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六、亜里沙

バスに乗って柳沼家へ向かった。

平豊駅前から岸城二十八丁目行きのバスに乗る。

バス停での待ち時間もあって、着いたのは午後四時四十七分。

明確な時間の指示をされたわけじゃないから、なにも言われないという確信はあったけれど、第一声は控えめになる。

「あのぅ~見北です」

「はい、すぐ開けますね」

インターホンから待ちかねていたかのように、羊さんの返事がすぐに飛んできた。

柳沼家に足を踏み入れる。

「亜里沙お嬢様の部屋へご案内いたします。付いて来てください」

玄関で笑顔の羊さんに迎えられ、カーブを描く階段を上って二階へ。

二階の廊下の上に天窓が設置されていて、一階の中廊下とは比較にならないほど明るかった。

左右に五つの部屋があり、右の角部屋のドアに薄い板がかけられ“亜里沙”と文字が転写してある。

部屋に入る前に羊さんは「今から一時間お世話をお願いします」と頼まれ、私は頷いて了承した。

「亜里沙ちゃん、入りますよ」

羊さんがコンコンと優しくノックしてからドアを開けた。

ディズニー・キャラクターが散りばめれた壁紙、白いカーテンが垂れ下がった天蓋付きのベッド、ピアノ、本棚と一体化したシンプルな学習机は木製で、上品な子供部屋を目にした私は自分が生まれた環境との違いを痛感した。

「亜里沙ちゃん」と羊さんが声をかけても、出窓の縁に浅く腰掛けている少女は外の景色から視線をはずそうとしない。

「新しいお母さ……お姉ちゃんが遊びにきてくれたわよ」

ややボリュームを上げて羊さんが声を出すと、亜里沙ちゃんがこっちを向いた。

ドキッと心臓が脈打った。

地下鉄駅で見た鏡の中の少女に似ている。背丈や顔の輪郭が瓜二つ。

亜里沙ちゃんはぴょんと出窓から飛び降りた。

両肩がカボチャくらいふくらんだ白いドレスを揺らして近づいてくる。

「見北絵里さんよ」

羊さんが紹介してくれた。

「はじめまして柳沼亜里沙です」

私が挨拶するより早く亜里沙ちゃんが頭を下げた。

「み、見北絵里です。よ、よろしく」

出遅れた私はしどろもどろ。

よく見ると鏡の中の少女とは、顔立ちこそ似ているけれど全然違う。

目はクリッとして大きいし、茶色の虹彩の目は黒目がちのあの少女と違って愛くるしい表情を生み出している。

髪が栗色の巻き毛でちょっとハーフっぽい。

それに……頭は欠けていない。

「では、お願いします」

と言って羊さんは部屋から出ていった。

残された私はなにから喋っていいのかわからず、作り笑いで場を繋ぐ。

「お姉ちゃんをなんて呼べばいい?」

亜里沙ちゃんが質問してきた。恥ずかしがり屋の私とは違って積極派タイプのようだ。

「学校ではミキって呼ばれてるの」

「じゃぁ、ミキお姉ちゃんと呼んでもいい?」

亜里沙ちゃんがつぶらな瞳で私の答えを待つ。

「もちろん」

私は膝を折り、目線を亜里沙ちゃんのところまで下ろして答えた。

「やった!」

はしゃぐような声で喜んだ亜里沙ちゃんが愛しく思えた。

「ねぇ、こっち来て」

いきなり手を握られ、私は出窓のところまで引っ張られる。

「見て、見て」

亜里沙ちゃんの部屋の出窓からは裏庭が見渡せた。正面玄関の方には植物の類や花が咲き誇っているのに、裏庭はサッカーグラウンドのような均一にカットされた芝生が緑の絨毯となって敷かれていた。

