グスタフ将軍の取り成しに、ユンは慌ててハーゲン……ルーチェという名の少女に頭を下げる。
(王国で、一番強い魔法使い様……)
ユンの人生に初めて現れた、本物の魔法使いである。
魔法とは、どんな物なのだろうか。
吟遊詩人の歌のように、本当に海を割り、山を削るような事も出来るのだろうか。
ユンは初めて魔法を見てしまうのではと、人知れずテンションを上げ始めていた。
「――いえ、私は参加しませんから。仲間面しないでくれます?」
(うわーん、怖いよぉーーっ!)
心の中で遠く離れた姉に助けを求めていると、グスタフ将軍がユンにしか聞こえない声で小さく言った。
「すまないな、ユン殿。彼女は最近色々あって、ちょっと気が立っているだけなんだ。本当はよく出来た子でね。貴族なのに平民を差別したりもしないし」
「は、はあ……」
「君とはきっと仲良くなれると思うよ。…………賢者様の話題さえ出さなければ」
「は、はい。気を付けます」
ルーチェは噂の賢者と仲が悪いのだろうか。もしかしたら、最強の座を奪い合っている仲なのかもしれない。
「さあ、他の面々もしばらくすれば来る筈だ。それまで座って待っていよう」
(えっ!?)
どうやらこの部屋には、これからユンの仲間になるという人物たちが全員が集まって来るらしい。
(ボク、それまでルーチェ様と同じ席に座っていなきゃならないの……?)
ユンは非常にギクシャクした動きで、グスタフ将軍の隣に座った。
結局、それから半々刻ほどに渡り3人の待機は続いた。
「――大体、魔物討伐って。私は王国魔法使い長なんですよ? 分かりますか、4人もいるあなた方将軍と違って、1人しかいないんです。暇じゃないんですよ。本当はこうしている今も、書かなきゃならない資料や書類が、私の机に山積みにされていっているんですよ」
「――世界の危機とか。私今、18なんですよ? そんな事やってて行き遅れたら、本気でどうしてくれるんですか?」
「――ハッ、15の賢者の次は、16の勇者ですか。ええ、それに比べたら私なんて大した事ありませんよ。何しろ『2番目』だから防衛戦力にはいらないとか言われて、ここに集められてるぐらいですからね」
その間、ルーチェはひたすら濁流のように文句を言い続けていた。
対面に座ったグスタフ将軍が、ユンの隣でそれを宥めている。
(うう、ほんとにボク、なんでこんな事になってるんだろう……)
胃が痛くなりそうな長い半々刻が過ぎた頃、扉が外から叩かれた。
「将軍閣下、無事のご帰還、何よりです」
「ああ、サンヌ。ありがとう」
入って来たのは、サンヌと呼ばれ若い兵士と、腰に剣を1本だけ下げた、ごく一般的な服を着た平民然とした男の2人組だ。
ユンと同じ平民らしき男の方は、少し癖っ毛の茶髪でたれ目なのが印象的。なんとなく眠たげな猫を想像させる、ボーっとした雰囲気の男だ。
「サンヌ。そちらが、あの?」
「はい。――『最上位傭兵』の1人、シャルムンク殿です」
「あ、どうも」
(『最上位傭兵』――!?)
その単語にユンは驚愕から目を見開く。
件の傭兵。それの最上位という事は、正真正銘、最強の猛者だという事だ。
正直な所、ユンからはその辺にいる一般人と同じにしか見えないのだが……。
「シャルムンク殿、よろしく頼む。王国正規軍第4将軍、グスタフ・ヨーグライルだ。……それで、説明はもう受けている筈だね? 本当にこの依頼を引き受けてくれるのだろうか」
「どうも、シャルムンクです。平民の出なので家名はありません。ええ、俺は報酬さえ貰えれば……いや、あと犯罪じゃないなら大丈夫です。……大丈夫ですよね?」
「もちろん。倒すのは人じゃない、魔族だ。この依頼は国王陛下直々かつ、ちゃんと世間に公表される物だ。安心してくれたまえ」
「じゃ、大丈夫です」
(……うん、なんだか怖い会話が聞こえたような気がするけど、聞かなかった事にしよう)
まさか自分がこんな作り話のような会話に遭遇するとは思わなかった。
このような場所には本当にそんな話があるんだなぁと、ユンは割と本気で他人のフリをする。というより今の会話を聞いた自分は大丈夫なのだろうか。全てが終わった後に『消されたり』しないだろうなと青ざめる。
「まあ伝説の勇者様と冒険できるなんて一生自慢できますしね。そういえば、勇者様に顔見せって呼ばれたんですが、まだ来てないんですか?」
シャルムンクが長椅子に座ったままのユンとルーチェをチラリと見る。
やはり初見でユンが勇者だと思う人間はいないようだ。ちなみにユン自身も思っていない。
「ああ、紹介しよう。――彼女が勇者、ユン殿。そしてこちらが王国魔法使い長のルーチェ・ハーゲン殿だ」
「は、初めまして」
「…………」
椅子から立ち上がって頭を下げるユンと、椅子に座ったまま見向きもしないルーチェ。
シャルムンクの口がその2人を見て、ポカンと開いた。
「……は?」
――コンコン。
次に扉が鳴ったのはそれからすぐの事だった。
入って来たのは甲冑姿の4人の騎士。そして、手首を縄で縛られた、柄の悪い男が1人。
「閣下、連行致しました」
「うむ」
明らかに場違いな雰囲気を放つ縛られた男に、聖剣が強く反応する。
一体どういう人物なのかとユンが眉を顰めていると、ルーチェが咎めるような口調で口を開いた。
「正気ですか、将軍……。犯罪者を使うつもりですか?」
「えっ」
犯罪者。
だから縄に縛れているのか。
(え? というか、「使う」っていう事は、もしかしてこの人……ボクらの仲間なの!?)
