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七、悪夢再び

二日間はほとんど布団の中にいた。

テレビを見て、マンガを読んで、ケータイで芸能人のブログを探索するしかなにもやる気が出なかった。

“絡み”の掲示板も返信してなかったので新しいレスは二件。



【どんな入浴剤なんですか?私は温泉地の入浴剤を使ってます。『登別温泉の湯』がおススメです。

6/7  20:07  by サクラ】



【今日は良い天気でしたね。

6/8   9:56  by あかり】



たった二件のレスに返信するのが億劫なり、ひと言ブログで“最近亀更新でごめんなさ~い”とお侘びをした。

これで当分は更新しなくて済む。

そして、新たな週のはじまりとなる月曜日の朝は、寝すぎたせいで筋肉が収縮したのか体が重かった。

「具合悪いの?」

元気がないことに気づいたお母さんが尋ねる。

「うん、大丈夫」

努めて明るく振舞う。

純子はいつもの交差点で待っていてくれるのだろうか?

土日のおやすみメールは、試食会を断ったお詫びを繰り返す純子に“気にしてないよ、おやすみ”と素っ気ない返事を送信してしまった。

「ちゃんと学校行くのよ」

バタバタしながら身支度していたお母さんが、私の覇気のない顔を見てひと声かけて出ていった。

途端に部屋の中が静かになった。

蛇口からシンクへ落ちる水滴の音、冷蔵庫のモーター音がやけに大きく聞こえて静けさを強調する。

なにも知らないくせに。

すでにいなくなったお母さんへ、心の中で軽く愚痴った。

学校を一度サボれば癖になりそうで、いままで休んだことなんてなかった。

バレたらまた嘘をつかないといけない。

真実を話せば“そんなことで休んだの?!”とお母さんは呆れてしまうだろう。

静々と靴を履いて外へ出た。

けれど、純子にどんな顔をして会えばいいのかわからない。

また心が揺れた。

揺れるブランコの台座の上でコップは危なっかしくていまにも落ちそうだ。

どうして気持ちがこんなにも不安定なんだろう。

待ち合わせ場所の交差点手前の角を曲がるとき、心臓はバクバク。

期待と不安が交互に脈を打つ。

角には電信柱と一時停止の標識があって、その二本の支柱の隙間から片目で覗くようにして交差点を見た。

視界に純子の姿を捉えたとき、安心という名の脱力感に襲われた。

あんなメールを送ったのに、どうしてそんなに優しいの?

