三、柳沼家
平豊駅から四つの駅を通り過ぎた岸城三丁目という駅で私は降りた。平豊駅と同じ対向式で壁の色も白を基調としているので雰囲気が似ている。
やっぱり……。
岸城三丁目の駅にも鏡が設置されていた。
地下鉄の駅ってどこもあまり変わらず、個性がない。
純子が都市伝説と自殺した実際の人数を織り交ぜた作り話は、私の頭の中で理屈が成立して、鏡がある駅ならどこでも“出る”という可能性を現実化していた。
階段を上って、プラットホームからさっさとおさらばする。
岸城三丁目駅は自動改札口が二つしかなく、夕方の帰宅時間なのに私を含めて降りたのは七、八人くらい。
乗降客の数が少ないようで二つでも事足りるみたいだ。
外への出入り口も一箇所しかない。
エスカレーターで上がった先はコンビニの横で、閑静な住宅街が広がっていた。高い建物がなく遠くまで見渡せる。
私はケータイのナビ機能で画面に映し出した地図と、交差点ごとの番地の表示を見ながら歩を進めた。
碁盤の升目のように区画されているので、【柳沼家】の表札を見つけるのにそれほど時間はかからなかった。新築の匂いがしそうな真新しくかわいらしい家がひしめく中で、柳沼家は異質で目立っていた。
歪な石を積み重ねた二メートル以上の高さがある塀は、セキュリティーの視覚効果を狙っているようで、他人を寄せ付けない威圧感を発している。正三角形を頂点とした西洋のお城のような屋根。真っ白いレンガタイルで清潔感を保ち、上部が円形の二階の出窓が西日を反射させていた。
インターホンを鳴らすと、軽やかなピンポ~ンという響きの後に「どちら様ですか?」と女性の声が尋ねてきた。
「昨日メールでお約束したミキといいます」
失礼のないように何度も反すうしながら考えた第一声を使った。
「お持ちしておりました。どうぞ中へお入りください」
広い間口で植物をモチーフにした鉄鋳物の門扉が、キキィーとやや不快な音をさせて開く。
私は車一台が通れる舗装された道を進んだ。
石膏の噴水が玄関前に配置され、植栽が施された悠々としたガーデンが玄関まで三十メートルほどの道のりを退屈にさせない。
キョロキョロしながら玄関間際まで歩くとドアが開き、レトロなドット柄のワンピの上に紺色のカジュアルなエプロンをかけた女性が私を出迎えてくれた。
年齢は四十代くらいで、目尻にある褐色の斑紋、後ろに束ねた髪から所々飛びはねている白髪がなければ、もっと若く見えるかもしれない。
「わたくしヤギさんの執事です。わざわざお越しいただきありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、よろしくお願いします」
深々と頭を下げられ、私も恐縮しながらお辞儀をした。
メール文と執事というハンドルネームで男の人かなと思っていた。
執事というより家政婦さんではないだろうか?
「どうぞ」
入ってすぐに玄関ホールをほぼ独占している階段が待ち構えていた。ドレスを着たお姫様が下りてきても不思議じゃないくらい、優雅なカーブを描いて無駄にスペースを確保している。天井からはキラキラ光るクリスタルのシャンデリアが、金色の繊細な灯りを落としていた。階段と壁にポップアート的な明るい色彩で、マンガスタイルのかわいらしい女の子のイラストが飾ってある。抽象的で難しい絵もなければ、古めかしい自画像や風景画もなく、建物と雰囲気が合ってないような気がする。
私は靴を脱ぎ、並べられていたスリッパに足を入れて女性の後ろを付いていく。
玄関から直線状に中廊下が伸びていた。吹き抜け窓がなく薄暗い。
女性は壁スイッチをONにして天井の照明を点けた。
誘導灯と勘違いしてしまいそうな緑色の間接照明は、かろうじて足元まで届く明るさ。
中廊下の片側だけにドアが4つ並んでいた。
両側にドアがあったらぶつかってしまうくらい狭い。
両脇の壁に犬や猫、アザラシ、ペンギンなどの動物系のイラストがひしめき合って中廊下をギャラリーに仕上げている。
奥から二番目のドアを開けた女性は私を部屋へと招いた。
幅広の置時計、透明な樹脂の台座の上に象牙のチェスの駒、応接セットは金色の光沢が眩しく、建物の外観と合致するセンスを感じた。
客間らしき部屋に通された私は、踏み入れたことのない環境に体が小さくなる思いがした。
「そちらに座って待っていてください」
「は、はい」
女性は案内を終えるとすぐに部屋を出ていく。
赤褐色の木材の椅子を引いたとき、やけに重かった。
テーブルと椅子が輝いて見えた部分は、縁を本物の金で細工しているみたいだ。
手あかを付けてはいけないと思い、桃の上に鞄を乗せて余計なものに触らないようにした。
いまになって場違いなところにいる自分に恥ずかしさを覚えた。
唇も若干乾いている。
「お待たせしました」
女性がハーブの匂いが漂う紅茶を携えて戻ってきた。
