観察3
【8月1日(金) 1】
「モノクロ写真が何を表すためのものなのか、あなたにはわかりますか」
終電の京浜東北線を降りて、自宅のある最寄り駅・大井町の東口改札を出たところで、僕は声をかけられた。
周りには帰宅を急ぐ多くの人が居たけれど、その声が僕に投げかけられたものであると、なぜだかすぐに分かった。実際、僕以外にその声に反応する者は一人もいなかった。
営業時間を終えてもなお煌々と輝く駅ビルと目の前の巨大商業ビルの灯り。そこから続く商店街の夜の飲食店が織り成す下卑たネオン。
それらを全て避けるようにして、僕に声をかけた男は暗闇に落ちたガードレールに腰掛けていた。
「……どちら様ですか?」
僕は迷ってから、そう口にした。
ただの変な人かもしれない。酔っ払いかもしれない。
でも僕は、この人はきっとそういう類の人ではないと経験的に分かっていた。
僕は、自分が先ほどまで居た神楽坂の事務所に居るであろう自分の師匠のことを思った。生まれた命を始めさせ、死んだ命を終わらせる観察者。
暗がりから身を現した男は僕とそう年齢が変わらないか低いくらいだと思ったが、背が高く筋肉が締まっていたので僕よりもはるかにしっかりとして見えた。シュッとした顔は爬虫類を思わせた。
パリッと糊の利いたシャツとズボン、清潔感のある身なり。常識的に整えられているヘアスタイル。
しかしそれらが、夜中に見知らぬ僕に声をかけてくるという見た目と反する奇妙さと相まって、余計に不気味さを演出していた。
男はまるで軍隊仕込のそれであるかのようなキビキビとした動きで僕の目の前に立つと、喜怒哀楽のどれでもない瞳のまま口を開いた。
「ついてきてください」
僕の返事など得るつもりもないらしく、すっと無駄のない動きで背を向けた。
僕は仕方なくそれを追いかける。
人気のないりんかい線の上り方面の脇の小路を歩いた。安い小さな飲み屋街の裏手口に当たるここは、夏のまとわり付くような熱気とはまた別の熱風を絶えず排出していて非常に不快だった。
目的地までのショートカット効率を重視しているにしたって、こんな場所を通らなくたっていいのに。汚い場所にいると自分の人間らしさが失われていく気がする。
でも、男はそんなことなんでもないように進んでいく。彼の背が離れていく速度はまるで軍隊の行進のそれだった。
砂利の敷かれた駐車場に到着した時も彼は涼しい顔をしていた。
駐車場に停まっていた車は一台だけで、その車が彼のものであることは想像に難くなかった。
「この写真を見てください」
彼が示したのは、飲食店の壁の脇に貼られた二枚のA6版のポスターだった。
街灯が近くにないので何が写っているかはよく分からないが、無名写真家かアマチュア集団か何かの写真展の広告だろう。この残念な掲示場所にお情けで貼らせてもらっているのは良くわかった。その飲食店の従業員すらも目に留めないであろう、貼った本人たちですら存在を忘れそうな惨めな場所。靴の裏とほぼ同義にすら思える。
僕が暗闇に瞳を慣らそうと目を凝らしていると、突然背後からぱっと強い光に照らされた。
男が自身の車のエンジンをかけてヘッドライトをつけたのだと分かった。
僕は光に驚くよりも、目の前の二枚のポスターの写真に緊張を覚えた。
二つのポスターの写真はそれぞれ同じものを写していたが、片方はカラー、片方はモノクロだった。
「耳?」
僕は自然とそう口にしていた。写真は両方とも耳をアップで撮影したものだった。少し華奢な印象を覚えたのでもしかしたら女性の耳なのかもしれない。
最大まで近寄って撮影したのか、それとも最大まで写真を引き伸ばしたのか。ポスターにはめいっぱい耳が写っていた。
「カラーの方を見てください。出来るだけ近づいて」
そう言って男が僕の背を軽く手で押してくる。
たかが耳の写真を近くて見るくらい、なんてことはない。なんてことはないはずなのに。僕の体は強張りを見せ、数歩近づいたところで止まってしまった。
「どうしました。それ以上近くで見られないのですか」
男は僕がそうなることを予見していたかのように、形式張った尋ね方をしてくる。
