九、亀裂
「ねぇ、見て。裏庭に猫がいるよ」
「うん」
窓から外を見ると、黒猫が芝生の上でゴロンと一回転しながらの日光浴。愉快で長閑な風景だけれど、私の気持ちは裏腹。亜里沙ちゃんのひと言で切られてしまったポプラ並木。切り株の年輪模様が目玉に見えた。ギロッと監視されているようで気味が悪い。
「どうしたの?」
亜里沙ちゃんが心配してくれた。
「なんでもないよ」と言う私の顔は強張る。昨日、亜里沙ちゃんに押された恐怖心は簡単には抜けない。
死んだお母さんの悲しさから学校を休んでいるとはいえ、亜里沙ちゃんから友達の“と”の字も聞いたことがない。学校のことを話してくれるまで待とうというスタンスできたけれど、このまま閉塞された環境で亜里沙ちゃんを野放しにしといていいとは思えない。
「ピアノでも弾こうかな」
亜里沙ちゃんが例のごとく鍵盤に指を走らせる。
『猫ふんじゃった』は耳にタコが出来るくらい聴かされたけれど、頭を揺らし、リズムを取る仕種をして亜里沙ちゃんと同調している振りをする。
突然、亜里沙ちゃんがため息をついて演奏をやめた。
「どうしたの?」
私は亜里沙ちゃんに尋ねた。
「飽きちゃった……」
亜里沙ちゃんの突然の宣言。
私の経験から習い事や興味を持ちはじめたものに一度飽きてしまうと、どんなことでも長続きしなくなってしまう。
きっと同じ曲ばかり弾いてるから飽きちゃったんだ。
「お姉ちゃんが新しい曲を教えてあげる」
私は亜里沙ちゃんの後ろから両手を回して、鍵盤の上に指をのせた。
唯一弾くことができる『エリーゼのために』をレパートリーとして加えてあげようとしたそのとき、バン!とピアノの鍵盤蓋が勢いよく閉じた。
「痛ぃ~」
私は十本全部の指を失った感覚に捕らわれた。じんじんと脳に響いてくる痛みの連打。赤く腫れた指を庇い、身を屈める。
「ピアノに触るからよ。それに飽きたのはピアノじゃなく、ア・ナ・タ」
亜里沙ちゃんのひと言は痛みをどこかへ吹き飛ばすほど衝撃的で、聞き間違いだと思いたかった。
「な、なんて、言ったの?」
私は怖々訊き返す。
「聞こえなかった?」
ピアノの方を見ていた亜里沙ちゃんがクルッと振り向いた顔には、子供らしからぬふてぶてしさが染み出ていた。子供がどうしてそんな顔ができるの?というぐらい、細くした目から見下す目線、片側だけ吊り上げた唇から「チッ」と鳴らした舌打ちは惨く響いた。
私は怖くなって亜里沙ちゃんの部屋を飛び出した。
玄関から出るときに羊さんの声が聞こえたような気がしたけれど無視をした。
羊さんに真実を話したところで信用が勝ち取れる保障はない。亜里沙ちゃんが「いじめられた」などの嘘をつけば、私の方が犯罪者扱いされる可能性がある。
小遣い稼ぎなんかするんじゃなかった。
不安定ながらもブランコの台座にとどまっていたガラスコップがひっくり返り、私の心を後悔でびしょびしょにした。