十三、カ・ガ・ミの部屋
柳沼家の一〇〇メートル手前でタクシーを降りた。
フゥ~と重たい空気を胃から吐き出し、気分的に体を軽くして柳沼家の石の塀に沿って歩く。
すぐ異変に気づいた。
柳沼家の鉄鋳物の門扉が開いたままになっている。閉め忘れというより、まるで入ってきなさいと誘っているかのように門扉は無防備。
インターホンを鳴らそうか鳴らさないか悩んでいると「バーン!!」と激しくピアノの鍵盤を叩く音が聞こえた。風に乗った優雅な演奏ではなく、柳沼家の裏手から怒りがこもった直情的な響きが空気を切り裂いてきた。
たぶんピアノに触れることができるのは、亜里沙ちゃんだけだ。
なにか大変なことが起っているという直感が、私を突き動かす。
門扉から玄関まで走っている最中に、ピアノの音は聞こえてこなかった。
柳沼家の玄関のドアレバーに飛びつき、開けた瞬間、建物全体がグラッと揺れた……ような気がした。
私は反射的にドアに掴まって揺れに耐える体勢を取った。けれど、玄関ロビーに飾ってあるイラストの額縁が、傾くこともなければシャンデリアも揺れていない。
なんだったのいまの?
自分なりに答えを導き出そうとしても見つからない。あたかも私が入ってきたことにより、建物自体がクスッと微笑んで非現実的な現象を起こしたとしか思えない。
「なにするの!」
二階から声がした。
階段を駆け上がる。
廊下にいたのは三人。
亜里沙ちゃんと羊さん。そして、なぜか床に両膝を付いて座っている純子。
「じゅ、純子」
私の声に反応して、三人がこっちを向く。
「ミキ……」
純子が立ち上がり、私のところへ逃げてこようとすると、羊さんが腕を首に巻きつけて引き戻した。
締め上げる羊さんの腕を純子は解こうとしても、呼吸が苦しいのか満足な力が入らずに足をバタバタさせる。
「ど、どうして、純子にそんなひ、ひどいことするの?」
私は震えながら尋ねた。
「だってお姉ちゃんになってくれるって約束したのに、今日になって突然辞めたいって言うんだもん」
答えたのは亜里沙ちゃん。白い歯を見せてはいるが表情は消していた。
「純子を放して!」
声を振り絞って叫んだ。
「あなたよりジュンお姉ちゃんのほうが頼りになるから、手放したくないんだ」と、亜里沙ちゃんが言うと「純子さんがお気に入りなんです」と、羊さんが無表情で補足する。
「純子にケガをさせていたのは、あなたでしょ?」
私は亜里沙ちゃんに厳しく問う。
「後ろから押すと人間がどうやって階段を転げ落ちるのか見たかったの。二回も見ちゃった」
「ひどい……」
言葉が続かない。
「でもジュンお姉ちゃんはあなたと違って、ケガをしてもちゃんと来てくれたよ。それって亜里沙のお姉ちゃんに、本気でなりたいからじゃないの?」
亜里沙ちゃんが視線を上げて尋ねると、羊さんが目尻の皺を伸ばして頷く。
純子はお母さんからの仕送りを当てにできなかったはずで、生きていくために歯を食いしばって我慢していたに違いない。今日も勇人君をちゃんと学校に送り出していた。亜里沙ちゃんと羊さんに純子の家庭の事情を説明しても、理解しようとする心なんて存在するはずがない。
「純子を返して!」
腹の底から訴えた。
「あなたはもう亜里沙のお姉ちゃんじゃないんだから、この家から出ていってよ」
亜里沙ちゃんが口を尖らせる。
「純子を離さないなら、警察に通報する」
私はケータイを出して、震える指を制御しながらボタンを押した。
「いいよ、警察を呼んでも。でも、ジュンお姉ちゃんが死ぬほうが早いかも」と言ったあと、亜里沙ちゃんが羊さんに目配せした。
羊さんが締めていた腕をグィと上げ、純子の足が床から離れると顔が見る見る赤く染まっていく。
「ぐっ……」
酸欠状態の純子は悶え喘いだ。
「やめて、な、なんでもするから……」
私は両手と両膝を床につけ、土下座をする格好をして崩れた。
すると亜里沙ちゃんがその言葉を待っていたかのように、ニヤッと笑って私に近づいてくる。