「では、もう一つのモノクロの方で構いません。近づいてご覧になってください」
そう言われて僕は、少し隣に貼られたモノクロ写真の耳のポスターに近づいた。
敬語で丁寧に喋られているはずなのに男の言葉には不思議と強制力があって、それに対して「どうして?」だとか尋ねたら、逆にこちらが非常識な人間だと思われるような気さえした。
カラーの写真に近づく時に比べたらなんら抵抗なく、モノクロ写真の前に立つことが出来た。僕は言われるがままに、グレースケールの耳と見詰め合った。まるでそれとお見合いをさせられているかのように、馬鹿らしいまでに畏まって。
「モノクロ写真とカラー写真の違いが、分かりますか」
男は改めて僕にそう尋ねる。
僕が何も答えられないでいると、男は言葉を続けた。
「本来『耳』というものはこんなに肉薄されることはありません。距離を持って接されるものです。距離とは対象と主体の関係を表し、同時にそれ自身の価値を表します」
人生においてこんなに「耳」について哲学させられることは、今後もきっとないだろうと僕は思う。僕は自分の顔の両脇についているそれが、今話題に上がっているそれと同じものだとは感じられなかった。どこか他人事のように男の話を聞いていた。
「モノクロ写真は『本質』を浮かび上がらせます。色を失うことにより、リアル(現実的)ではなくなった。しかし、逆に色を失ったことによりそれ以上のリアル(本質)を我々に示します」
男の言うことは分からなくもない。僕はここしばらくの期間で随分と非現実的なことに関わり、理解を深めてきたつもりだ。この男の話している内容はそんな非現実的な事柄の中では随分と筋が通って現実的で、いわゆるそのリアルさ(現実味)とやらを帯びていた。
「耳はただのたんぱく質、アミノ酸の結合物。本来、なんら緊張する必要のないものなのです。耳は何も秘めていない、社会的・民族的意味もない、耳が私たちを襲ってくることもない」
耳が僕を襲ってくる図を想像したらかなり滑稽だったが、きっとこの男にそんな話をしても冗談は通じないだろうと思った。僕が写真を見ている間、男は表情一つ変えず喋り続けていた。
僕はモノクロ写真でくっきりと浮かび上がった耳のラインを見つめた。確かに、なんでもない、奇妙な曲線が聴覚器の形を描いているだけ。
それでもカラー写真にちらりと目を戻した時、なんともいえぬ緊張感と、直視するのがためらわれる気持ちに襲われる。
「まだ緊張されていますね。これだけ言ってもなぜあなたは耳の写真に対し強張ってしまうのです」
疑問文を発しているはずなのに、男に問うような空気は一切ない。咎められているような気がするだけだった。
僕はこの男の放つ圧力で理不尽なまでに言い訳がましさを帯びる理由を口にした。
「そんなこと分かっていたって、緊張するよ。これが誰のものなのか知らないけれど、誰かしらの“人”の耳だから。例えそれがただのゆるやかな原子のまとまりだと分かっていたって、異性の裸を見て平然としていられないことと同じさ。だって、僕は人間だから」
「人間だから、ですか」
僕からやっとその言葉を引き出した、といわんばかりにたっぷりと溜め、男はそう、舌で味わうように口にした。見た目に合った上品な口調のはずなのに、僕にはそれがどうしようもなく彼に不似合いなものに思えた。
最初に見た時から思っていた。この男はどこか普通の人とずれているのだ。真ん中で横にヒビの入った鏡みたいに、姿を映す人物の上半身と下半身が正確に接合できていない。
そしてそのズレを肯定するように、ヒビの入った鏡で身だしなみを整えるように、彼はこう言った。
「どうしてあなたはご自分が人間だと思われるのでしょうか」
眉をひそめる僕に、男は笑った。ような気がした。
「あなたに申し上げ忘れていたことがあります。私はロボットなのです」
実際、男は笑ってなど居なかった。仮面のように変わらない表情のままだった。
それでも僕は、そう感じたのだ。
【ある観察者の語り 1】
今の話を聞いて信じるんですか、だと?