「あそこを見て」

亜里沙ちゃんが指をさした方向には、隣の家との境界線の役割を果たしている切り株が列をなして並んでいる。ざっと数えると十個くらい。

「夏になるとセミの声でうるさくなるから、ポプラの木を切ってちょうだいってお父さんにお願いしたの」

亜里沙ちゃんは得意気に話す。

「お父さん、優しいね」

お父さんを褒めると亜里沙ちゃんは微笑んだ。

でも、本心から出た言葉じゃなかった。

長い年月をかけて成長したポプラの木を娘のひと言であっさり切ってしまうなんて……お金持ちのやることはわからない。

「亜里沙は虫が嫌い」

亜里沙ちゃんが口を尖らせる。

「動物は好き?」

中廊下にあった動物のイラストをヒントに訊いた。

「うん」

亜里沙ちゃんは快活な返事をかえす。

「なにが好きなの?」

予想が的中した私は話の幅を広げる。

「いろいろ変わるよ。いまはうさぎかな」

亜里沙ちゃんは視線を下げて、うさぎの形をした綿素材のルームシューズをさりげなくアピールする。

「かわいい」

私は素直な気持ちを吐露した。

「ありがとう」

褒められるのが大好物なようで、亜里沙ちゃんは満面の笑みを見せてくれた。

ノックして羊さんが部屋に入ってくると、オレンジジュースを机の上に置きながら亜里沙ちゃんに尋ねる。

「ミキお姉さんは優しい?」

「うん、すごく優しいよ」

亜里沙ちゃんの答えに安心しつつ、羊さんの質問に疑問を感じた。

ミキお姉ちゃんと呼んでもいい?と亜里沙ちゃんに訊かれたとき、羊さんはいなかった。

“ミキさんは優しい?”だと違和感なんて持たなかった。

ドアの外で聞き耳を立てていたのだろうか?

考えすぎだろうか?

私の顔が曇っていたらしく、亜里沙ちゃんが「どうしたの?」と心配してくれた。

羊さんはスゥ~と部屋から出ていった。

「ごめん、なんでもないよ」

「本当に?」

「う、うん」

どっちが年上なのかわからなくなるくらい、私は幼い返事をしてしまった。

「落ち込んだときは音楽が一番なんだよ。亜里沙はピアノがうまいんだ」

亜里沙ちゃんは両手を突き出して、透明なピアノを弾く真似をする。

「すごいね、お姉ちゃんに聴かせてほしいな」

希望どおりの答えが返ってきて、亜里沙ちゃんはご機嫌でピアノに向かう。

高さが低めで小ぶりなサイズのピアノは、子供用に特注で作らせたものかもしれない。

「じゃ、弾くね」

亜里沙ちゃんは小さくて細い指を軽やかに動かして旋律を奏でた。

流れてきたのは古典的なピアノ曲の『猫ふんじゃった』で、徐々にスピードが上がっていく。

「わぁ、すごい」

私は感嘆の声をもらした。

その後、調子づいた亜里沙ちゃんは『猫ふんじゃった』を延々と繰り返す。

私は気づかれないように何度も腕時計を見た。

一時間がとても長く感じた。

二分過ぎて、羊さんが現れた。

「亜里沙ちゃん、ミキお姉さんはそろそろお家に帰らないといけないお時間よ」

「えぇ~もう帰っちゃうのぉ~」

鍵盤から手を離した亜里沙ちゃんは鼻を鳴らす。

「ごめんね」と私が謝ると、少しは事情を理解しているみたいで、亜里沙ちゃんは気持ちを引きずりながら「バイバイ」と手を振ってくれた。

玄関ロビーで羊さんから「今日の報酬です」と茶封筒を渡されたときは心が痛んだ。

亜里沙ちゃんが“ミキお姉ちゃん”と慕ってくれた気持ちを私は踏みにじっている。

お金のためにお世話をしてあげている……この魂胆が伝わってしまったとき、純粋な子供の気持ちを傷つけてしまうのではないだろうか?