「またお姉ちゃんとして、戻ってきてくれる?」
亜里沙ちゃんの問いかけに、私は小刻みに首を縦に振って応える。
「本当に?」
再度尋ねられ、今度は大きく頷いた。
「ジュンお姉ちゃんは受け入れてくれたんだけど、ミキお姉ちゃんは弱虫だから逃げちゃうんじゃないかな。ねぇ、ちゃんと受け入れてくれる?」
「なにを受け入れればいいの?」
「こっちに来て」
亜里沙ちゃんが手を差し出してきた。なにを受け入れればいいのかわからなかった。けれど従うしか純子を助ける道はない。
私は亜里沙ちゃんの手に掴まるようにして立ち上がった。
「この部屋に入って」
移動距離は五、六歩。私が窓を閉めるために入ったお父さんの部屋から、ひとつ手前のドアを亜里沙ちゃんが開けた。
亜里沙ちゃんは神聖な場所に足を踏み入れるかのように、うさぎのルームシューズを脱ぐ。
部屋を見ただけで、体が急激に冷えた気がした。
鏡だらけで、地方の遊園地に残っているミラーハウスよりも過剰に鏡が配置されていた。壁と天井、そして床にまで鏡が貼られ、畳くらいの大きさで特注サイズの分厚い姿見がドアから部屋の真ん中の歩くスペースを除いて大量に並べられている。
部屋の奥に窓はあるけれど、姿見が邪魔をして採光の役目を果たしていない。
「入って」無限に広がる異空間の中へ招かれた。「この部屋にはね、本当の亜里沙がいるんだよ」向かい合った鏡の奥行きごとに、小さく映しだされている無数の自分の姿を見て 亜里沙ちゃんが微笑む。
私はいろんな角度から映りこむ自分の姿を見ているだけで、平行感覚が麻痺してしまいそうになった。
「これから話すことを最後まで聞いてくれる?」
鏡に映った亜里沙ちゃんの分身が、いっせいに私を見詰める。
「う……ん」
大勢の亜里沙ちゃんたちを相手にして、私はクラッと眩暈がした。
「亜里沙はね、悩み事があるといつもここでお願いをするの」
「ど、どんなお願い?」
「ミキお姉ちゃんを窓から落とそうとしたとき、ピアノの蓋で指を挟んだとき、それからジュンお姉ちゃんを階段から突き落としたとき、この部屋で“イケナイことをしちゃった。許してください”とお願いすると鏡の中の亜里沙が“許してあげる”と言ってくれるの」
亜里沙ちゃんは私の弱点でもある繊細な精神に石を投げて、簡単にパリンと音を立てて割ってしまった。
あのとき……窓から落とそうとしたんだ……しかもイケナイことをしたという自覚があるのに鏡の中の自分に責任を押し付けている。
どうしても確認したいことがあった。
それは、悪夢を見る理由。
「亜里沙ちゃん、私ね、二回悪夢を見たんだ。それもあなたが羊さんに命令してやったことなの?」
「えっ、悪夢?なんのこと?」亜里沙ちゃんは眉を八の字にさせたあと「もしかして……」と片目だけを吊り上げた。
視線の先には羊さん。まだ首を絞めているけれど、純子の足の爪先が床につく程度に若干力を緩めている。
「わたくしがやりました。薬を飲ませました。でも一回だけですよ」
羊さんは舌が噛みそうになるくらいの早口で答えた。
「一回?私が柳沼家に最初にきたときと三回目の訪問のとき……つまり紅茶を出されて飲んだ帰りに悪夢を見たから薬を入れたんじゃないかと疑ってたんだけど」
私は羊さんの困った顔を見逃さず、ここぞとばかりに畳み掛けた。
「どうしてそんな勝手なことをするの?」
亜里沙ちゃんが目を見開いて羊さんに尋ねる。
私は内心微笑んだ。亜里沙ちゃんは自分の知らないところで羊さんが勝手に動くことを許してはいない。二人の仲を引き裂けば、この窮地から逃げるチャンスが生まれてくる。
「薬を飲ませたのは一度だけです。初対面のときにいきなり薬を飲ませるなんて意味のないことはしてません。ミキさんは嘘をついてます」
「回数を聞いてるんじゃないの!」
亜里沙ちゃんが癇癪を起こす。
「す、すいません」
羊さんが咄嗟に頭を下げた。
「どうしてミキお姉ちゃんに薬を飲ませたの?」
亜里沙ちゃんが低い声で尋ねる。