「犯罪者ではない。重犯罪者だ。なにしろこいつは、あの大盗賊団『血濡れ』の一員。『例の一件』でついに捕縛となったが、命惜しさに捜査に協力的だった為、生かされてきた」
「へえ、元盗賊ですか。なるほどね」
盗賊という言葉に目を見開くユンの横で、シャルムンクは平然と頷いてみせる。
「はあ?」
ルーチェがシャルムンクを睨む。説明を求めているようだ。
「ああ、知りませんか? 傭兵の世界だと、ごく普通にいるんです。元盗賊ってのは、冒険するのには役に立つんですよ。一応の戦闘力はあるし、熟練の傭兵級に地理にも詳しい。しかも罠や待ち伏せ、気配の察知に敏感ですしね。何より『殺し』を恐れない。下位傭兵の一番の壁ですから、それが無いだけでも上等です」
「だからなんだって言うんですか? 犯罪者ですよ?」
「まあそうです。でも、『だからこそ』、なんでしょう?」
シャルムンクがグスタフ将軍の方に顔を向ける。
それを受け、グスタフ将軍はさも当然という風に頷いた。
「ああ、その通り。何しろ、死んでもいいからな」
ユンは自分の眉間に皺が寄ったのが分かった。見ればルーチェも同じようだ。
……確かに、この人となら意外と仲良くなれるかもしれない。彼女の思わぬ一面にそんな事を考えていると、元盗賊だという男が初めて口を開いた。
「ま、要するに、もう用済みだから死ねって事さ」
男は皮肉気に肩を竦める。
軽い口調とは裏腹に、その目は暗く濁っていて、ユンは得も言えぬ忌避感を覚えた。初めて見た盗賊という物は、不吉な気配を放っていた。
「死ぬのが嫌なら、勝てばよかろう。装備は最上の物を用意してやるぞ」
「ハッ、ちげぇねえ」
ユンはその言葉と男の様子に、衝撃を受けた。
その男はごく自然に、当たり前のように――戦いに赴く事を、受け入れているようだった。
一月という時間をかけ、それでも未だに実感の湧いていない自分とは、大違いの態度だった。
「聞いてた感じだと、そっちの兄ちゃんは傭兵さんかい? 階級は?」
「一応、最上位」
「はああああ、その若さでか!? 怖ぇ怖ぇ、なるほどねぇ」
「うむ、そういう事だ。下手な真似が出来ると思うなよ」
「……ああ、そういう事ですか。請け負いました」
男3人だけで話が進む。
ユンが所在なくルーチェの方を向くと、向こうもそうだったのか、目が合った。慌てて顔を背けられる。
2人のその様子に、シャルムンクが苦笑を漏らした。
「こいつがもしも変な事をしたら、俺が殺すって事ですよ」
(ひっ)
やっぱりこの人たち、怖い。
ユンは先程まで怖がっていた筈のルーチェへ、若干すり寄った。
「お目付け役に最上位傭兵付けるって、貴族サマには常識ってもんがねえのかい?」
「お前がそれぐらいの小物だったら良かったんだがな。1人で正規兵を10人相手取ったジン君?」
「チッ。やっぱあそこは素直に投降しとくんだったぜ……」
1人で10人を相手取ったという言葉に驚くユンだったが、シャルムンクはそれとは別の部分、その男の名前についてこそ驚いていた。
「――ジン? 驚いた。噂に聞く、『雑種』のジンか」
「仲間内じゃ『渡り』って呼ばれてたがな」
「渡り?」
シャルムンクとジンの会話に、ルーチェが疑問符を浮かべる。
「様々な盗賊団を渡り歩いた事からでしょう。雑種もそれが理由です。あらゆる手に精通している、非常に強力な盗賊だったと」
「噂に聞く」、「だった」という事は、シャルムンクもその情報を傭兵仲間、つまりは元盗賊たちから聞いたのであろう。
「ああ、その通り。こいつはその実力から、あの悪名高き『血濡れ』の中でも副団長にまで上り詰めていた。そして団長は既に処刑されているから、要するにこいつが現在この王国で最強の盗賊だという事さ」
「ハッ。盗賊の中でどれだけ強かろうが、最上位傭兵サマにゃ敵わねえよ」
「だろうな」
当然と言った様子で頷いたグスタフ将軍の目が、ユンたち2人の方を見た。