申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。

「おはよう」

私は笑顔で挨拶したつもりだけれど、きっと顔には影が走っていたんだと思う。

だって純子がいきなり謝ってくれたから。

「ごめんね、急な用事ができちゃって……本当にごめん」

純子は急な用事の内容は教えてくれなかったけれど、私は二人で登校できる喜びで十分に心は満たされた。

その日の純子はいつもにも増して優しかった。

休み時間は私から離れず、冗談を言って笑わしてくれた。

久し振りに本気で楽しい時間を過ごせた。

そして、三回目となる柳沼家の訪問。

私が玄関ロビーで靴を脱いでいると、亜里沙ちゃんが後ろから腰に手を巻きつけてくる。

「ミキお姉ちゃん、会いたかった……」

背中に感じる温もりに私は応えてあげないといけない。とてもじゃないけど、お世話を辞めたいなどと言えなくなった。

亜里沙ちゃんの部屋へ行くと、まずはその日着ていたウェストに大きなバラの形をしたコサージュがポイントのドレスの自慢話。

そのあとに疾走感のある『猫ふんじゃった』を聴かされた。

私がパチパチと拍手したとき、羊さんが部屋へ入ってきた。約束の一時間より十分早い。

「どうぞ」

差し出されたのは最初訪問したとき、客間で飲んだ紅茶とオレンジジュース。

前回出してもらったオレンジジュースに手をつけなかったことを思い出した。

羊さんに気を利かせてしまったのかもしれない。

「すいません」

私は紅茶を口に運び、亜里沙ちゃんは両手で甲斐甲斐しくガラスコップを持ってオレンジジュースを飲む。

休憩している間に時間が過ぎてしまったので、亜里沙ちゃんは少し不満そう。

それでも初対面のときより別れを惜しむことはなく、お見送りは自分の部屋まで。

「バイバイ」と元気に手を振る表情にはまた来てくれるという安心感が漂っていた。

頼られているという充実感に包まれたのも束の間、玄関ロビーで羊さんから茶封筒を渡されると気持ちは沈んだ。

お金を辞退しようと思ったけれど、羊さんが“はいそうですか”と、あっさり納得するとは思えない。

お金を受け取る、受け取らない……茶封筒をお互いに付き返す白々しい演技が目に浮かぶ。

「私は亜里沙ちゃんの心の支えになってあげたいんです。お金なんていりません」

そんな決め台詞を心の底から引っ張り出すには、よほどの覚悟が必要になる。

私はまだ亜里沙ちゃんのことをなにも知らない。

亜里沙ちゃんと心の絆ができるのが早いか、それとも辞めるのが早いかはわからない。

お金は辞めるときにまとめて返せば私の心は晴れるとは思うけれど……。

純子との関係は崩れなかったし、亜里沙ちゃんともうまくいきそうな予感はする。

学校生活と小遣い稼ぎは両立しつつある……でも、なんか疲れた。

幸せの反動なのかな。

バスの揺れが体を優しくマッサージしてくれているようで、気持ちよくて欠伸が出てしまう。

一瞬、辺りが暗くなり、車内に蛍光灯が点く。

バスはトンネルを通過中。

窓には鏡のように私の顔が映っていた。

私は楽な体勢を取るために座席に身を沈めた。



              ★

              ★

              ★



冷房の利き過ぎなのか、ちょっと寒いなと感じて頭をもたげた。

小ぶりな一人掛けの椅子が主体のバスの前方に乗客はいなかった。

あれ?乗ったとき何人かはいたと思ったけれど、どこで降りたんだろう?

後ろを見ても誰もいなくて、乗っているのは私だけ。

バスはいまだにトンネルを走行中。

長いトンネルなんて記憶にないし、通るのは交通量の激しいトンネルで両側の側面に向き合わせた照明が並んでいたはず。

いまバスが走っているのは片側にオレンジ色の照明が、千鳥に配列されている寂しそうなトンネルの中。

バスが大きく傾いた。

急カーブが続き、複雑な海岸線を走行しているのかと思うほど。

間違えて他の路線バスに乗るはずがないという確信はあったけれど、見慣れないトンネルの車窓の風景に自信は揺らいだ。

私はフロントガラス上部のバス料金と行き先が表示される電光掲示板を見た。

すると意地悪するかのように、オレンジ色の文字と料金を示す数字がパッと一斉に消える。

どうして?

座席から立ち上がって運転手の背後に近づいた。

「あのぉ~このバスはどこ行きなんですか?」

尋ねた途端、運転手はハンドルを右へ切る。

「痛っ……」

バスが大きく揺れ、振り回された体が座席に叩きつけられた。

乱暴な運転に異常さを感じる。

苦悶する私の声は聞こえたはずなのに、運転手は私に謝るどころかルームミラーでチラリと見ることもしない。

バスの揺れがおさまり、なんとか座席の手摺に掴まって体を支えて窓を見た。

「あっ……」

私の体は数ミリも動かなくなってしまった。トンネル内の暗闇とオレンジ色の照明がコントラストとなって流れる車窓の中にあの少女がいた。

地下鉄駅の鏡に映っていたあの少女が……。

バスの進行方向を向いて横顔を見せ、眼球だけを動かして私を視界に入れている。

「ど、どうして?!」

私の声は震えた。

『ここまで来ちゃった』

少女はニヤッと笑ってこちらを向き、また醜い断面を見せる。

「こ、こないで……」

私は目を閉じ、耳を塞いで少女の存在を拒絶した。



              ★

              ★

              ★



私は自分の叫び声で目が覚めた。

前回と同じように座席から転げ落ちるというおまけ付き。

バスに乗っている乗客たちの冷たい視線が私に注がれる。

バスは見覚えのあるトンネルから外へ出たところで、私はほんの一瞬寝ただけなのに悪夢を見てしまったことになる。

乗客たちからの奇異な視線、二回も見てしまった悪夢。

いたたまれなくなって降車チャイムを押し、次の停留所で降りた。

いったいどうして?

純子から聞かされた都市伝説で冷たい臆病風に吹かれ、心が風邪を引いてしまったのだろうか?

