ゆるゆる、きゅるん
加藤くんは静かだ。そして、そんな加藤くんがわたしはとても大好きだ。
加藤くんが笑うとき、少し指をこすり合わせる癖はなんだか可愛らしいし、わたしが加藤くんを呼んだときに、少し目を細めるのはとってもカッコいい。
そして、なによりも。彼が本を読んでいるときの顔が、わたしは大好きだった。
加藤くんはいつも静かなのに、読書を始めると本当に消えてしまいそうなぐらい自然と景色に馴染んでしまう。静寂のなかに沈黙を持ち込んだ加藤くんの意識をこちらに向けるのは難しい。わたしがいくら体を寄せてみても、ピクリとも反応をしてくれないし、いくら呼び掛けても何も聞こえていないみたいに本から顔をあげない。
「本の虫」なんて言葉があるけれど、加藤くんはまさしくそれだった。
わたしなんか、加藤くんの世界に一ミリたりとも入れないのだ。
そして今、目の前でまたまた本の虜になっている彼を、加藤くん、と小声で呼んでみる。わたしたちがいる図書館は、ほんわりと柔らかい光があちこちに散りばめられていてとても心地がよかった。木々が周りに生い茂っているから、二階の窓からは生き生きとした緑があちこちから視界に入る。
そして、わたしと加藤くんしかいない図書館には、わたしの声が意外と大きく響いてしまいそうだった。
司書のおばさんもさっきまでは受付にいたはずなのに、今では見当たらなかった。
小さい図書館だし、わたしと加藤くんしかいないから奥の部屋に引っ込んでしまったのだろうか。
人がいないから、気にしなくてもいいのかもしれないけれど、少しだけ、声量に気をつけてもう一度、加藤くん、と呼んでみる。
それでも加藤くんは顔をあげなかったから、彼のつむじをちょいちょいとつついてみた。
髪の毛の感触が指先をくすぐる。ちょっとだけ指が熱くなってしまった気がしてびっくりしたけど、決してそんなことはなかった。
加藤くんは気がつかない。
悔しいけど、いまの加藤くんにわたしの存在は、そこらへんの椅子とたいして変わらないみたいだった。
無機物に成り下がってしまったわたしはおとなしく諦めて、体をもとの椅子におさめる。
そして、わたしの目の前で、相変わらず本の世界に沈んでいる加藤くんの顔をじっと眺めてみた。男の子なのに長い睫毛が、定期的にぱちぱちと震えている。
瞼の端にとっても小さな傷を見つけた。ちょっと赤くて、赤ペンで引っ掻いたみたいな線がついている。
こんど、この傷について加藤くんに聞いてみよう。新しい話題が見つかって、なんだかウキウキした。
加藤くんと一緒にいると、気がつかないうちに時間がゆったりとしてしまって話すことを忘れてしまうのだ。
今のうちにいっぱい話すことを見つけておこう。
わたしは小さな目標を作って、周りを眺めることにした。
まず、加藤くんが読んでいる本は、海外の小説家が書いたもの。
読みにくいカタカナで、作家名が、本の背表紙に書かれている。
本は分厚くて、表紙の一面が真っ黒だった。
加藤くんは、難しい本ばっかり読んでいるから、この本もきっとわたしには理解不能なややこしい話なんだろう。本の隅々までよくみてみると、なかなか年季があるようで埃の匂いが漂ってきそうな古めかしさを感じた。
ときどき、わたしは加藤くんに、彼の好きな本について聞いたりするけれど、いつも加藤くんは難しいことばかり言うので、今まで一度だって、わたしは加藤くんの言うことをきちんと理解したことがない。
それでも、わたしの知らない言葉をするり、するりと普段より饒舌に話してくれる加藤くんのきらきらした顔が好きだから、わたしは何度でも加藤くんに、彼の読んでいる本について質問する。
そしてわたしが、加藤くんは凄いねと言うと、彼は少しだけ目を見開いて小さな声で、「そんなことない、中野さんのほうがすごいよ」と、言うのだ。
徐々に自信なさげに、小さく聞き取りにくくなっていく語尾にくっついている、わたしへの小さな称賛を、わたしは一生懸命聞き取る。そして、わたしがありがとうと笑いかければ、加藤くんも遠慮がちに微笑んでくれる。そんな一瞬がわたしの宝物だ。
太陽の光のかけらが、加藤くんの顔を照らしていた。いま、外の世界はちょうどお昼ご飯の準備をしているところだろう。
きゅるきゅるとお腹が悲鳴をあげそうになって、わたしはぎゅっと腹筋に力を入れた。読書に専念している加藤くんだって人間なのだから、そろそろお腹が減ってもいいころなのに。本の世界に入ってしまっては、人間の本能さえ忘れてしまうのだろうか。
今日は、トロトロに甘いチョコレートがかかったフレンチトーストが食べたい。あとで、加藤くんに言ってみよう。わたしは、ぺったりと腕を机につけて顔を伏せた。お日様のまどろみがわたしにまで伝わって、うとうととしてしまう。
ほかほかにあったかくて、チョコレートの黒と絡み合ったフレンチトーストの黄金色を想像すると、口のなかに優しい甘味が広がった気がした。
加藤くんは、何が食べたいのかなぁ。いつもカフェに行っても、加藤くんは烏龍茶ばっかり頼んでしまってつまらない。
