十五、六時間後
警務課、地域課、交通課、刑事・生活安全課、など所轄の警察署は狭いスペースに様々な課が集まっていた。背筋を伸ばせば後ろにいる隣の課の人にぶつかってしまうほど通路の確保が難しい。
私たちの事件のせいで署内は慌しかった。ひっきりなしに電話が鳴っていて対応に追われていた。日当たりの良い窓際の席にいる偉い感じのする人が、電話の受話器を片手で持ちながら椅子から立ち上がって部下に指示を出している。
ドラマでよくある取調室で刑事が机を叩いて声を荒げるシーンを連想したけれど、現実はそうじゃなかった。私と純子は署内の角に用意されていた折畳式の会議机があるところに座らされ、柳沼家で聞かれたことと同じような質問をされた。半信半疑ながらも婦人警官は黙って私たちの話に耳を傾けてくれた。
それから担任の先生とお母さんが警察署にやってきて、簡単な状況説明を受けていた。
明日も実況見分というものがあって、また柳沼家に連れて行かされるらしい。きっと細かい動きまで再現しないといけない。
まだ事件の全貌を把握していないはずの担任の先生から「大変だったな」と声をかけられ、お母さんからは「心配させないで」と手荒く頭を撫でられた。
純子には頭を撫でてくれる人はいない。警察の人が生活保護について担任の先生をまじえて説明していた。
純子の負担が少しでも減ってくれたらいいのにと願った。
警察署で別れたあと、純子は担任の先生と一緒に区役所へ相談に行った。
私は家に帰ってから、お母さんにケータイ禁止令を言い渡された。
せめてメールのやり取りがしたいと縋ると、ケータイサイトへアクセスできないようにするフィルタリングサービスの手続きだけは明日してくるようにと釘を刺された。
渋々納得した。
純子と作ったホムペは閉鎖しないといけない。
停学や退学処分になる心配もあったし、別れて間もないのに純子と無償に話がしたくなった。
そのとき、ホムペに書き込みがあったことを伝えるお知らせメールの着信音が鳴った。
純子なら電話をかけてくるか、直接メールをしてくるはず。
ちょっとガッカリしながら、ホムペの掲示板の書き込みを確認した。
【バイトのこと、相談しましたよね?実はここのホムペの宣伝板にあった書き込みを見てお小遣いを稼いでいました。女の子の面倒を見るだけでお金をもらえました。でも、そのお家のお手伝いさんに弱みを握られて、お世話をしている女の子にもひどいことされて…黙ってバイトしていたから誰にも相談できなくて…いま平豊駅にいます。
6/26 15:32 by あかり】
長い文章を読み終えた私には不安感、焦燥感、虚無感などいろんな感情が一気に押し寄せてきた。
私はいままで書き込まれたあかりちゃんの過去のレスを読んでみた。
【今日は良い天気でしたね。
6/8 9:56 by あかり】
今日は良い天気……六月八日の天気をケータイで調べてみると日本中晴れていたわけじゃなく、私とあかりちゃんがかなり近いところに住んでいることがわかった。私のプロフィールやブログを読んで推測できたのだろうか?
私はすぐに返信した。
【いまから平豊駅に行くから待ってて。私、汐見南高校の制服を着てホワイトローズの髪飾りをしていくから。わかるかな?
それとホムペの掲示板にいくと時間がかかるからこれからメールでやりとりしよう。
6/26 15:48 by ミキ】
メールをするにはまずホムペの“お手紙”の機能を使わなければいけない。説明不足かもしれないという不安は、すぐに送られてきたメールで解消された。
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Date:6/26 15:52
Frm:あかり
Sub:すぐにきて!
うん、わかると思う
待ってる
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返信はきたけれど、あかりちゃんは自分の容姿や服装を教えてくれなかった。
私は親戚のお姉さんの結婚式以来はめていなかったホワイトローズの髪飾りを手に持った。順子が誕生日プレゼトに贈れたものだ。私はまだお返しをしていない。
「すぐ帰ってくるから」
私は説明を棚上げしてマンションから出た。
「ちょっと待って……」というお母さんの声を無視した。
きっとあかりちゃんは柳沼家で起ったことをまだ知らないんだ。事情を説明して一緒に警察に行ってあげないといけない。あかりちゃんから、すぐに羊さんと亜里沙ちゃんの呪縛から解放してあげたい。
でも、いつ亜里沙ちゃんのお世話をしていたんだろう?土曜日?日曜日?それとも深夜?