「土、日は旦那様が帰ってきますので亜里沙お嬢様のお世話は必要ありません。来週の月曜日にまた来てくだされば幸いです」

羊さんからバイト期間の本格的な更新を受けて、私の心は二つに割れた。

辞めるべきか、続けるべきか。

一日で辞めるというのも無責任すぎるけど、後ろめたさを抱きながら亜里沙ちゃんと会うことはできない。

私が茶封筒を返そうとしたそのとき、亜里沙ちゃんが階段を下りてきた。

「ミキお姉ちゃ~ん」

後ろを向いて茶封筒を素早くカバンの中へ押し込む。

「どうしたの?」

偽りの笑顔で尋ねる自分が怖かった。

「また来週の月曜日に来てくれるんでしょ?」

亜里沙ちゃんが手を合わせ、お祈りスタイルで訊いてくる。

「そうだね。お別れするとき、ちゃんと約束しなかったね」

私は亜里沙ちゃんの目の前に小指を差し出した。

「約束だよ」

亜里沙ちゃんは笑顔で小指を絡ませてくる。

「うん、約束ね」

帰り道、私の心は揺れに揺れた。水が並々と注がれたガラスコップが、ブランコの台座にのせられたみたいに不安定。

どんなことにもいずれ終わりがくる。

辞めるとき、亜里沙ちゃんにどんな顔をすればいいのかわからない。

黙って別れても、深い傷をつけてしまう恐れがある。

楽な小遣い稼ぎの代償は、あまりにも大きいような気がした。

バス停がある通りでは交通規制を敷き、道路工事をしている人たちがいた。

重そうな機械を使ってドドドドドッとアスファルトを削っている。

汗を流しながらの仕事は、一時間でどれくらいの稼ぎになるんだろう?

私は女の子のお喋りに付き合い、ピアノの演奏を聴いているだけで八千円をもらえた。

生まれて初めて稼いだお金に満足感は得られないし、使う価値が自分にあるのかも疑問。 

普段なら買えない国内産の高級なお肉や魚をスーパーでカゴいっぱいにしようとした計画は破綻。

家に帰った私は茶封筒を日記に挟んで隠した。

純子と作った共同ホムペで、ブログを公開しているので綴るのをやめてしまった日記帳。

クラスの女子を名指しで“もうキライ!!”とか溜め込んでいたものを吐き出している。

いま思えばよくこんなことを平気で書けたものだと、過去の自分に嫌気が差す。

お母さんの帰りは私より遅かった。

料理を作る気分になれなかったので、残り少ない自分の小遣いから近所のコンビニで幕の内弁当を買った。

「あら、今日はお弁当なの?」

少し不服そうなお母さん。

「ごめん、今日も勉強して遅くなっちゃった」

私はまた嘘で言い訳した。

この嘘はいつまで続けられるのだろうか?テスト期間が終了すれば文化祭の準備があるとかでまた嘘をつかなければいけない。

ひと言ブログでも“今日はお母さんが買ってきてくれた入浴剤を入れてお風呂がすご~く気持ちよかったぁ~”と適当なことを書いてしまう。

この頃、嘘をつくことへの罪悪感が希薄になってきている。

お母さんは過呼吸かと思うほどのイビキをかいて寝てしまった。

明日は土曜日で学校は休み。

一日中、空虚な思いをしているなんて嫌だ。

心の隙間を埋めてくれるのは純子しかいない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――

Date:6/6  23:18

To:ジュン

Sub:試食会へのお誘い

明日、家に来ない?

クッキーを作るから、う~んと太らせてあげる

――――――――――――――――――――――――――――――――――――



宛先を純子と打たないように注意して送信した。

返信は五分後に届いた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――

Date:6/6  23:23

Frm:ジュン

Sub:ごめん

おぉ~ジュンで送ってくれたんだね

サンキュー!

ごめん、明日も明後日もちょっと予定があって行けないよぉ~

次回に備えてダイエットしとくからまた誘ってね

おやすみぃ~ミキ大好きぃ~

――――――――――――――――――――――――――――――――――――



私は落ち込んだ。誘いを断られただけじゃなく、純子はかなり気を遣ってくれている。

私と会うよりも大事な用事があるために……。

返信する文章には嘆きをにおわせた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――

Date:6/6  23:29

To:ジュン

Sub:おやすみ

残念……

2日間、ジュンに会えない寂しさをどうやって補おうかと悩んでいます

おやすみ……ジュン

――――――――――――――――――――――――――――――――――――



純子を不安にさせるメールを送った。

せめて心配してくれる純子の声が聞きたかった。

しかし、純子からは短い文章のメールが届いただけ。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――

Date:6/6  23:32

Frm:ジュン

Sub:Re おやすみ

ごめんね、ミキ

――――――――――――――――――――――――――――――――――――


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