「根性のないミキさんが来なくなるのは時間の問題だと感じていたので……それに比べて純子さんのほうが頼りがいのあるお嬢様だと……」
「それで私に悪夢を見させて追い払おうとしたの?それだけの理由で薬を飲ませたの?」
羊さんの言い分を聞いた私は怒りが爆発しそうになった。
「亜里沙はミキお姉ちゃんにもジュンお姉ちゃんにも嫌われたくないし、別にお姉ちゃんが二人に増えてもかまわないんだけど」
亜里沙ちゃんが不貞腐れ気味に羊さんに注文をつける。
「なに言ってるの?あなただって私や純子にケガさせて……あんなことされて二度と会いたくないと思うのは当然じゃない!」
私は感情を抑えることができなかった。
「なぜ怒るの?」
亜里沙ちゃんは初めてご主人様に叱られた従順な飼い犬のように目を白黒させる。
私たちを鏡に映った“像”と同じように血が通った感情のある生き物だということをわかっていない。
「突然怒るからこの部屋を見せてあげた目的を忘れるところだった。ねぇ、ミキお姉ちゃん。この娘がお話しするから聞いてあげて」と言って亜里沙ちゃんは斜め左の一枚の姿見を指さす。
「昔々亜里沙には双子の唖璃子という妹がいました。ほんの数分生まれるのが遅かっただけなのに、お母さんは妹をかわいがりました。まず先に唖璃子にほしいものを聞き、私には“同じものでいいわよね?”と面倒くさそうに尋ねてきました。“どうして?”とお母さんに不満をもらすと“あなたはお姉さんでしょ”とうんざりした顔をして答えます」
喋り方が子供とは思えないほど理知的で、聞いていると鏡に映った亜里沙ちゃんが別人のような錯覚を起こす。
「唖璃子と違うものを手に入れたのは染めてパーマをかけた髪の毛。それは遠くからでも二人を見分けるため。面倒な役目はいつも亜里沙のほうです。ある日、妹の部屋で一冊の本を見つけました。題名は『鏡の国のアリス』で、亜里沙は嫉妬しました。唖璃子にだけ本を買ってあげていたのです。しかもその本を唖璃子は読んでなくて大事にもしていなかったのです。唖璃子なんかいなくなれ!と鏡の部屋でよくお祈りをしていました。唖璃子と鏡の部屋でかくれんぼして遊んでいたとき、地震が起こりました。一枚だけ鏡が倒れて割れると唖璃子が“キャッ”と短い悲鳴を上げました。亜里沙は“いましかない!”と次から次へと唖璃子に向かって鏡を叩きつけるように倒しました。下敷きになった唖璃子はピクリとも動かなくなりました」
亜里沙ちゃんの告白を聞いていた私は体の芯から震えた。
「物音に気づいたお父さんがやってきて“終ったことはしょうがない。あの世でも双子のままにしてあげよう”と言って割れた鏡で唖璃子の体を縦に半分に切りました。お母さんは悲しみました。そして唖璃子の血のついた鏡をきれい拭いてからどこかへ譲ってしまいました。悲しい記憶を忘れるためだったと思います。お父さんは目を離したお前の責任だとお母さんを責めました。お母さんは鏡の部屋で首を吊って自殺しました。鏡の部屋は自分の顔を見るのがとても好きなお母さんがお父さんに頼んで作ってもらったお部屋です。それからお父さんは亜里沙の言うことをなんでも聞いてくれました。ピアノも私だけに買ってくれました。でも、忙しくて家にあまり帰ってきません。亜里沙はお姉ちゃんがほしくなりました」
言い終わったあと亜里沙ちゃんに微笑みをぶつけられ、私の心臓は凍死寸前。
亜里沙ちゃんの言ったことが事実かどうかなんてわからない。自分がこの世で一番不幸なんだとアピールするための嘘かもしれない。
柳沼家にこれ以上関わるのはあまりにも危険すぎる。
いまの状況から抜け出すにはなにが必要だろうと私は頭をフル回転させた。羊さんが私に薬を飲ませたことで亜里沙ちゃんの怒りは蓄積されているはず。さらに油を注げば思いがけないことが起こるかもしれない。
でも、薬以外のことで羊さんが亜里沙ちゃんに黙っている隠し事なんて私が知るわけがないし……。
あっ!