信じるも何も、その自称ロボットは自分をロボットだと言ったのだろう。だとしたらそれを疑い、否定する理由がどこにある。
あまりに非現実的、か。
君がロボットに対してどんなオーソドックスでクラシックでオールドファッションなイメージを持っているのか知らないが、そもそもロボットと人間は何が違う?
心臓の有無? ペースメーカーによって動いている心臓だってある。それに心臓がなくとも、定期的に血液を作り出し清めることが出来れば、酸素を体中にめぐらすことが出来るのなら、心臓という形式に固執しなくたって構わないはずだ。
肉体が温かいか否か? 人の体が絶えず一定の熱を持っているのは、身体の中でエネルギーの生産・消費・排出という代謝を繰り返すからだ。人工的に臓器を作り、血液を作り、“そういう風”に働くようつなぎ合せてやれば、そのような発熱体にすることは難くない。
脳の有無? 君はそもそも脳はなんだと思っている? 以前にも言ったが、脳は物を考えたり、ましてや判断したりする場所ではない。
受容器から信号を受信し、決まった反応をするよう各所に指示を送る。そう、まさに“機械”だ。目にゴミが入った、涙を流そう。面白いことがある、笑おう。あちらに何か楽しそうなものが見える、足を動かして近づいてみよう。
ネズミ捕りのエサに哀れな小動物がかかり、バネが落ちるのと同じ。脳の果たす役割はCPUと何ら変わりがない。入力された記号に反応を出力する。リーダーの上げた手旗と同じ色の手旗が上げられる。
ん? それでも「人間」である僕には“自分の意思”があります、と?
“自分の意思”ね……。
では、そこに置いてあるペンを取り私に渡してみなさい。“自分の意思”とやらで。
……ふむ、確かに受け取った。
では、尋ねる。なぜ君は今、右手でそのペンを取った?
なんとなく? 私は、君の言う“自分の意思”とやらで行動しなさいと言ったはずだ。
利き手だったからとっさに右手が出たんじゃないかって?
ふうん。それは君が、君の意思で行動したとは言い難いのではないか? 利き手、要するによく使う手、動かしやすい手を脳が勝手に優先的にセレクトし、君の判断が入る間もなく動いたのではないか? まるでオートメーションのように。
実に理に適った判断。君にはその合理性に逆らうということも出来たはずだ。なぜそれをしなかった? その意思を選んだ理由は?
もし逆に君が左手でそれを取っていたとしたら、君はなんと理由を述べていただろうか?
たまには利き手でないほうで取ってみたかったのだ、とでも言うのだろうか。
たまには、という確率論的表現は君のいう“自分の意思”の範囲内なのだろうか?
教えておこう、私の弟子よ。
自分でどうこう決められる意思など、我々の中には存在していないのだよ。
どこまでいっても最終的には「なんとなく」という説明の付かない行動原理から逃れることが出来ない。
それはまるでCPUの行うAt randomのように。
【8月1日(金) 2】
僕は自称ロボットの運転する車に乗せられて、横浜方面へ向かった。どこに行くのかなど一言も説明されなかったが、景色の先にベイブリッジが小さく見えてきたので、そちらの方向に向かっていることが分かった。
僕に断る権利などあるわけがなかった。断るどころか、同意する権利さえも与えられていなかった。
日付が変わったばかりの首都高は空いていて、窓を開け放ったらそのまま僕らが飛んでいってしまいそうなくらいの速度が出ていた。
自称ロボットの運転は荒っぽいということはなかったけれど、何を考えているのかが分からなくて僕は何度かひやりとした。表情らしい表情も浮かべず、突然何も言わぬまま平然と、直線の道でハンドルを大きく切ったって不思議じゃない男だ。
「私の製造者は、ある観察者によって生きたまま誤って存在を終わらせられてしまったのです。観察者のお弟子さんなら、存在の開始と終了についてお分かりになりますよね」
カーエアコンが冷たい空気を吐き出す音がやけにはっきり聞こえたような気がした。
僕は浅くうなずいた。
彼はやはり、僕を観察者の弟子と知って接触してきていたのだ。
