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無限沢狩猟集団 夜行狩猟記

作者: 木村 瑠璃人

    × × × ×


「――――少し尋ねるが、お前は自分の行為が正しいことだと考えたことはあるか?」

 ………田舎町の古い喫茶店、秋の日暮れを超えた夜の席で、『魔女』は問いかけた。

「ああ、別に殺人行為についての善悪を訊いているわけじゃない。殺人行為は殺人行為、そこに人命が絡んでいるか否かの差異はあれど、結局それは『行為』に過ぎない。行為の善悪を決定付けるのは執行者じゃなく観測者の方だ。執行者であるお前に尋ねるのがどうかしていることぐらい、六百年を生きた私でなくともわかる」

 可憐な少女を思わせる白の長髪の中から年老いた老婆のような目を覗かせるボックス席の少女。外見から判ぜられる年齢は十六から十八と言ったところだが、その内側には六百年を生きたという言葉を真と思わせかねないほどの貫録と重み、そして何より、生を諦めたかのような達観が見え隠れしている。

 そして真実――――この少女は見た目こそ少女であれど真実の意味で『少女』ではない。この人物が可憐な少女であるのは容姿だけであり、真の意味でこの人物を形容できる言葉は、この人物が自らで名乗る『魔女』という言葉ただ一つである。

「つまり、私が聞きたいのはお前が殺人行為に対して抱く善悪ではなく、お前がお前として行う『行為』に対しての善悪――――お前の『在り方』が善であるか悪であるか、それをお前がどう感じているのかを、私は尋ねているわけだ」

 不遜に足を組み、湯気を燻らせるコーヒーを口に運ぶ仕草は純真にして妖艶、笑いかければ数多の人を無垢に誘い、微笑みかければ数多の男を妖艶に惑わす『魔女』そのものの在り方。

そのありようのまま、唐突に『魔女』は手にしたコーヒーを突然ソーサーの上へとぶちまけた。

 流れ落ちる黒色の芳香、注ぎ込まれる暗黒は瞬きの間にソーサーの上からあふれ出し、テーブルの上に黒の手を広げていく。事故ではない明らかな故意の仕草、あふれ出た水面を一瞥し、魔女は悠然と笑む。

「知ってのとおり、人を動かすのはいつの世も『悪』だ。味が『悪い』からとこの珈琲じみた液体をぶちまけるように、あるいは貧乏という『悪』環境から離脱するために労働するように――――いつの世も悪は人を動かすだけの力を持っている。悪逆に対して人間が否定的なのはその行為が損益を齎すという理性ではなく、否定しなければ自らの汚れを認識してしまうという必然性からでね、本来人は『悪性』を原動力に動く機械なんだよ。我々は『悪性』という屍からなされた燃料で動いているんだ」

 もっとも、私はもう人間と呼べるかどうかは怪しいがな。

 そういって嫣然と、魔女は腕を組みなおした。

「落下から逃れようとするために動く方向性は空になるように、『悪』から逃れようとするために向かう方向は必然的にその対極――すなわち『善』となる。『悪行』とはすなわち、この泥水を口に運ぶことから逃れるという『善』へ向かうための行為のようなもので、言ってみれば『善』へと向かうための行為だ。……それが第三者にとってどうであれ、いつの世も観測者にとって、『悪行』とはすなわち『善』へと動くために必要な行為なのだ」

 ちらりとテーブルの惨事を見かねてやってきた店員を一瞥しながら、不遜な態度で魔女は宣言する。代わりをお持ちしましょうか、という店員の言葉に、いい、とだけ答え、ソファにもたれ掛る。

 その店員がテーブルを拭きあげ、引き上げるのを視界の端にとらえ、『魔女』は宣言する。

「そして当然――――殺人という『悪』行も、何かしらの『善』へとむかうための燃料であり、そしてまた第三者にとってはどうであれ、当人にとっては『善』行だ。……ほら、殺人でなくとも最初から『悪』だと認識して行動に及ぶ人間は存在しないだろう? 故に主観的にことに及ぶ以上、『悪』行はすべてにおいて『善』への方向性を持っている、と言えるわけだ」

 ところが、と『魔女』は楽しげに口の端を歪めた。

「その行為が主観的な価値観ではなく、客観的な価値観に乗っ取っているとなれば、話は別だ」

 睨め付けるような鋭い眼光が、白髪の隙間から対面席の人物を抉る。何の備えもない人間であれば気圧されるか言葉を失うか、はたまた圧力に耐え切れず逃げ出すか。それだけの力を持った眼光に晒されてなお――――対面席の人物は、のんびりと紅茶を口に運ぶだけの余力を見せつけていた。

