八、お父さんの部屋
あれから一週間。
悪夢を見なかった。
かといって羊さんへの疑いが晴れたわけじゃない。
羊さんは必ず飲み物を出してくれるのだけれど、純子に迎えにきてもらったあの日から紅茶を出さなくなった。
単純に紅茶がなくなったからだろうか?
オレンジジュースは安心で紅茶が危険というのも偏った考えで、まるっきり口をつけないとジュースが苦手だと勘違いされ、紅茶の再登場も有り得る。
我がままだと思われるのも嫌なので、私の対応はグラスに注がれたオレンジジュースを三分の一程度飲むという非常に中途半端な行動になった。
紅茶を出されていざ飲むとなると、そのときに勇気が湧くかは疑問。
でも、腹は括っているつもり。
柳沼家の門を潜ると、建物の裏側から聴き慣れた旋律が風に乗って流れてきた。
亜里沙ちゃんは『猫ふんじゃった』にさらに磨きをかけようとしている。
部屋に入ると亜里沙ちゃんはピアノを弾くのをやめ、私に抱きついてくる。
「待ってた……」
子供の健気な心を粉々にしないためにも、亜里沙ちゃんのお姉ちゃんとして接しようと思った。
純子というかけがえのない存在がなければ、学校よりも柳沼家へ生活の比重が傾きつつある。
亜里沙ちゃんがトランプを用意していた。
ババ抜きしかできないという告白を受け、私はわざと負けるようにジョーカーのカードを少し上にずらして際立たせる。
「わぁ、これ怪しい」亜里沙ちゃんは私の思惑どおりジョーカーをはずして他のカードを引き「やった!」と歓喜の声を上げる。
すると、階下から羊さんの声が聞こえてきた。
「亜里沙ちゃん、お手伝いお願いできる?」
「はぁ~い。ちょっと行ってくるね」
羊さんが亜里沙ちゃんを呼ぶなんてことはいままでなかった。手が離させなくて飲み物を運ばせるために呼んだのだろう。
けれど、なかなか亜里沙ちゃんが戻ってこない。
途中で転んだりしてケガでもしてないかと心配になり、部屋を出てみる。
階段まで様子を見にいこうとしたら、亜里沙ちゃんの部屋から三番目のドアがスゥ~と半分くらい開いた。
中を覗くのは失礼かなと思い無視して通過しようとすると、バタン、バタンとドアが開け閉めを二度繰り返す。
その音でビクつき、勝手に目が反応して部屋の中を見てしまった。
観音開きの二枚の窓が開けっぱなしになっていて、風の侵入を無抵抗で許している。
なんだ、風の悪戯か。
閉めてあげたほうが親切だよね?
迷いはしたけれど、風の影響でドアがうるさかったと説明すれば黙って入った無作法も許される範ちゅうだと思った。
「失礼します」
亜里沙ちゃんの部屋以外で人が出入りする音を聞いたことがないし、誰もいないとは思っていたけれど、念のために声をかけて部屋に入った。
部屋の中は質素そのもの。
鉄パイプのシングルベッド、クラシカルなコーヒーテーブル、スマートな脚部で支える卵型フォルムの椅子。
必要最低限の家具しかない。
埃などは見当たらず、掃除が行き届いている。
ベッドのシーツにはシワがなくて、ホテルのルームメイク後のように生活感がない。
横長のコーヒーテーブルの上に置いてあるアッシュウッドのフォトフレームだけが、ホテルの部屋にはない思い出を残している。
亜里沙ちゃんと男の人が裏庭で撮影した写真。優しそうな表情で亜里沙ちゃんを肩車している。お父さんに間違いない。四十代くらいで目尻から伸びている皺が印象的。いつも笑っているからなのか皺は猫のヒゲのように放射状に刻まれている。ただし細い目、黒い髪、四角い骨格は亜里沙ちゃんに遺伝されなかったのは幸い。
きっとこの部屋は亜里沙ちゃんのお父さんが使っているんだ。
羊さんが言った海外へ出張しているというのは本当らしい。だから生活感がしないんだ。
私は外に出ている両開きの窓を閉めるために、身を乗り出した。
取っ手に触れようとしたその瞬間、誰かに背中を押された。
「あっ?!」
窓の縁を軸に上半身が外へ放り出されてバランス人形のようになったが、なんとか踏ん張って体を引き戻すことができた。
危うく落ちそうになるところだった。
振り向くと、亜里沙ちゃんがニコッと笑いながら立っていた。
「危なかったネ」
亜里沙ちゃんは会心の笑みを向ける。子供ゆえの純粋無垢な笑顔が怖かった。
「風でドアがうるさかったから窓を閉めにきたの」
怒ってもよさそうな状況なのに先に言い訳してしまった。お金をもらってお世話をしているという弱い立場が邪念となって叱る行為にまで発展しなかった。
亜里沙ちゃんは私の言い訳を「フフフ……」と鼻で笑ったかと思うと、次の瞬間「あははっ」と乾いた笑い声を上げた。明らかにいままでの亜里沙ちゃんとは雰囲気が違う。
「ごめんね、勝手にお父さんの部屋に入って」
亜里沙ちゃんの精神状態が掴めず、とりあえず謝った。
「お父さんのお部屋だってよくわかったね」
笑っていた亜里沙ちゃんは無表情になり、妙に大人びた口調で指摘してきた。
「そこの写真を見たの」
コーヒーテーブルの上のフォトフレームを指差す。
「この写真は最近撮ったんだよ」
亜里沙ちゃんは切ない顔で写真を見詰める。
「優しそうなお父さんだね」
素直な感想を口にした。
「うん、イラストをたくさん買ってくれたり、おとぎ話に出てくるような階段がほしいと 言ったらすぐに付けてくれたりしたよ」
亜里沙ちゃんが苦いものでも口にしたかのように顔をしかめる。
「そ、そう……」
言葉と表情が一致していない亜里沙ちゃんを見て、私は鳥肌が立ってきた。
「ジュース持ってきたから一緒に飲もう」
廊下の床にジュースを載せたお盆が置いてあった。私がお父さんの部屋に居るのを見て、亜里沙ちゃんがどんな顔をしたのか気になる。
黙ってお父さんの部屋に私が入ってしまったことで、亜里沙ちゃんは自分でも気づかない感情が心の中で芽生えたのではないだろうか?
“お父さんの部屋を汚した”と思われ、感情に怒りや嫉妬が渦巻いていたのかもしれない。
“子供だからしょうがいない”と私は今回の出来事を腹の中に収めた。
しかし、次の日。
私と亜里沙ちゃんの間に決定的な亀裂ができてしまった。