「ある方が、終えられてしまった私の製造者の存在を再び始めて下さると言いました。観察者の中に『顔の見えない観察者(The invisible face watcher)』と呼ばれる方が二人いらっしゃいますが、そのうちの醜くない方の観察者様です」
僕は彼の言葉にピクリと反応した。
「その世界に身を置かれるあなたならその通り名をご存知でしょう。『顔の見えない観察者』のうち一人は、師であった女のゆがんだ感情により顔を焼かれ、その己の師を手にかけたそうです」
彼の探るような言葉にも、僕はただ道の先を見据えてみせるのみだった。彼はたっぷり溜めてから言葉を続けた。
「そしてもう一人の観察者様は、自分の師のためにその身を張って顔に怪我を負われたそうです」
僕は何の反応も示さぬよう努めていたが、正直なところどんな反応をしたらいいかも分からなかった。
普通はきっと、自分の師匠を愚弄されたことを怒るべきなのだろう。でも僕は薄情者なのか冷めているのか、不思議とそういう激情はわいて来なかった。師匠たちの過去のことは、師匠自身と、そして師匠の師匠が分かっていればそれだけで十分なことだと思えていたからかもしれない。
男は改めて口を開いた。
「観察者のお弟子さん。あなたがもし私のように大切な恩人を奪われたら、それを取り返そうと必死になりますか。あなたがもし、あなたの師匠を傷つけられたとしたら、その師のためその身を張って守りたいですか」
男と僕は平行線のような視線を前に向けたままだった。そして男はいよいよ本当に僕に言いたかったことを口にした。
「あなたは自分の師匠が殺されたなら、復讐し仇をとろうと思いますか」
【ある観察者の語り 2】
私が師匠を手にかけた、か。フフ。
一つの不変なインシデント(出来事)に対し、複数の主観が各々にとっての事実を切り出し意味を与える。その多面体が事象となる。認知の対象になるのはその多面体であり、その出来事自体は認知の対象になることが出来ない。コミュニティとはそういうものだ。
そんな顔をしてくれなくたっていい。我々だって知らぬ間に多くの物事を勝手に解釈しているし、勝手に解釈をしていることにすら気づけていない者だっている。
そもそも、勝手な解釈を与えなければ物事を把握し理解することが出来ないのだよ。
まあ、何者かが恣意的に局所の情報を歪曲させている可能性もあるとはいえ、末端でさえ私はそのように思われているんだ。他所では一体どんな風に言われているのか。くく。
我が弟子よ、我々は何一つとして正確に伝える手段を持たない。
“水(A water)”を示せと言われて「瓶に入った水」を見せれば、「瓶に入っているものが水」となるし、「川」を見せれば「流れるものが水」となってしまう。
こんな単純なことさえ伝え合うことが出来ない我々が、すれ違いや誤解などを悲しむというのはおかしなことだ。理解しあえていると思うこと自体が、誤解なのだよ。
我々の今生きるは、老荘思想で言うところの胡蝶の夢なのかもしれない。
あるいはシェイクスピアの書いた「真夏の夜の夢」かもしれない。目を閉じたら茶目っ気のある妖精たちが瞼に薬を塗り直してくれて、目が覚めたら全てが円満に上手く行くかもしれない。
仏教において目覚めることは解脱することだが、それは我々の次元で簡潔に言ってしまえば死ぬことだ。
しかし、本当に大切なのは目覚めることではない。我々は悟りを目指しているわけではないのだから。
夢が夢だと分かっていたなら、君は夢の中でどんなに理不尽な目に遭っても、不幸な出来事に見舞われても、それがどうして起きたのかなんて気に病まないし、どうにかしようと苦しむこともない。
我々に必要なのはそれだ。
今我々の生きるここが夢だと理解することだ。
【8月1日(金) 3】
とある作家が魂の時間と呼んだ時刻に差し掛かる頃、僕らは首都高最大規模のパーキングエリア・大黒PAの駐車場に居た。
車から降りる。
施設の周りにはちらほらと車の姿が見受けられたが、広い駐車場の端には僕らが乗ってきた車と僕たち二人の姿しかなかった。
夏のぬるい風に乗って、生臭い都会の夜の海の香りがした。湿気を大いにはらんで、汗ばんだ肌にまとわりつく空気。どうしようもなく退廃的な気持ちにさせられた。