もう一人お姉さんを確保していたなんて……人を予備とか車のタイヤのスペアくらいにしか思っていなかったんだ。
大変な一日になったな。
今日のことは一生忘れるわけはないけれど、忌まわしい出来事を記憶の断片として一ピースずつ隅へ追いやろう。
平豊駅まで走っている最中に前向きなことを考えられるようになっただけ、私は確実に強くなった……と思うことにした。
肩で息をしながら、あかりちゃんらしき人物を探した。
二人組みの女子高生が、自動改札口を抜けてやって来る。
あっ、そうか。顔も知らない見ず知らずの相手に会うのは怖いから友達を連れてきているという可能性も。
私は慌ててホワイトローズの髪飾りを右耳の上の辺りにつけた。派手だからかしこまった場所じゃないとちょっと恥ずかしい。
人目につくはずの髪飾りを視線に捉えても、二人組みの女子高生は私の横を素通りしていく。
まさかプラットホームにいるんじゃ……。
私は自動改札口から階段を下りた。
一番下の段を下りると、目を瞑って鏡の前を走り去る。
やっぱり苦手だ。
再び目を開けて振り返る。
鏡はプラットホームの殺風景な様子を映しているだけ。
“薬を飲ませたのは一度だけです。初対面のときにいきなり薬を飲ませるなんて意味のないことはしてません。ミキさんは嘘をついてます”
羊さんの言ったことは本当だろうか?
初めて柳沼家を訪問して、その帰りに地下鉄駅で悪夢を見た。
薬を飲まされていないなら、どうして悪夢を見たのだろう?
亜里沙ちゃんに言い訳するために、取り繕った嘘だろうけれど。
何人か地下鉄を待つ乗客はいたけれど、女子高生らしき女の子の姿はない。
サラリーマンとエコバックを肩からぶら下げた買い物帰りの主婦、音楽を聴いている大学生風の若い男の人の三人。
しばらく待っていると地下鉄がホームに滑り込んできて、乗客を拾っていく。間を置かず向い側のホームにも地下鉄がやってきて乗客の乗り換えがはじまる。地下鉄から降りた乗客がプラットホーム内から去ると、平豊駅構内には私一人しか残っていなかった。
あかりちゃんどうしたんだろう?待ちくたびれて帰ったということはないよね?
途方に暮れていると、階段から見覚えのある人影が下りてくる。
「ジュン?!」
私は思わず声を上げた。
純子は私を見ると、階段の踏面で立ち止まる。片手にはケータイ。
二人の距離は二〇メートルもなかったけれど、やけに遠く感じた。
「ジュンがあかりちゃんだったの?」
「ミキのほうこそあかりちゃんじゃないの?」
お互い尋ねあって、不信感を振り払おうとした。
ホムペの“絡み”のスレッドにはパスワードとトリップをかけられる。大概の人は管理人と本人以外に閲覧できないようにパスとトリップを使う。だからあかりちゃんという人物のスレッドの名前は知っていても、私も純子も内容が閲覧できないスレッドがお互いに存在する。
あかりちゃんから送られてきたレスの内容は被害者意識が強く、純子が書いたものとは思えない。
「あかりちゃんは私じゃないよ」
「私でもないよ」
二人とも強く否定した。ということは第三者が私たちを誘き寄せた……ことになる。
首筋にひんやりとした冷たい空気が纏わりつく。
『きてくれたんだね』
声域が狭く、こもった女の子の声がした。窮屈な箱に閉じ込められているような声。
私と純子の視線は地下鉄駅の鏡へと吸い寄せられる。
鏡にあの少女が映り込んでいた。眼球にほとんど白い部分がない闇のような黒目は、目をくり抜かれた人形みたいで薄気味悪く、長い髪を後ろで結んでいるリボンだけが鮮明な赤をはじき出していた。顔は純子のほうを向き、私には後頭部を見せているのに、なぜか少女からの視線を感じた。
『ねぇ、お願いがあるの……鏡を割って』
「まさか都市伝説の……」と言って純子の顔が青ざめる。
純子にも少女が見えている。二人同時に悪夢を見るなんて考えられるだろうか?地下鉄に轢かれた少女の幽霊を頭の中で具現化して、共通した悪夢を見るなんてことがありえるだろうか?
