五、純子とジュン
私は交差点で純子を待っていた。
メールで伝えていないのに早目に来てしまった。
純子に超能力でもあれば別だけど、気を利かせて早く来るわけないのに、落ち着かなくて仕度ができたらすぐに家を飛び出していた。
待つこと二十一分。
いつもの時間に純子がやって来た。
「おはよ、風邪大丈夫?」
「う、うん」
純子の気遣いに素直に喜べない自分。嘘をつくといろんなところに弊害が出てしまうことを知った。咳をするなんて演技は心苦しくてできない。
「顔色悪いよ。ほんとに大丈夫なの?」
純子が目を皿のようにさせて私の顔を見る。後ろめたさが表情に出てしまっているのではと自分に疑いをかけてしまう。
打ち明けるならいまかな?
「あのね、純子……」
元気のない私を純子はほっとけないという確信のない甘えに賭けてみることにした。
「なに?」
「昨日、帰ったあと急に用事が出来て地下鉄で岸城三丁目駅まで行ったんだけど、駅で寝てしまって……そしたら変な夢を見たんだ」
「どんな夢?」
純子が心配そうに尋ねる。
「地下鉄駅で私が一人になって鏡の中のケガをした少女が問いかけてくる夢なんだ」
私はグロテスクな少女の顔を直接表現するのは避けた。
「それって私が話した都市伝説の少女?」
「そうかもしれない」
「本当に夢で見たの?」
「う……ん」
「なんて問いかけてきたの?」
「醜い顔を鏡で見たくないから鏡を割ってほしいって……それでね、しばらくバスで通学したいんだ」
私は純子の反応が怖かった。“元気がないのは私のせいなの!”とキレられてもしょうがない。
純子は困ったような顔をして瞬きせずにしばらく考え込んでいる様子。
そしてなにか決断したのか、純子は私を見詰めて微笑んだ。
「ミキがそんな夢を見たのは私にも責任があるし、しばらくバス通学にしよう」
「ありがとう!」
私は声を弾ませて喜んだ。
「走らないと遅刻しちゃうよ」
「うん」
私と純子は地下鉄の平豊駅から、百メートル離れたところにあるバス停に向かった。
路線バスの背中が見えた私と純子は追いかけ、運よく信号と渋滞に捕まっている隙に、次のバス停でギリギリ先回りすることに成功した。
私たちが通う学校前にバス停はあるけれど、乗り継ぎしないといけないから、降りてはまた走るという行動の繰り返しになる。
結局遅刻してしまった。
正面玄関の門は閉ざされ、生徒指導の先生が厳つい顔で顎を使って示した裏口に回る。
私たちは裏口から生徒指導室へ直行して、遅刻状況届を書かなければいけない。
「ごめんね」
「謝らなくていいよ」
純子は笑顔で答えてくれたけれど、本心はわからない。
遅刻状況届には遅刻した理由を書く欄がある。
私は『地下鉄じゃなく、バスで通学したら遅くなってしまいました』と脈絡のないことを書いた。
純子がなんて書いたのか知りたかった。
けれど聞く勇気がない。
昨日のうちにメールで打ち明けていれば、こんなことにはならなかったという反省で、純子の顔を直視できなくなっていた。
休み時間の会話も相槌を打つだけで精一杯。
帰りもバスにしようと言ってくれたのは純子のほうだ。
「遅刻のことは気にしなくていいよ。明日はいつもより二十分早く家を出るね」
別れ際の純子のひと言は私の目を潤ませた。
「ありが……とう」
「ミキってそんなに泣き虫だった?」
純子は私の頭を撫でた。子供のような扱いをされて甘えている自分が、とても弱くて邪魔な存在じゃないかと感じた。
「ところでミキに昔から聞きたかったことがあるんだ」
純子の口調がやけに明るくなった。こういうときは重要なことを尋ねてくる。高校の進路を相談してきたときも同じだった。
「ミキはどうして私をジュンと呼ばないの?」
質問のあとに“私はミキとあだ名で呼んでいるのに……”という不満が付け加えられそうで、私の目の潤みが消えた。
私は小学校のとき、同じクラスにエリという同じ名前の子がいてよく間違われた。
名字を省略して“ミキ”と新しい呼び名をつけてくれたのは純子。
「特別な理由はないんだよ。会ったときから純子と呼んできたからいきなりジュンと呼ぶのが照れくさくって、ずっとそのままきちゃった」
また嘘をついた。前々から聞かれたときに用意していた答えだった。
「そうなんだ。メールくらいジュンと書いてほしいな」
「わかった。今日のおやすみメールはジュンに送るよ」
手を振りながら純子の背中が徐々に小さくなるのを見ていると、私はやるせない気持ちになる。
純子が他の子とちょっと違うなと感じたのは中学校のときからで、何度か男子にコクられても、すぐ断っていた。
カッコイイなと思う男子でも簡単に振ってしまう。
「付き合ってみればいいのに」と私が茶化すと「私はミキがいいの」と言ってくれた。純子は男子より私を選んでくれた。
「友情の方が恋や愛よりも実体があるような気がするんだ」
しみじみと純子が語った言葉の意味を、そのときの私は全然理解できなかった。
髪を切る度に短髪になり、私服でスカートをはかないことや立ち振る舞いが男の子っぽくなってきている。
純子には男の子の部分が存在している。
本人は気づいていないのかもしれない。
私は「ジュン!」と呼べない。
ジュンってまるで男の子の名前じゃない。
“子”を付けることで、純子には女の子のままでいてほしいという願いをこめている。
勘違いかもしれないけれど……。
純子の心が完全に男の子になってしまったら、私との友情が崩れてしまう気がする。
私があだ名で呼ばないこと、ずっと気にしてたんだ……本当に私は我がままだ。
「純子、ごめんね。メールはジュンで送るから見捨てないで……」
遠く離れて小さな黒い影になってしまった純子に囁く。
目尻からこぼれそうな一粒の涙を人差し指ではらう。
感傷的な気持ちに浸っている暇などなかった。これから亜里沙ちゃんとの初対面が待っているのだから。