四、正面を向かない少女
柳沼家からの帰り道、今後のことを考えた。
亜里沙ちゃんのお世話をする日と食事当番が重なる月、水、金曜日はスーパーのお惣菜か弁当で我慢してもらおう。
手料理の回数が減ることで怒られはしないと思うけれど、お小遣い稼ぎをしていることがバレたら、お母さんのプライドを傷つけてしまう。
岸城三丁目駅のプラットホームに降り立ったとき、「私がもっと楽な生活をさせてあげていれば……」と泣いてしまうお母さんの最悪な反応をイメージしていたせいか、鏡の前を素通りできたことに気づく。
地下鉄がやって来る気配がなく、私はベンチに腰を下ろした。
ステンレス製でお尻が冷たくて、シャキッとするかなと思ったら眠気が襲ってきた。
生まれて初めて面接っぽいものを経験し、開放されて緊張の糸が切れたせいかもしれない。
アナウンスが流れれば起きれるだろうと、私は瞼を閉じた。
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冷たいものが頬に触れたような気がして、私はおもむろに瞼を上げた。
視界が白くぼやけている。
火事?!
一瞬焦ったが、コゲ臭いニオイはしない。
ブルブルッと寒気がして自分の腕をさすると、手の甲に微細な水滴がついてしっとりとしている。
間違いなく霧が発生している。
地下鉄駅にどうして霧が充満しているのか理解できない。
周りを見ると人がいなかった。
向い側のホームにも人っ子ひとりいない。
自宅のマンションに一人でいるときとは、比べものにならないくらい寂しさがこみ上げてくる。
地球にたった一人取り残されたような感覚。
いったん外に出よう。
極度な寂しさは恐怖心へと変わって、私を小走りにさせた。
階段を上ろうとしたとき、鏡が目に入った。
鏡には真っ白い水蒸気が張り付いて、なにも映し出せないでいる。
あぁ~よかった。
喜びにも満たないちょっとした幸福感を背にして階段に足をかけた途端、鏡に張っていた白い膜が見る見る消えていく。
誰もいないプラットホーム内を映さなければいけないのに、鏡には見知らぬ黒目がちの少女が横向きで鏡の端を見ている。
私の視線は鏡に釘付けになった。
『ねぇ』
と言って鏡の中の少女は私と目を合わせた。
少女の表情は誇らしげで自信に満ち溢れていた。
白いドレスを着て、真っ赤なリボンで長い髪を後ろで束ねている。
『ねぇ、お返事してよ』
少女の声はかわいらしかったが、狭い空間に閉じ込められているからなのか声に苛立ちがこもっていた。
私は怖くて身動きできずにいた。
酸素を追い求める魚のように口をパクパクさせるだけで、“嫌”という拒否する声も響かせることができない。
『ねぇ、お願いがあるの』
頼み事をする少女の声は相手をうやまう心遣いなど感じられず低い。
私は首を左右に振って、なんとか意思表示することができた。
『鏡を割って』
私は髪が乱れるくらい必死になって首を振った。
“鏡を割ってから走ってくる地下鉄の先頭車両にぶつかるように飛び込んだの”という純子の言葉が、じわじわと脳から染み出してくる。
恐怖心が私を包む。
『どうしてお願いを聞いてくれないの?』
尋ねたときの少女は微笑んでいた。でも、口許を緩めただけで黒い眼球はまったく動かさない。
冷たい微笑を突きつけられ、体が凍る思いがした。
『ねぇ、どうして私が正面を向かないかわかる?』
質問の内容を把握できず、私の恐怖心は治まらない。
盛んに問いかけをしてくる鏡の中の少女は、正面の顔を私に見せてなにを伝えたいのだろうか?