私はポケットに手を突っ込んだ。そのときの感触は神様と握手しているみたいで、怯えて冷えきっていた私の手を温めさせる力があった。
「これ、返します」
後方でいまだに純子の首をブロックしている羊さんに向かって、私は七枚の茶封筒の束を差し出す。お金を手放すのにこんなに良い気分になれることは二度とないだろう。
羊さんの顔色が変わった。
「なにそれ?」
亜里沙ちゃんが目に傲慢さを満たせて訊く。
「え、いえ、あの……それは」
羊さんは口ごもると純子の首に巻いていた腕を脱力させた。
純子がズルズルと床に崩れ落ちて「げほっ、げほっ」と苦しそうに咳き込む。それでもチラリと視線を投げてきて意識がしっかりしていることを伝えてくれた。
純子から勇気をもらった気がした。
「この中はお金よ!会う度にお小遣いをもらってお姉ちゃんになってあげてたの!!」
私は羊さんを睨んで、わざと腹を立てたような振る舞いで言ってやった。亜里沙ちゃんの次のリアクションで私たちの運命が決まる。
「お金を渡してたの?」
亜里沙ちゃんは目を細くして片側の頬の筋肉を歪めるという嫌悪感を滲み出した。
焚きつけた願いは成就しつつあった。
「す、すいません」
羊さんは深々と頭を下げる。その行動で仕出かした事の重大さが伝わる。
「亜里沙はお金で愛情が買えないことくらい知ってるよ。お金でなんとかしようとする人は信用できないな。新しいお母さんたちはみんなお金目的でお父さんに近づいてくるんだもん」
亜里沙ちゃんの口調に子供っぽさが戻った。しかし、その変貌ぶりが逆に恐ろしかった。
「わたくしは、お金が目的で……」
「みんな同じこと言う……新しくきたお母さんはみんな……」
亜里沙ちゃんは地団駄を踏んで怒りをためる。
「わたくしは違います」
「信用できない。お父さんに言いつけてやる!言いつけてやる!言いつけてやる!言いつけやる!言いつけてやる!……」
亜里沙ちゃんは「言いつけてやる!」と言うごとに、鏡の床を踵で打ち鳴らす。その姿はまるでショートした産業用ロボット。
ドン、ドンという音が激しさを増すとピキッと雷のような亀裂が鏡に走り、亜里沙ちゃんの白い靴下が赤く染まった。
「亜里沙ちゃん」と言って羊さんが走り寄ると亜里沙ちゃんが「触らないで!」と拒み、大きな姿見の間を器用にすり抜けて窓辺に逃げていく。
「手当てしましょう」
羊さんはすぐに追いつき、亜里沙ちゃんの肩の上にそっと手のひらをのせた。
「ご、ごめんなさい」
涙声で謝ったのは意外にも亜里沙ちゃんだった。
「いいのよ」
羊さんが亜里沙ちゃんの頭を優しく撫でた。二人の行動は芝居がかった演技にしか見えない。二人の絆を私に見せつけようとする感じさえする。
「亜里沙ちゃん、やっぱり二人もお姉ちゃんはいらないんじゃない?」
羊さんが湾曲させた酷たらしい目を私に向けながら、亜里沙ちゃんに訊く。
「そうだね」と、亜里沙ちゃんがあっさり出した答えを聞いた羊さんは頷いて言った。「だったらどちらかを早く始末しましょう」
始末?……聞き間違いであってほしいと願った。
羊さんの表情に浮かぶのは勝ち誇った笑みと嫉妬。そして、右手にはキラリと光る果物ナイフ……私には絶望的な宣告を受けたに等しかった。
「ミキどけて!」
純子が私を払い除け、鏡に肩からぶつかって体当たりした。スローモーションのように時を刻み、姿見が将棋倒しになって折り重なる。
ドン!!ドン!!ドン!!ドン!!ドン!!と重量のある姿見がぶつかり合う鈍い音と、鏡が割れるすさまじい音が交差する。
姿見は引力に引っ張られるみたいに、亜里沙ちゃんと羊さんに向かっていく。
悲鳴が聞こえた気がしたけれどすぐにかき消され、最後に倒れた鏡に押された二人は窓ガラスとともに外へ放り出された。
★
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数分前の轟音が嘘のように鏡の部屋には静寂が満ちていた。まるでさっきまでの出来事が嘘のようだった。
時々落ちる鏡の破片がしなやかな雨音に聞こえ、私を現実世界へと引き戻してくれた。
「純子……」
純子の思い切った行動を責めるつもりなどなかった。間違いなく私のほうが殺される確率は高かったはず。
「わ、私……大変なことしちゃった……」
純子はカタカタ体を震わせ、両手をクロスさせると自分の肩を抱いた。
雪山の遭難者と化した純子に私がしてやれることは、抱き締めて人間の体温を感じさせてあげること。
助けに来たつもりなのに、結局は純子に罪を背負わせてしまった気がしてならない。
「ありがとう、ジュン」
私は背後から純子ではなく、ジュンを力一杯抱き締めた。