ありえない。これは現実に起こっている出来事なんだ。
「違うよ、ジュン。地下鉄にはねられた都市伝説の女の子じゃない」
私は純子のところまでいって手を握る。
「なに?どういうこと?」
純子は半ばパニック状態。私が最初に少女を見たときと同じように動揺している。
「鏡の隅を見て」
「柳沼合金製作所……寄贈……柳沼ってまさか?!」
「あの部屋にあった鏡で下敷きになって……血のついた鏡を寄贈したのよ。だから、この子は唖璃子ちゃん!」
柳沼家の鏡は邪悪な意思を繋ぎとめていた……私はキッと唖璃子ちゃんを睨む。
『気づくの遅いね』
唖璃子ちゃんが口許を歪めて醜く嗤う。
「私たちをどうするつもり?」
私は意を決して訊く。
『みんなと同じように走ってくる地下鉄に飛び込ませてあげる』
「どうして、罪のない人たちを……」
問い詰めようとしたが、言葉が切れた。
『だって、みんな幸せそうなんだもん』
「不幸なのはあなただけじゃないのよ。お姉ちゃんにひどいことされて恨んでるのはわかるけど、筋違いだと思う」
『筋違い?意味わかんない』
“筋違い”という言葉の意味がわからないのか、それとも私が説教染みたことを言う意味がわからないのか……どちらにしても唖璃子ちゃんが殺意むき出しなのはわかった。
早くここから逃げないと!というシグナルが頭の中で鳴り、私が純子の手を引いて階段を上がろうとすると、ピチャッと水の音がした。
階段の上り口から先の景色が、まるで海中にいるように光が屈折し、グニャと視界が変形した。指で突くと幾重にも輪が広がり、波紋を刻んだ。
私と純子は常識が破綻した瞬間を目の当たりにした。
『逃げられないよ』
鏡にも波紋のような歪みが広がり、そこから唖璃子ちゃんの頭が出てきた。半分欠けた頭……グロテスクな肉片を次々落とし、濡れた白いドレスを引きずるように鏡の中からズルッと抜けてくる。
私と純子は恐怖が体中を支配してストンと腰が落ちた。
『まず、どっちが犠牲になってくれるの?』
唖璃子ちゃんは片側しか残っていない黒い目で私たちを見据える。
私と純子は蜘蛛のように腕と足を使ってなんとか離れようとしたけれど、気づいたときにはプラットホームの端まできていた。
アナウンスが流れ、真っ暗なトンネルの先から皓々と光るライトがぐんぐん巨大化してくる。
ギユッと純子が私の手を力強く握る。痛みが走った。けれど、私から一瞬だけ恐怖を取り除いてくれた。
「ジュン立って!」
私は純子を支えながら立ち上がった。
唖璃子ちゃんは足を動かしていないのに、連続写真のように一瞬で移動を完了し『まず亜里沙お姉ちゃんのお気に入りのアナタから……』と言って洞窟のような深い闇を抱えた黒目を純子の鼻先まで近づけた。
フッと気を失った純子を、唖璃子ちゃんは右手で突く。
純子の体が宙に浮き、プラットホームの下へ流されていく。
二人が繋がっている絆は私の右手と純子の左手だけ。幼い頃の『友情』という遊びが脳をかすめた。
『どうするの?電車が来ちゃうよ。あなただけなら助かるかも』
唖璃子ちゃんが私を試すようなことを言った。
確かに手を離せば、私は一時的に助かるかもしれない。
でも、そんな手には乗らない!
私は左手で唖璃子ちゃんの腕を掴み、足を軸にして回転した。
唖璃子ちゃんと純子の位置が入れ替わり、遠心力に耐え切れなくなった私の体はプラットホームから投げ出される。
振り飛ばされ、倒れた純子は私を見て届くはずのない手を伸ばす。
『自己犠牲なんて流行らないよ』
唖璃子ちゃんが寂しげに言葉を発した。
私は唖璃子ちゃんを抱き締めたまま走ってきた地下鉄とぶつかった。
ホワイトローズの髪飾りから、花びらの形をした破片が……散った。