「わ、わ、から……ない」
震えながら喉元から言葉を押し出した。返事をすることで、いまの現状から脱することができるかもしれないと思った。けれど、なにも起こらなかった。
『教えてア・ゲ・ル』
少女はゆっくりと顔をずらし、正面を向く。
「きゃぁ~」
私は腹の底から叫び声を張り上げた。
少女の顔は……左側がなかった。
なにかに潰されたように断面が醜く、赤黒い肉片をさらけ出している。
左腕もなく、頭から腰の部分にかけて体がえぐられている。
『ねぇ、私は醜い顔をこの鏡で見たくないの。だからお願い。お姉ちゃん、鏡を割って』
「いやぁ~」
私は絶叫して気を失った。
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「痛っ」
私は椅子から落ちて大理石パネルの床に思い切り腰を打った。
少し離れたところにいた女子中学生の集団にクスクス笑われた。
あぁ~よかった。
私は恥ずかしさよりも悪夢から解放された喜びに浸る。
腕時計で確認すると、十五分くらいホームのベンチで眠りこけていたらしい。
でも、やけにリアル感のある夢だった。
冷や汗が額を濡らしている。
地下鉄駅にはいられない。
もう!純子のせいなんだから。
私は階段脇の鏡が目に入らないように、手のひらで壁をつくってプラットホームから逃げた。
バス停で一時間半待つことになったけれど、さっきの恐怖は二度と体験したくない。
家に着いたときは午後八時を回っていて、お母さんが先に帰ってきていた。
「珍しいね、こんな時間まで夜遊びするなんて」
「純子と勉強して遅くなったの。中間考査が近いからこれからは帰りが遅くなるかも」
中間考査が迫っているのは本当だけれど、どこで勉強したかなど余計な情報を与えず、お風呂場に避難する。
狭いユニットバスに入ると白い湯気に包み込まれた。
夢の中に出てきた地下鉄駅の霧を思い出して、お湯に浸かっていても温まっているという感覚がなかった。
地下鉄駅にもう行きたくないな。
これからの登下校が苦痛になる。
バス通学するしかない……けれど本数が少ないからいつもより二十分早く家から出ないといけないし、歩く距離も倍以上になってしまう。
私はどうやって純子を口説こうかと考えた。
理由も説明しないといけない。
純子の性格からすると、正直に話せば面白がって地下鉄駅に引きずって荒療治される可能性がないとはいえない。
けれど、悪夢のことを話さないと解決の道は険しい。
こういうときはメールが便利。
口で話すより文字の方が勇気を出すことができる。
お風呂から上がると「先に食べてるわよ」と、不機嫌気味のお母さんに追いつくように食事を済ませた。
木曜日の当番であるお母さんがせっかく作ってくれた料理の味は覚えていない。
間を置かずにメールをしていれば、地下鉄で見た悪夢のことを告白できたかもしれない。
けれど、いざ純子にメールをしようとすると迷いが出てしまった。
面倒くさい奴と思われないだろうか?
“わかった。明日からバス通学しよう!”というこっちが望んでいるメールが、返信されてくるだろうか?
純子を納得させる文章が頭に浮かんでこなくて、ケータイのボタンがなかなか押せない。
どうしょう……。
悩んでいる間に時間は十一時半を過ぎていた。
こういうときに限って、時計は意地悪をして時間を早く進める。
昨日は純子からおやすみメールをしてくれたのだから、今日は先に送信するのが私の中での暗黙のルール。
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Date:6/5 23:39
TO:純子
Sub:おやすみ
今日はなんか疲れたぁ~
風邪気味なのかな?
純子も気をつけてね
おやすみ純子
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結局私はバス通学のお願いを先送りするだけでなく、嘘で行間を埋めた。
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Date:6/5 23:46
Frm:ジュン
Sub:Re おやすみ
まだ起きてたんだ
寝ちゃったかと思ったよ(笑)
風邪なの?
気をつけるのだぁ~
おやすみミキ
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おやすみメールを受け取ると、私の嘘にちゃんと応えてくれた純子に申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。
そのうち罰が当たるな。
どうか悪い夢を見ませんように……。
私は無事に朝を迎えることを願った。