甘美
他人ではなかった。環境でもない。自分。ただその内から湧き上がるそれに、いくらか、私は惹かれた。
自問は、幾度も繰り返した。答えは、その都度にでる。私はいつも、その答えに含まれる私の純度を探ろうとしていた。濃いと思えたことはなかった。ただ、社会的な良識と常識にまみれた解答を、僅かながらの自分らしさに包んで返すだけだ。まったく、そこらを歩く学生よりも、私の情念は思春といっていいだろう。違いといえば、諦念の情が多少強い程度だ。
努力しろ、頑張れ、きっといつかは。仕方ない、才能だ、ほどほどに。どちらも私の出した答えだった。ただ、日が違うというだけだ。どちらも正しさを持っていた。正しさを持ちながら正反対の答えをあっさりと出す辺りに、やはり絶望せざるを得なかった。私は、ただ自分の真を欲していた。誰かの作った正論は尊いとしか言えないものであろうが、私の元に辿り着く頃にはもはや搾りカスみたいなもので、そして私はそんな搾りカスを後生大事に抱えているのだった。搾りカスはこんな私でも他人と共通できるという点で大変便利だが、自問にすら搾りカスを返してくるのは救いがたい。
社会的に見て、私の現状は取り返しがつかない、というものではなかった。むしろ、いくらでも生きていけるといっていい。日本はなかなか良くできた国だった。ある程度の健康体ならば、稼ぎ道程度はあるものだ。飯を食い、たまに遊ぶ程度の人生は、手に入れられる範囲だろう。そういった生き方にたいして否やがある訳でもない。
それでも私が死に惹かれるのは、絶望としか言いようがなかった。自分への絶望である。大袈裟だと、自分でも思うことがあった。せいぜい失望程度で、そして、人は失望では死にきれまい。
自分の真を見出せない絶望。自問した。私が、私に絶望しているのは、果たして真なのか。真であってはくれないのか。
失望では、人は死にきれない。甘美な誘惑が、抗いがたいほどになった。