 黒、全身を固める赤を含んだ黒、夜色の獣から引き剥がした皮を思わせる、命を孕んだ宵闇の色。ブレザーを思わせるジャケットに、それと同色の着崩されたワイシャツ、表情を半ば隠す髪の色も半ば以上が同色に染め上げられ、少年の姿をある種異様な雰囲気へと文字通り着色していた。

 チェックを浮かび上がらせるスラックスが、踵に白を残したスニーカーが告げる。この少年の異様な装束は始めからこのような色であったわけではなく、大量の『色』を被った結果このような色になってしまっただけであるのだと。

 そして何よりの異様が、その少年のカップを持ち上げる手指。皮袋がそれぞれの指に被せられ、そこから伸びるベルトが手首で一纏めにされた、一指一指が異様に長い黒の手袋。

 見た目から考えて用途がわからない、またどんな用途があったにせよそのような形状になっている意味が分からない、さながらそれは異様を押し固めた手袋だった。

「………コーヒーじゃなく、紅茶にすべきだったな。それなりに旨いぞ」

 問いかけの返答ではない告げられた言葉に憮然と魔女は不満を返す。

「そう思うのはお前が本物の茶を知らないからだろう。仕事ばかりで娯楽を知らぬからそんな言葉が出る。――――それとも、お前らの仕事は普遍的な倫理観だけでなく味覚まで一緒に壊すのか? だとしたら哀れなことだ。現世の溝掃除に等しい仕事を任ぜられながら人間として最小限の娯楽まで失うとは――まったく、お前もずいぶん苦労人だな、《無限沢(ムゲンザワ)》よ」

《無限沢》―――その告げられた名前にさしたる感慨を見せず、異様の少年は生気のない目で『魔女』を見つめ返す。自らに怖じることなく向けられる目、快楽という傀楽を陥落し享楽という狂楽を凶落し娯楽という暴虐を殺戮する者が見せる非人間的な瞳に、『魔女』の中で興味が燃え上がった。

「――――まあ、実のところこの問いかけもただの暇つぶしだ。ただの人は見ていても退屈なだけでね……時折お前らのような人間と話さなければ、精神が死にそうになるんだ。さあ、付き合ってくれ《無限沢》。私の暇つぶしだ、お前にとっても損はないだろう」

「………善悪論が、か?」

「ああ。善悪はいつの世も水掛け論だ。裏は裏から見れば表であるように、どちらが表かなんて決めようがない。それをはっきりさせようというのだから、傍観している分には1+1が2になるのか二になるのかを議論しているようで……滑稽だ」

「悪趣味だな、『魔女』」

「ああ、私は『悪』趣味だ。人間を娯楽するのに悪徳を眺める以上の娯楽はないからな。さあ、答えてくれ《無限沢》。お前にとってお前の仕事は『悪』か? それとも『善』であるのか? 『魔女』の退屈しのぎに教えてくれ。――――どうせ、お前はすぐここから出ていく羽目になる」

 さあ、と先を促す『魔女』に、《無限沢》はため息を一つ。

 そして――――一つ、呟くような言葉を落とした。

「………どうでもいい」

「ほう……?」

「別に俺の仕事が『悪』だろうが『善』だろうが、俺にとってやることは結局変わらない。俺にとっては殺人ってのは車が車輪を回すのとおんなじで、それは車が車であるためにやる当然の仕事だ。車の車輪が善悪を考え出すなんてこと、ありえないだろう?」

「なるほど……しかし《無限沢》、それはつまりお前はお前に人間性を認めていないということか? 人間に限らず、意志あるものが何かの行為を遂行する際、そこには必ず原始の段階から善悪を思考せずにはいられないものだ。それすらない、ということはつまり、お前はお前を『人間ではない何か』だと、そういうつもりか?」

 自らが人間であるか、否か。そんな人としての根底を問いかける狂想的な《魔女》の言葉に、

「……ああ、俺自身、もう人間であるつもりはない」

 あっさりと、《無限沢》は首肯した。

 端的な一言、何の感情もこもらない一切の虚飾のないただただ空虚なその表情。一切の中身を有さない伽藍洞は、しかし何もないが故にそこに浮かび上がるそのものこその存在を際立たせる。