空を見上げると明るい灰色だった。真夜中なんだか天気の悪い昼間なんだか分からなかった。
「私は非常に精密で、精巧なロボットです」
車のエンジンを切った男は、静かに僕にそう言った。僕は反射的に、わずかに身構えた。
男のその態度は、ここまでで僕らのドライブが終わりであることを暗に告げていた。この中継点こそが彼の目的地だったのだろうか。
「私を作った製造者は、身体を構成する機械が壊れるといけないから手荒なことはしてはいけないと言いました」
しかし、と彼は逆接の接続詞を口にする。
「製造者のためならば私は、自分の身を厭いません。師のため顔に怪我を負った観察者様、あの方と同じように」
自称ロボットは、その人間そっくりの一対の瞳で僕を見つめていた。
僕は随分と奇怪なことに慣れてきたけれど、自分に危害を加えようとする者の出すこの独特の雰囲気は相変わらず苦手だった。
こんな空気には慣れてはいけないのだ。僕は生きている人間だから。
「『なぜ人は人を殺してはいけないか』。古くはホッブズのリヴァイアサンでこう説かれています。人が各々の利益を追求していけば殺し合いになり、発展どころではなくなる。だから集団は“人は人を殺してはいけない”というコモンウェルス(共通善)を人々の根底に浸透させました。自己を守るためでもあり、発展を保障するためでもあります」
ですが、と彼は再び逆接の接続詞を口にする。倒置をしながら喋るのは彼なりの言葉のダイナミズムの表現なのかもしれない。
そんな修辞を使わなくたって、僕には彼がこの先に言いたいこと、したいことが手に取るように分かっていた。今すぐに背を向けて出来るだけ遠くに駆け出したかったけれど、軍用犬のような目をしたこの男に背を向けることなど僕には出来ない。
「ですが……私はロボットです。人を殺すことで責められるいわれはありません。非道徳的だとなじられることもありません。どんな法も私を罰することは出来ません」
彼は一歩、僕の方に足を踏み出してきた。
僕は後ずさる。どう見ても人間にしか見えない彼。ロボットだかなんだか知らないが、そんなことを抜きにしても、組み合いになって勝てる相手ではなさそうだった。
僕は唾を飲んだ。
「掛け違えたボタンを無視して先を進めれば、最後には絶望しか残りません。泣いて諦めるか、最初からやり直すか、それしかありません」
男は尻ポケットからバタフライナイフを取り出すと、慎重な動作で刃を固定した。
僕はいつだってこうやって、非現実的な方法で現実的においつめられる。
「私はやり直します。あなたを殺し、あの方に私の製造者の存在を再開させてもらうのです」
僕が駄目元で、背を向けて全力で走り出そうとした時だった。
「機械の心と身体を持つ者よ。ならば私がロボットの君を殺めたとしても、なんの罪の意識にとらわれる必要もないな?」
いつも僕に語りかけるあの声が、まさかの位置から聞こえてきた。
真夏だというのにいつものロングコートをなびかせ、中折れ帽を目深にかぶった大男。紛れもない、この人は。
「師匠……! どうしてここに」
師匠は僕らが全く気づかぬうちに、僕たちが対峙する間に入り込んでいた。僕がまばたきした一瞬でそこに姿を現していた。それはまるで時間が一時停止されている間に追加され、何事もなかったかのように動き出したように自然かつ、反則的なまでに気配がなかった。
「現れましたね」
自称ロボットの男はナイフを一振りして空気を斬った。
【ある観察者の語り 3】
たった1メートル、いや、10センチの高さから落としたとしたって、人に致命傷を与えることは出来る。
錯覚を起こさせたらいいんだ。
そこが断崖絶壁だと思わせることが出来たなら、その者はたった10センチの段差に怯え、落ちれば勝手に気絶もする。
喩えを変えようか。
ただ苦い風邪薬を溶かしただけの水でも、「この水に猛毒を入れた」と信じさせられたなら、少し舌が触れただけでありもしない毒を感じて行動不能になる。
これが、我々観察者の得意とする戦い方だ。観察者は目に見えない沢山のナイフを忍ばせている。