「ああ、すまない。この男、ジンは最後まで真面目に働けば釈放されるという、恩赦目当てで参戦するんだ。シャルムンク殿と、もう1人近衛騎士が見張ってくれるので、下手な真似も出来ないだろう。まず大丈夫な筈だ。……といっても、君たち2人なら、襲われても返り討ちだろうけどね」
全然大丈夫じゃないです。怖いです。
ユンはフルフルと首を振る。ルーチェの方は「まあ、参加しないから自分とは関係ないし」といった様子だ。
(いいなぁ、偉い人は……。ボクも偉い家に生まれていれば…………聖剣に名指しされるから関係無いのか)
「なあ、お偉いさん。そこの綺麗な嬢ちゃん2人組は何なんだよ。まさか仲間だなんて言わねえだろうな?」
「そのまさかだ。言っておくが、片方が王国魔法使い長、もう片方が件の勇者だ。お前の勝てるような相手じゃないぞ」
「……あ?」
ジンの目が、一瞬だけルーチェの方に向けられ、ユンの上でピタリと止まる。
「――どっちが勇者だ」
ユンを見たまま、表情をゆっくりと、沈むように変えていく。
……冷たい目だ。
その視線に、聖剣がより強く反応する。
「あ……ぼ、ボク、です」
恐らく、それはグスタフ将軍に向けられた疑問だったのだろう。だがジッと見つめられて居心地の悪かったユンは、自分で答える。
「――駄目だな」
ジンはたった一言、そう呟く。
その呟きに、シャルムンクの空気も僅かに変わった。
「え?」
言葉の意味を図りかねたユンを、ジンは鼻で笑った。
「ハッ。お前は足手纏いだって言ったんだよ、お嬢ちゃん」
「え……」
「おい、ジン」
ジンはユンへと真っ直ぐな嘲りを向ける。
二の句が継げないユンの横からグスタフ将軍が口を挟むが、ジンはそんな事は歯牙にもかけない。
「別に女だからってわけじゃねえぜ? 女にだって強い奴はいる。俺らの団を一撃で全滅させやがった、あの化けモンみてえな賢者のガキとかな。――そう、あれは、強い奴だった」
「――――」
聖剣を通じ、ジンと、そしてルーチェの2人からピリピリとした気配を感じる。
その内ジンの方からは、不思議と『寂しさ』のような物も僅かに感じられるようだった。
「――だが、お嬢ちゃんはまるっきり駄目だな。アンタらも、本当は分かってるんだろう? そっちの魔法使い長とかいう嬢ちゃんならともかく、こっちの嬢ちゃんには戦いは無理だ。どんだけ強いかは知らねえが、『目が弱ぇ』。さっき兄ちゃんが言ってたじゃねえか。――『殺し』は『壁』だってな」
「…………」
部屋に静寂が訪れる。
居心地が悪かったのか、ルーチェは小さく身じろぎ、シャルムンクは意図的に黙っているようだった。
「――いいや、そんな事は無いさ。何しろ、聖剣が選んだ者だ」
グスタフ将軍だけが変わらぬ様子で口を開いた。
それを切っ掛けに、部屋の空気が再び動き出す。
「……あっそ。まあいいけどな。……で、そろそろ座らせてくんねーかい?」
ジンは騎士たちに拘束を解かれ、シャルムンクの隣に乱暴に座る。
ルーチェが汚い物を見るかのように、顔を顰めて距離を取った。
「そんで? おっさん、さっき最高の装備がどうとか言ってたが、例えばどんなだよ」
「……そうだな、まずは魔法銀製、または魔法銅の防具に武器か。他にも守りの魔法を付与した魔具も用意してある」
「おお、マジか! そいつは大盤振る舞いだ。俺の装備はもちろん魔法銅一式で頼むぜ」
「……数少ない魔法銅製の装備が、一式も揃う訳ないでしょう。盗賊は物の価値すら知らないんですか?」
「おっ、嬢ちゃんなかなか言うねぇ」
「ふむ。まあ装備については5人で話し合って決めて貰うしかないな。各々使い慣れた獲物なんかもあるだろうし」
「あ、それなんですけど、本当に5人で組むんですか? もっと大人数で動くのかと思ってたんですが」
「ああ、それについては状況が状況なので、君たちには翼竜で行動して貰おうと思っているんだ。だが飼育に成功している翼竜は知っての通り数が少ない。王国内で用意出来たのが、5匹までだという事だ」