 すなわち――――その言葉が真実であると。

「ははっ! さすがだな《無限沢》。殺人行為を価値観に因らずただの行為として遂行する殺人集団。人間である自覚など端から捨て去っているというわけか! ははは、これは傑作だ! どうやら私は問いかける相手を間違っていたらしい! 人間でない何かになど、善悪は無関係というわけか!」

 心の底からの喜悦をまとい、『魔女』は高らかに哄笑する。楽しげに楽しげに楽しげに眼前に座り無表情を貼りつけ自身を見据える非人間を謳う人間を娯楽する。

「……満足か? なら俺はいくぞ。仕事だ」

「ははははっ! ああ、行くがいい《無限沢》。せいぜい狩人として人上を自称する愚物に真の尋常ならざる人上というものを見せつけてやることだ。それが、お前の役割だろう――――?」

 席を立ち、ポケットから取り出した紙幣を伝票のわきに置く。鉄錆を連想させる赤黒のブレザーを整え、踵を返して《無限沢》は店を出た。


 一人残された《魔女》は、置かれた一万円札を見、

「………嫌味のつもりか…?」

 去って行った狩人を、《殺人狩猟集団 無限沢》の少年を、ただ見送った。


    × × × ×


 ――――背後で赤犬狩りの車が走る。


 泣き叫ぶ赤い光、けたたましく過ぎる赤い影。災禍を娯楽する焔の犬と同種のように見えて、それは狩る者と狩られるモノほどの違いがあるそれら。バチバチと楽しげに笑う災禍の嘲笑を否定するべく泣き叫び、赤い猟車は町を駆ける。

 凄惨な火事、燃える家々。市街の外れ、住宅地で発生した周囲六軒の家を巻き込む大火事。

 夜も中頃、帰宅した人々が時間を娯楽するその時刻に突然ある一軒の家から発生した炎は瞬く間に周囲五軒の家を導火線を伝うかの如く燃え移り、夜の町を赤々と照らしあげた。

 逃げ遅れた人間は数多く、巻き込まれ火傷を負った人間はさらに多い。現場が住宅密集地帯であったこともあり更なる延焼は避けられないだろう、という見解が自治体から消防団へと出され、近隣を担当する消防団、有志の自警団による消火活動とその援護、さらには被害者を増やさぬため避難誘導までが警察の手によって執り行われ、夜を娯楽するその時間、無関係な箇所にいる人間の眼を、市街の端で起こった大火に釘付けにする。

 大きく派手な災禍の前に、小さく深い災厄はもみ消されるものだ。

 故に誰が思うだろう――――同じ町の火事場から離れた対極、赤犬の遊び場から遠く離れた一軒の住宅の中で、サイレンの悲鳴に覆い隠された絶叫が響き渡っている、この現実が存在していることを。

「――――Burning, Burning, Burning♪ Burning to the fire♪ Burning, Burning, Burning, in Night♪」

 一般家庭のリビングルーム。食卓の上には畳まれた新聞と晩酌のピール瓶。汗をかいたグラスにはまだ中ほどまで泡立つ麦酒が残っており、その傍らには乾物が、正面の席には湯気を上げる緑茶の湯飲みが残っている。

席に着く人物はいない、それはそうだ。この席に着くべき人間には、もう席に着いても楽しむだけの機関が残されていない。楽しむべき人物の姿は床の上。二人であったその形は『玉』と『人形』合わせて四つ。前衛的なオブジェのように、ごろりごろりと床の上。

 血の池が清潔なフローリングの隙間という隙間を清掃し、鉄錆の香りが得も言われぬ雰囲気を演出する。ここは団欒、畸形のヒトガタ異様の芳香、掃除は綺麗に人を使って料理は凶器で調理され、冒涜遊ぶ家族の場。

 常人であれば障害に渡る悪夢に苦しむかもしれない、そんな凄惨な現場を一人、女は楽しげに歩いていた。秋という季節に反する紅のパーカー、黒のショートパンツ。目深にかぶったフードから長髪を前へと流し、楽しみながら惨劇を謳歌する。

「燃えろ、燃えろ、火よ燃えろ♪ いやいや、実にいい夜だ♪ 楽しまないのは、もったいない♪」

 調子はずれに謳いつつ、頭の中では一人を探すその女。パーカーのポケットに納められた大振りのナイフは主の服と同様、返り血によって赤く染まっている。表を歩けば確実に見咎められるであろうその服装も、今日という日に限っては別だ。市街地の反対側で遊ぶ赤犬、その狂乱がうまく血の匂いを隠してくれる。故に女の中に返り血を気にする神経はない。重要なのは別の箇所。この家を自分にとって最良の娯楽にできるか否かの、その一点だ。