例え鍛えられた屈強な体や優れた戦闘能力を持っている相手だとしても、的が無防備で動かない状態で居てくれたなら、腕の一振りで倒すことが出来るんだよ。
【8月1日(金) 4】
「君の製造者を生き返らせたい、か」
「私の製造者は死んではいません。勝手に存在を終わらせられただけです」
師匠の表現が気に食わなかったのか、男は抗議の気持ちを込めはっきりと言いなおした。そのセリフには「あなたのせいなのだ」となじるような響きがあった。男の声に初めて乱れるような感情がにじむのを感じた。
しかし師匠が軽く顎をあげると、男は警戒するように身を縮めた。
僕も初めて師匠に会ったときに見たことがある。顔は見えないはずなのに、目のギラリとした輝きだけは分かるのだ。それは本能のレベルで身の危険を感じる光。
「生きながらにして死ぬこと……The living dead(生きている死者)。そうなった者を助ける術はない。人の縁より飛び出してしまったのだ。私はそうなった者を何人も終わらせたことがある」
「あなたが勝手に終わらせたのでしょう! あの方は嘆く私にそう教えてくれました……そしてあの方は、助けることを約束して下さいました」
「あの方……『顔の見えない観察者(The invisible face watcher)』というヤツか」
顔の見えない僕の師匠はそうつぶやくと、一息置いてから男にこう尋ねた。
「機械の心と体を持つ者よ。君はその者の顔を見たことがあるか?」
自明すぎることを尋ねられて不快だったのか、男は上品な中にもいらだちを秘めてこう返した。
「ありません。私は見せたくないと隠しているものを無理に見るような不躾なロボットではありません。製造者の名にかけて」
では、と仕切り直すようにして、師匠は次にこう訊いた。
「では、その尊敬する君の製造者の顔を今、頭に思い描いてみろ」
不思議な問いに目を丸くしたのは僕だけではなかった。呆れを通り越して目を見開く男。
「君がなんとしても生き返らせたいその製造者とやらは、今どこにいるんだ」
「……え?」
僕は師匠と男を交互に目で追っていたが、男の表情が次第に強張り、そこに戸惑いの色が浮かんだのを見て目が釘付けになった。次第に男の表情ににじむ、焦りの色。
顔は見えないけれど、師匠がニヤリと笑ったのが分かった。ゆっくり一歩ずつ男に歩み寄りながら、師匠はうたうようにすらすらと言葉を続けた。
「それだけ精密で精巧なロボットが作れる方だ、さぞ有名な実験室にいるのかな。個人的な施設で研究をしているとしたら、相当設備がしっかりしているのだろう。それから、君のその人間そっくりの素晴らしい体を作る多額の資金はどこから出ているのかな」
「私の製作者は……」
師匠から目線を外し、辺りの地面をさまよわせて思考を回転させる男に、師匠はなおもささやく。
「思い出せ……」
低く大地を這いそのまま脳を震わせるような師匠の声に、僕の頭さえもぐわんと揺れる。男の頭の混乱が僕の中に流れ込んでくるようだった。
思考の奔流の中でどこかに流されてしまわぬよう一本の命綱を必死に握るように、僕はひたすら思念した。僕の恩人は、僕の恩師は師匠、この師匠である。そう強く自分に言い聞かせ、ぎゅっと目をつぶった。
「機械の心と体を持つ者よ、その耳をふさいではならない。耳の中の小人を思え……」
クスリと笑うような響きを持つ、師匠のささやく声。声自体は口の先だけで遊ばれるようなとても小さいもののはずなのに、それはしっかり耳に届き、脳内で反響していた。耳元でささやかれていたらこんな感覚だろうな、と思う。まるで子供を寝かしつけるためのそれのよう。
「人はどうやってものを聞いていると思う? それはな、耳の中に小人がいるからなんだ……。その耳の中の小人はどうやってものを聞いていると思う? 小人の耳の中にも更に小人がいて、その小人の耳の中にも更に小人がいて、その小人の耳の中にも更に小人がいて、その小人の耳の中にも更に……」
優しく語られるその言葉の通り想像していたら、僕はふらりと立ちくらむように一瞬気が遠くなった。まるで宇宙の果てを考えた時のように。