烏龍茶しか飲めない人みたいだ。
一度だけ、なんで烏龍茶ばっかり飲むのか理由を尋ねてみたら、可愛らしいカプチーノとか、ラテが入ったカップを持つのが恥ずかしいんだと加藤くんは言った。わたしは、その答えを聞いたとき思わず笑ってしまったけれど、いま思えば、彼のそういったところが、好きなんだなぁと思ってしまう。
「中野さん」
洗濯したてのバスタオルみたい。
透き通っていて柔らかい声が、わたしの上に落っこちてきた。
「ね、中野さん、起きてよ」
今度は、ちょうどわたしのつむじらへんがもぞもぞした。誰かがつついているみたい。覚醒しきれないまま、ぼんやりと目尻の下がった顔をあげると、加藤くんと目があった。
待たせてごめんね? 加藤くんは申し訳なさそうに、わたしに言う。
なんだか、わけのわからないまま、視線を加藤くんから上に向けると、ちょっと前に見たような緑の葉っぱがたくさん窓の外で揺れていた。
横を向けば、加藤くんの宝物たちが規則正しく本棚のなかに収まっている。
どうやら、わたしはいつのまにか眠ってしまっていたようだった。
もう一度加藤くんに視線を向けると、心配そうな瞳がわたしをじっと見つめている。
「気持ちよくてねちゃった」
加藤くんは、そっと表情を柔らかくした。
「うん、僕も中野さんが気持ち良さそうだったから眺めてた」
「えっ? 眺めてた?」
「中野さんのつむじはなんだか面白い渦巻きだよ」
「……そうかな? みたことないよ」
だろうね、加藤くんはそう呟くと、手にしていた真っ黒けで貫禄のあるお爺さんみたいな本を丁寧にカバンの中へ入れた。
そして、椅子もそっと机のなかに入れると、受付へ向かっていく。
受付には、いつのまにか戻っていた司書のおばさんがうたた寝をしていた。
そのおばさんをやんわりと起こして、貸し出しの手続きをしている加藤くんの横にわたしも、急いで近づいた。
「あら、図書館でデートなの?」
からかうような目付きで、おばさんが私たちを見た。デートじゃないですよぅ、そう言うわたしの顔は思いっきりだらけてしまっている。わたしと加藤くんはそんなふうに見えるのだろうか。
嬉しくって、少し照れ臭くて、加藤くんはどんな顔をしてるのかなと横を盗み見たら、すでに加藤くんは背中をむけて、出口へと向かっていた。
楽しんでねと笑うおばさんの笑顔に軽く会釈をして、加藤くんの背中を追った。
「加藤くん、加藤くん」
わたしの呼び掛けに、目の前の背中がピタリと立ち止まる。
そして、ゆっくりとわたしのほうに体を向けると、加藤くんは少しぎこちない動作でわたしのもとに歩いてきた。
「加藤くん、どうしたの?」
「えっ、だって、びっくりして」
「なにが?」
「いや、なんでも」
加藤くんは、本の入ったカバンを大事そうに抱え直すと、もういいじゃんと、また歩き出した。
わたしも遅れないように歩き出す。
加藤くんは、むっつり黙り込んでしまったが、もう追及するのはやめておこうと思った。これ以上、照れ屋の加藤くんを追い詰めてしまったら、嫌われてしまいそうだ。
そんなことになったら、わたしは今すぐにでもあの図書館に走り戻って巨大な本棚に体当たりしなければならない。そうやって本のなだれに飲み込まれて窒息死だ。
加藤くんに嫌われてしまったら生きていけないけれど、死ぬときは加藤くんの大好きなものにうずもれて死にたい。
けど、それを言ったら、きっと加藤くんはぎょっとしてしまうから絶対に言わない。
「じゃぁさ、加藤くん。お腹すかない?」
優雅に話題転換をして加藤くんにくっつくと、加藤くんは少し体をビクリとさせて、ご飯まだだったねと驚いたようにわたしを見た。
「ごめん、ほんと待たせちゃって。中野さん、お腹へったでしょ?」
「いいの、いいの。わたしフレンチトーストが食べたい」
フレンチトーストかぁ。
きっと加藤くんも、あの黄金色を思い浮かべたのだろう。うっとりと目を細めて、聞きなれた二人のお気に入りのカフェの名前を口にした。
そうだね、そこにしよう! わたしも元気よく返事をして、笑いかける。
今日こそは、加藤くんにあのカフェで評判の美味しいモカを飲ませるんだ。そう決意して、加藤くんの腕に、自分の腕を絡めた。
えっ、ちょ。
加藤くんの小さな戸惑いは無視して、わたしは少し強引に彼の腕をひっぱっていく。
しばらくすると、加藤くんも観念したらしくおとなしく腕を絡めたままわたしに歩調を合わせてくれた。
わたしが居眠りする前の寝ぼけ眼でぼんやりとした太陽も、いまではさんさんと元気よく光を降り注いでいる。
加藤くんどんな顔してるのかな。
そっと盗み見しようと視線を斜め上にあげると、加藤くんとばっちり目があった。お互い少しびっくりしたけれど、どっぷり浸かっていたい温かなものが周りに満ちていて、自然に微笑みあうことができた。
加藤くんの瞼の端にある小さな赤い線も一緒になってくしゃっと形を崩している。
加藤くんは相変わらず口数が少なくて、二人のあいだには静けさがたくさん転がっていたけれど、それがなんだかとっても愛しくて、どうしようもなかった。