テーブルの上に置かれても、ガチガチの私は“おかまいなく”の一言さえ出せない。
「旦那様が長期の出張をしておりますので、わたくしが全権を任されております」向かい側の椅子に座ると、女性が事務的な口調で説明をはじめた。「できれば勉強も教えてあげてほしいのですが、高望みはしません。お嬢様とお部屋で一緒に遊んであげるだけでいいのです。お金はその日のうちにお支払いいたします。とりあえず一日一時間で月曜日から金曜日までのお世話をお願いできたらと考えております」
「あのぅー」
「なんでしょう?」
私が質問しようとすると、女性の目がやや厳しめに細くなる。
「ヤギさんの執事さんはここの家政婦さん……なんですか?」
なんて呼べばいいのかわからず、とりあえずハンドルネームで言ってはみたけれど、“さん”ばかりつけてしまい、私の顔は赤くなった。
「はい、そうですよ。話しを続けさせてもらいます。海外に出張することが多い旦那様は若い人のほうが話しも合うだろうという判断をされたみたいです。メールにも書きましたが、お嬢様はお姉さんがほしいようなのです。親戚に頼れる年頃の女の人がおりませんし、お母様が死んだショックが抜けきれず、いまは学校を休ませていますのでお友達はいません。それから私を呼ぶときは動物のメェ~と鳴く羊でいいですよ」
淡々とした口調で突然羊の鳴き真似をされ、私の心は和んだ。
「お嬢さんのお名前は?」
少し緊張が解けてきた私は、まともな質問をすることができた。
「亜里沙お嬢様です」
「いまから会えますか?」
「今日は病院へお出かけしております」
「亜里沙ちゃんは病気なんですか?」
「いえいえ、定期健診を受けに行っているだけです。ご心配なく」
羊さんは手の甲を口に当てて笑った。
「そうなんですか……誰が亜里沙ちゃんを病院へ連れて行ってあげているんですか?」
「旦那様の送り迎えをしているお抱えの運転手に今回はお任せしております」
「その運転手さんのお名前は?」
「たぶん会うことはないと思いますので知る必要はありませんよ。ささ、どうぞ、紅茶を飲んでください」
なにか不都合なことでもあるのか、羊さんは急に紅茶をすすめる。
「はい、いただきます」
花柄でアンティーク調のティーカップとソーサーをカチカチ鳴らさないように注意して、私は紅茶を口に運んだ。
口に含んだ瞬間は漢方っぽいニオイがした。
高級な紅茶ってこんな味がするんだと思っていると、あとからクセのない上品なハーブの香りが口の中に広がる。
「ところで身分を証明するものをお持ちかしら?履歴書は必要ないとメールでお伝えしましたけど、念のために確認させてもらえますか?」
「いいですよ」
私は生徒手帳を差し出した。
「見北絵里さんとおっしゃるの?」
「はい」
「二年生なんですね」
「はい」
「来年は受験かしら?」
「まだ進路は決めてないんです」
私は少し恥ずかしかった。
高校二年生にもなって、自分の将来を具体的にイメージできないのだから。
「ここで亜里沙お嬢様のお世話をしてお小遣いをもらうことは、ご両親や学校に説明はしてあるのかしら?」
羊さんは生徒手帳を返しながら尋ねる。
「学校は原則禁止ではなく許可制になってますけど、有名無実化になってます。やっぱり親や学校に話さないと駄目なんですか?」
私はお金に困っているという必死さを表情に出さないように、食い下がった。
「わたくしどもはご両親や学校に報告しようがしまいがどちらでも構いません。高校生にもなればそれくらいの判断はご自分でできるでしょうから。しかし、あとからトラブルに巻き込まれるのは困ります」
「トラブル?」
「例えば多額のお小遣いの値上げを請求してきたり、未成年を雇っているという言い掛かりをつけて警察に通報するぞと脅したりすることです」
「私の親は心配いりません」
私はお母さんの顔を思い浮かべながら答えた。
「そうだといいのだけれど」
まるで私の表情を盗み取るみたいに、羊さんは片目だけを見開いて観察する。
時間にして十秒もなかったかもしれない。
静謐な時間に耐え切れず、私は制服のスカートをギュッと握った。
「明日からお願いできるかしら?」
半分諦めかけていたところへ、思いがけない言葉が飛んできた。
「はい!」
もちろん私は即答した。
その後、羊さんはにこやかに自分自身のことを話してくれた。
柳沼家に住み込みで働いて三年になること。
結婚は一度経験したことがあることなど。
「貴重なお時間をありがとうございました」
前々から考えていた決め台詞を残し、私は玄関のドアを閉めた。
門扉から出ようとしたとき、背中に視線を感じた。振り向くと二階の角部屋にかかっているカーテンが揺れ、人影が見えたような……気がした。
亜里沙ちゃんかな?
でも羊さんは定期健診を受けに病院へ行っていると言っていた。
他に誰か住んでるのかな?と、それほど気にせず、柳沼家を後にした。