そして、「うっ」と男がうめく声が聞こえて僕は現実に引き戻された。
ハッとして僕が目を開いた時、師匠は男の腹を真正面から抱くように刺していた。
あれだけ気配に鋭敏な雰囲気をまとっていた男が、なんの抵抗もできぬまま、ただ師匠に腹を衝かれていた。
「……無限遡行だ、気が遠くなったろう」
先ほどとは違うはっきりとした声でそう言う師匠。刺したナイフを伝い、師匠の手が赤く染まる。
「機械の心と体を持つ者よ、赤い体液が出てきたな」
男は未だにこの状況が信じられないとばかりに目を見張っていたが、かすれるような唸り声を上げたあと、血らしきものを吐いた。彼が自分をロボットだと言い張るのであればそれは血とは言えない。
「わ、わたしの、からだは……リアルにつくら、れ……人の血、そっくりの……液体、を」
途切れ途切れになりながら言葉をつむぐ彼は、痛みの中でもなお自分がロボットだと言い張っていた。
「そうだな。君の製造者はとても優秀なようだ。骨や肉もまるで本物の人間のそれのようだ」
師匠は淡々とそう言いきると、深く刺したナイフを勢いよく引き抜いた。赤い体液が吹き出て、男はそのまま糸が切れたかのように崩れ落ちた。
そして最後の力を振り絞り、残した言葉。
「骨や肉、だけじゃない……。わたしがいま、感じている、この、痛みだって……本物の人間と、相違ない……すぐれた、わたしの、せいぞう、しゃ……」
【ある観察者の語り 4】
あの者は、ロボットのまま存在を終えていった。
何? 本当にロボットでなかったら、人殺しだと?
君は気づいていなかったのか。あの者の存在はとっくに終わっていた。しかも生きたまま、終わらせられたことに気づくこともなく終わらされていた。
あの見るからに異質な存在を、君以外の誰も気づいていなかったろう?
あの者こそがThe living dead(生きている死者)。救いのない存在が、ありもしない何かを救うおうとさまよっていたのだよ。
製造者? そんな者は存在しない。
私は「彼が自分をロボットだと思っているのならそうなのだろう」と言ったし、「人とロボットは何が違うんだ」と君に言ったけれど、あの者が「人間ではない」とは一言も言っていない。
あの者は、人間だ。
そもそも観察によって存在を終えたり開始したりすることが出来るのは、人間だけだと教えたはずだ。他の生き物、ましてや無生物などに干渉することは出来ない。
全ては恐らく、あの者の存在を生きたまま終わらせた観察者が刷り込んだことだろう。私を恨むよう、人を殺せるよう。
多数のThe living dead(生きている死者)を世に送り出そうとするThe Conquestersが、一人一人に対しそのような手間のかかることをするとは考え辛い。その者単独の行動であることは間違いなさそうだ。
「顔の見えない観察者(The invisible face watcher)」、か……。
奴はこの私に何かを伝えるためだけに、一人の生きていた人間を伝言板かメッセンジャー代わりにしたわけだ。
そんなことが許されるのかって?
許すも何も、誰が、何を、どう裁くというんだ。
今回のことで、顔の見えない観察者について気づいたことがある。
自称ロボットの男は君を横浜方面に連れて行こうとしただろう?
あの者はある場所に向かおうとしていたんだ。だからこそ、私もそこに接近しようとするその気配に気づいて君を追うことが出来た。
その場所は、私が幾重にも言葉の鍵をかけているところ。私が己の力のほとんどを裂き、その存在を隠しているところ。
そう、私の師匠が眠る病院だ。
自称ロボットの男、そしてその背後で糸を引いていた「顔の見えない観察者」の本当の狙いは、きっと。
……ほら、これを見てみなさい。あの者が残したバタフライナイフだ。恐らく「顔の見えない観察者」とやらが授けたものだろう。
刃に、こう記してある。
“El observador con el same nombre como mí.Do cherish your treasure.”
(私と同じ名前を持つ観察者よ。あなたの大切なものを、どうぞお大事に)
奴は私に明確な敵意を持っている。