「おいおい、マジかよ。完璧超人の俺様でも、流石に翼竜に乗った事なんざねえぞ」
「なら走ってついて来なさい」
そうして4人はこれからの事について語り合い始める。しかしながらその内容は一般人からすれば専門的過ぎて、ユンにはほとんど理解出来なかった。
その会話を背景にして、次第にユンの頭の中は、先程言われた言葉に思考を割いていく。
――自分には、戦いは無理だ。
目が弱いと言われた。足手纏いだとも。
(……だって、仕方ないじゃないか。ボクは戦いなんてしたことも無いし、したいとも思わない。ここに来たのだって、自分の意志じゃなく、連れて来られただけなんだから――)
――コンコン。
考え事をしていると、扉が鳴った。
「最後の1人が来たようだ」
グスタフ将軍がそちらを向く。
(最後の1人……。という事は、これから入ってくる人が、さっき言ってた『このえ騎士』?っていう人だろうか)
「入りたまえ」
「――失礼します」
入って来たのは身長の高い、スラリとした見た目の騎士だった。
全身鎧の上から更に、白と赤を基調とした儀礼用の制服とマントを纏っている。これこそが、王族の身辺警護を任される国内最精鋭の騎士たち、『近衛騎士』の姿だ。
「紹介しよう。彼が近衛騎士でもとりわけ優秀と有名な男、エドヴァルド・フレンツ君だ。市民や要人の為なら我が身すら投げ打つ心意気に、守る事に特化した闘技。その在り様は優美にして完璧。まさに騎士という物を体現している存在だ」
「…………」
グスタフ将軍に紹介されたその騎士は、何も言わなかった。
いや、彼は最初の入室の挨拶以外、最初から一切の言葉を発していないのだ。その代わり、目だけが物言いたげにユンらに対して向けられていた。
喋らないのは何か騎士なりの作法なのかと考えるユンだったが、実際におかしな態度だったのか、グスタフ将軍が怪訝そうな顔をした。
「どうした? フレンツ君」
「……将軍閣下。私は今回の件、やはり辞退させて頂きます」
「何……!?」
エドヴァルドの第一声に、グスタフ将軍が唖然とする。
シャルムンクは察したように目を細め、ジンは楽しそうにしていた。
「――騎士の仕事は、お遊びではありませんので」
そう言って扉の向こうへと帰って行く。
振り返り際、その目が意味あり気に元盗賊であるジンと――そしてユンへと、確かに向けられた。
「…………」
グスタフ将軍が止める暇もなく、扉が閉まる。
それと同時、ルーチェが椅子から立ち上がった。
「彼の言う通りですね。私も遊んでいる暇は無いので、これで失礼させて貰います」
そう言ってルーチェまで部屋を出て行く。
後にはユンたちだけが残された。
「……はぁぁぁ。あー分かった分かった。すまない、もう何日かくれ。他に受けてくれる者を探してみるよ」
「まあ俺はいいですよ。傭兵やってると、こういうのもしょっちゅうですから」
グスタフ将軍が溜め息をつき、シャルムンクが慣れた様子で返す。
先程からニヤニヤとしていたジンが、ユンを見ながら厭味ったらしく言った。
「な? だから言っただろ? ――足手纏いだ、ってな」
夜。
人生で初めて見るような豪勢な晩餐を用意されたユンだが、食欲の無かったユンはそのほとんどを残すという結果となってしまった。
食事を残すなんていつ以来だろうか。申し訳ない気持ちで一杯のユンは、故郷の村人たちや料理人への罪悪感に押し潰されそうになりながら部屋へと戻った。
ユンに与えられたこの部屋は、どういう訳か夜でも昼間のように明るい。この世には光の魔具なる物があるらしいが、恐らくそれだろう。話に聞いた際は便利だなと思ったものだが、まさかそれを本当に見る機会が来るとは思っていなかった。
疲労している事を侍女たちに伝え、着せ替え人形のように寝支度を整えられベッドに潜る。
途方もなく巨大なベッドだ。確実に、あの家で自分の使っていた物の4倍近くはあるだろう。
