プロローグ
その日、外は朝から雨だった。
予報だと降水確率九十パーセント。
前日の夜から雨が降っていたから、皆傘を差している。
通勤中の人たちは歩く方向が一緒。
地下へと伸びる階段で傘を閉じ、水滴を振り落とす通勤客が目立つ。
私も皆と同じく傘を振った。
「お母さん、冷たい!」
手を引いていた娘が膝上辺りからカワイらしく叫ぶ。
「ごめん」
ペロッと舌を出して娘に謝った。
ちょっと焦っていて、娘のことを一瞬だけ忘れてしまっていた自分に反省。
朝ごはんを食べさせ、弁当を作り、地下鉄に揺られること十六分後に娘を預ける幼稚園の最寄り駅に到着。
駅から目と鼻の先に幼稚園があり、それから勤め先の病院までタクシーで直行するのが朝の日課。
今日は普段より十分遅れ。
娘のストロベリー柄のレインコートを探すのに手間取り、成長してピチピチになった長靴を履かせるのにも時間がかかった。
「ねぇ、きつい?」
「ううん、大丈夫」
レインコートとお揃いのストロベリー柄の長靴を手放したくなかったのかもしれないけど、きつくなった長靴に文句を言わない娘がどこか誇らしい。
家での出来事を思い浮かべていると、娘が階段を踏み外した。
私は痛がらない程度に腕を引っ張り、娘が転びそうになるのを助けた。
原因はレインコートのフードが顔一面を覆っていたためで、私はフードを背中まで戻して視界を開放してあげた。
見上げる笑顔には“ありがとう!”という感謝がこもっている。
地下鉄駅は大理石に模したパネルの床が、傘から垂れ落ちる雫と靴底に含んでいた水滴の影響でいつもより光沢を放っていた。
改札口には行列。
『まもなく○△方面の電車が発車します……』
プラットホームから聞きたくなかったアナウンスが流れてくる。
スムーズに流れない行列に苛立ちを感じながら改札口を抜け、プラットホームへ。
階段を下りきったところで、違和感が生じた。
“あるはずのないものがあるような”気がしたのだ。
そんな掴みどころのない違和感のことを考えていると、乗るはずだった地下鉄が発車してしまった。
しょうがないか……と、自分を慰め、七分後に到着する地下鉄を待つ。
エステや高級マンションなどの広告が並ぶ対向式のプラットホームは、改札口に並んでいた乗客のほとんどが駆け込み乗車に成功して人数が少ない。
私は娘の手を握ったまま等間隔に並ぶ支柱に寄りかかった。
心が休まるのは今くらいしかないかなと、自虐的になりながら瞼を閉じた。
病院にいけば集中力を切らすことが許されない仕事が待っている。
そうだ!娘と同じ年の悠斗君に絵本を読んであげる約束をしてたんだ。
結局、仕事のことを考えてしまった自分に見切りをつけ、私はゆっくり瞼を開けた。
そろそろ電車が来る頃。
私は腕時計で時間を確認するため、何気なく左腕を持ち上げた。
あれっ?
握っていなければいけない娘の手がなかった。
寄りかかっていた支柱の周りにも娘はいない。
娘の姿を目で捜す。
『まもなく1番ホームに○△行きの電車が到着します。白線の内側までお下がりください』というアナウンスが私をうろたえさせる。
「あっ……」
愕然とした。
まるで細いロープを渡るみたいに両手を広げて、点字ブロックより外側の白線の上を娘がフラフラ歩いている。
「あぶないからやめなさい!」
叫びに近い声を張り上げたが、またフードを頭にかぶり、周りとの接触を拒んでいる娘の耳には届かない。
昨日、娘はテレビで海外のサーカスを見ていた。
ひょっとすると目隠しして、曲芸を披露するピエロにでもなったつもりでいるのかもしれない。
「お願いだからやめて!」
再び叫び、周りの人にも気づいてもらおうと託した。
しかし、娘の周囲にいたのは若い男子学生が一人。
耳にヘッドホンをして、視線をマンガ雑誌に集中させている。
周りの助けは当てにできず、私は娘との距離を詰めた。
パァ~ンと警笛を鳴らし、アルミ合金製の車体がホーム内に入ってきたことを告げる。
「そんな……」
警笛と同時に私の不安は絶望へと変わった。
娘が足を滑らせた。
きっと雨のせいで、白線の床材部分が濡れていたに違いない。
あぁ~なんてことなの……。
娘の体が大きく傾き、プラットホームから落ちそうになる。
スローモーションのようにゆっくりとした動きに見えたのに、私は娘に追いつくことができない。
腕を精一杯伸ばした。が、娘に触れるにはあまりにも距離が足らなかった。