私って弱いなとつくづく痛感した。

病気なのかな……。

悪夢を見る原因を自分に擦り付けることによって、恐怖感を払い除けようとした。

他に原因があるとすれば、悪夢は現実だったということになってしまう。

なかなか体の震えは治まらない。

私はうずくまって泣いた。

体中の水分を吐き出すほどの涙を流したあと、私はケータイでこの世で一番頼れる人の声を聞くために電話した。

「もしもし……」

一時間後、私は自宅のマンションにいた。

だけどいつもの寂しさはない。

だって隣に純子がいる。

「ごめんね」

純子の前だと、私は謝る台詞しか言えない時代遅れのロボットのようだ。

そんな私の肩を抱き、頭を撫でてくれる純子。

泣き声混じりで私が電話すると、純子は飛んできてくれた。

いま思えば、バスから降りた停留所の名前をちゃんと言えたかもわからない。

私を見つけた純子は理由もなにも聞かずに、タクシーを拾ってマンションまで連れてきてくれた。

私はバスの中で悪夢を見たことだけを話した。

「やっぱり私が話した都市伝説が原因なのかな?」

純子なりに私の異常ともいえる行動の原因を考えて、自分に非がないか確かめてきた。

「違う、違うよ」

私は大きく首を横に振った。これほど心配してくれる純子に事実を話して責任転嫁することなんてできない。

「そう……」

純子は伏し目がちになる。“違うよ”という言葉だけでは納得させられない。隠し事があることを悟られてしまった。

「ごめん、いつかきっと話すから」

約束は必ず果たすという意味をこめて、振り絞るように言葉に力を入れた。

「うん、それまで待つよ」

純子はギュギュと私を抱き締めた。約束というより誓いを交わしたような気がした。

心の底から純子に電話してよかったと思う。

お母さんだと色々聞かれることは間違いない。

隠れて小遣い稼ぎをしていることは口が裂けても言えない。

「今日は夕食を作る日?」

「うん」

「これから作れる?」

「うん。冷蔵庫にあるもので適当に作るよ」

「料理が得意な人が言う台詞だね。私もそんな台詞言ってみたいな」

何気ない会話も、ふんわりと包み込むような温かさを感じる。

「晩御飯食べてかない?」

「う~ん、ミキの手料理食べたいけど、誰かさんのせいでかなり遅くなっちゃったからね」

純子には小学校三年生になる弟の勇人君がいる。きっと腹を空かせてお姉さんの帰りを待っている。

「純子のお陰で元気が出てきたよ。私、大丈夫だよ」

甘えっぱなしじゃいけない。このままだと本気で嫌われてしまうと私は思った。

「本当に?」

「うん」

私は瞳を輝かせるくらい目を大きく広げ、自分なりに不自然な笑顔にならない工夫をした。

「明日学校は行けそう?」

「純子が一緒なら」

「甘えん坊さん」

そう言ったあと、純子はフフと笑った。

「タクシー代、払うね」

純子が背を向けて靴を履いている隙に、私は茶封筒からお金を出した。

私が降りてしまったバス停からのタクシー代までお世話になれない。

いま私が自由にできるお金は悔しいけど茶封筒の中身だけ。

手をつけても神様は許してくれるはず。

「いらないよ」

「そんなわけにはいかないよ」

うれしい言葉だったけれど、私は五千円札を純子に差し出した。

次に純子が言った言葉は意外だった。

「私、週末だけ飲食店でバイトしてるんだ。歳をごまかしてね。内緒だよ。だからいまはセレブ気分なの」

「そうだったんだ」

クッキーの試食会を断った理由を純子らしくサラリと教えてくれた。秘密の共有は絆を深めそうな気がした。

“私もお小遣い稼ぎしてるんだ”

そんな簡単な告白がなかなか言えない。伝えられない。二人で運営しているホムペの宣伝板に書き込まれた怪しい依頼に、黙って手を出した負い目がある。

「どうしたの?」

私の硬くなった表情を心配して純子が訊く。

「ううん。なんでもないよ」

重要な決定期を外した気がした。

「私が帰ると寂しい?」

「もちろん」

「寂しがり屋のミキちゃんはお母さんが帰ってくるまで辛抱できるのかなぁ~」

幼い娘に留守番を任せる母親のような言い方で純子がじゃれてくる。

「もう!」

わざと頬っぺたをふくらませてプンプンと怒る。

純子が玄関のドアから出ていくまで『帰らないで……』と開こうとする口に必死でチャックをした。

純子は崩れかかった私の心を癒してくれた。

もう迷惑はかけられない。

強くならないと。

どうして悪夢を見るようになったのか、純子のためにも原因を追究しないといけない。

ケータイで調べてみた。

検索キーワードは『悪夢』。レム睡眠にノンレム睡眠、脳幹……コリン作動性ニュー£§△¢×$……難しい言葉の連発に私の脳には拒否反応が発動。

比較的わかりやすく噛み砕いて説明してくれる知識検索サービスというところで「悪夢を見る仕組み」についてのQ&Aを見つけた。

睡眠障害で悩んでいる人からの質疑が目立ち、トピックスの数も多い。夢を見るのは精神的な不調などが原因で、悪夢を見るメカニズムまではよくわからないらしい。ただし、悪夢との因果関係が疑われている副作用のある薬が存在する。心臓の働きすぎを抑えて突然死などを防ぐ効果があるβ(ベータ)ブロッカーと呼ばれる薬。

そんな薬飲んでない。

でも、悪夢を見る必然的な理屈は、必ず存在するような気がしてきた。

悪夢を見た日と普段の生活習慣でなにか違うことをしただろうか?

「あっ?!」と、思わず声を上げたあと“まさか”という否定の言葉が駆け回る。

柳沼家を訪れた帰りに悪夢を見ている。しかも二回とも。かなりの確率。それに羊さんが煎れてくれた紅茶を飲んだときだ。

けれど、亜里沙ちゃんのお世話を頼むためにわざわざホムペに宣伝してきて、雇ってから再び私を遠ざけるようなことをする意味があるのだろうか?

確かに少し変った環境で育っている亜里沙ちゃんの相手をするのは神経を使うけれど、こっちが嫌がらせを受けるいわれはない。

私は平凡な高校生なんだから。

誘拐犯だって身代金を用意できない私をさらって後悔するはず。

貧乏でよかった。

私は冷蔵庫を開け、野菜炒めという簡単レシピを組み立てると、羊さんへの疑心をいったん忘れるために料理に取り掛かった。


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