布団も薄っぺらい毛皮と違い、滑らかかつフカフカとした感触を返してくる。表を見れば、驚くほど細かく色鮮やかな刺繍が施されている。
(これを見ると、お姉ちゃんやボクの刺繍なんて何もしてないのと同じだな……)
天上の光を慣れた様子で消した侍女たちが、恭しく一礼してから退室する。扉の外にずっと控えているという話だが、恐らく呼ぶ事は無いだろう。
やけに遠い天上を見上げ、グスタフ将軍から教えられた明日の予定を思い返す。
明日はグスタフ将軍はルーチェとエドヴァルドに変わる人員探しを開始し、その間にユンにはこの国で一番強いとかいう騎士の稽古を受けて貰うという話だった。
(稽古……戦い、か……)
異様に柔らかい感触の上で、寝返りを打つ。
視線を動かすが、あの目立つ聖剣はこの広い部屋のどこにも見当たらない。万全を期し、就寝の際には聖剣を元の安置所――すなわち玉座の間に返す事になっているのだ。
無論、この部屋は多くの衛兵に警護、監視されているので賊が忍び込むような事はありえないが、逆に間者の手により持ち出される可能性は僅かだがある。
ユンは感じなくなった聖剣の気配を思い出し、見つめた手の平を握る。
(……昼間のエドヴァルド様のやつ……。あれって、ボクのせいなのかな……)
――将軍、本気で言ってますか?
――は?
――足手纏いだって言ったんだよ、お嬢ちゃん。
――騎士の仕事は、お遊びではありませんので。
昼間向けられた、様々な言葉や視線、反応が、頭の中を何度も回る。
ガヤガヤとうるさい頭の中。
だが実際に耳から伝わるのは、痛いぐらいの静寂だけ。
「…………」
この部屋は、静かだ。
家族の寝息もしなければ、隙間風の音もしない。
噂のガラスとやらで出来た窓は、透明なおかげで月明かりは入ってくるというのに、不思議な物だ。
――ユンの人生に初めて訪れた、1人っきりの夜という物。
ここには多くの人間がいる筈なのに。
怖いぐらいに輝いているのに。
……ユンの側には、誰もいなかった。
◆
「それで、彼女はその後どうだった?」
時を同じくして、ユンの部屋からそれほど遠くない場所にある一室。
蝋燭に照らされるその部屋は、ユンに関する諸々の手回しを進める為、グスタフ将軍に執務室として与えられた部屋の1つだ。
他の部屋では指示を受けた多くの文官や大臣たちが現在進行形で働いているが、今目の前にいるのは呼び出された例の侍女長1人だけだった。
「はい。あの後晩餐にておもてなしさせて頂きましたが、勇者様は食欲に優れぬご様子で、すぐに寝てしまわれました。側に2人、厨に1人を常に就け、所望された際には雑事から軽食までいつでも対応できるよう取り計らっておりますが……明日からの修練に支障が出るかもしれません」
「そうか。まあ環境の変化に加え、長旅の疲れもあるだろう。気を遣ってあげてくれ」
「かしこまりました」
洗練された一礼を披露し、侍女長が部屋を後にする。
非常に優秀な彼女の事だ。ユンの体調管理や生活面の補助については、全て任せてしまって構わないだろう。となるとやはり、問題は自分の仕事の方だ。
「……はあ。能力だけ見れば最強の布陣だった筈なのになぁ。やはり私にはその辺りを読む才能が無いのだろうか」
互いに打ち解けさえすれば、いい仲間になったと思うんだが。グスタフ将軍は昼間の5人をそう評価する。
だが駄目だったものは仕方が無い。ユンが勇者として物になるまでにはしばらくかかるだろう。その間に残りの2人をゆっくり吟味し、都合すればいい。
グスタフ将軍は柔らかい背もたれに身を深く沈めて一息ついた。
「――それにしても、王国騎士長と、勇者の卵か。明日の修練は楽しみだ。お手並み拝見といこう、ユン殿」
それぞれの思惑、それぞれの感情を胸に、静かに夜は更けていった。
――その裏で、かつてない災厄が動き始めているのも、知らないまま。
パーティー初顔合わせ。最初は仲が悪かった5人。