「どこかな~♪」

 呟きながら廊下へ移動、赤い足跡を残しながら二階へと向かう。表の表札と玄関の靴は確認済み、それによると家の住民は全部で三人。二人はもう娯楽したため、残りは一人。ちらりと見たが小さな子供だ。一階にはいなかったため、おそらくは二階だろう。

 そうあたりを付けて階段を上り、二階の廊下を見る――――と、案の定。子供部屋と思われる部屋の扉が一つ開け放たれていた。

「おっ♪」

 楽しげな声を上げ、開け放たれている部屋を除く。明るい内装に小さな机とベッドが一つ。中は無人で窓は閉まっている。予想通り子供部屋。それも男の子のモノ。

「いいねいいね男の子♪ 最高じゃない♪」

 人殺しは趣味だが、男児を殺すのは中でも最高の娯楽だ。年端もいかぬ少年をじっくりと追い詰め時に舐り時に犯し時にバラしながらゆっくりゆっくり殺していく。その悲痛に歪んだ表情と、女子と間違えそうな甲高い男の叫びを聞きながら殺傷するのが、この女のもっとも好む殺害法である。

 降って湧いたメインディッシュ、思いもよらない最高の御馳走を前に興奮しながら、女は部屋を後にして廊下のドアを一つ一つ開け放っていく。

「んふふふふ~♪ どうしちゃおっかな~♪」

 犯してから殺そうか、殺してから犯そうか、解体するのも悪くない。そんな凄惨な作法と自らに怯える少年の表情を想像しながら、しかし手元はゆっくりと女は少年を探す。

 殺人の工程も女にとっては至高だが、隠れている相手を追い詰めながら探し出すのも女にとっては至上だ。迫ってくる災厄を耳にしておきながらどうすることもできずに震えるだけの獲物を見つけ出し、追い詰める快楽。恋人同士の一日千秋に近しい焦れる感覚が、さらに女を高ぶらせるのだ。

 一部屋一部屋、残すは一つ。

 最後のお楽しみ、釈迦の蜘蛛糸を切るような得も言われぬ快感と共に、女は残された最後の希望を開き――――


「み~つけた♪」


「ひっ……!」

 最後の扉――――物置の隅。膝を抱えて震える男児を見つけ、女の眼に情欲にも似た色が灯る。

 すっ、とポケットから抜き出す一振りのナイフ。軍用の大振り細身なタクティカルナイフ。過去幾多の血を啜り、女の娯楽と共に禍々しさを増した刃は今、家族を再会させる使命に打ち震えるように細明かりの中で刃紋を揺らす。

 はぁ――――腹の底から熱い吐息を漏らす。もう我慢できない。自身の熱で蕩けそうだ。早く早く早く早く早く早く早く早く――――

「――――その身の奥まで…焼い(ころし)てあげる……っ♪」

 身を焼く情欲そのままに、

 女は絶望に震える少年へと刃を突き刺した。



    × × × ×


 向郷(コウゴウ)玲奈(レイナ)という女は何者か――――彼女の『顔』を知る人物にその問いを投げかけると、返る言葉は間違いなく二つとなる。

 ある者は『放火魔』――――神速とも言える手際で目撃者を生むことなく都市一区画を灰と成す赤犬の使いと表現し、

 またある者は『殺人鬼』――――隠密そのもの所業で何人にも気付かれることなく家屋に侵入し、居住する一家、とりわけ幼い少年を含む一家族を血祭りに上げる悪辣の死神と表現する。

 どちらだ、と問う行為は無意味だ。なぜなら向郷玲奈という人間にとって、放火と殺人はどちらも同じ行為であり、その二つは『どちらが先であるか』程度の違いでしかない。

 火を放ち、入り込み、殺す――――その一連の流れこそ向郷玲奈という女性が二十年少々の生涯の中で学習した、もっとも効率よくもっとも楽しめ、そしてもっとも興奮する『作業』である。

 目の前で発生した大きな災禍の前に、それよりも縮小された災禍は見過ごされる。人が意識していられることなどたかが知れており、それが日頃目にすることのない『火災』というわかりやすい脅威ならなおのこと。日常ならば警戒するべき『夜間の不審者』などという脅威は火災という災禍の前にはあまりにも矮小で、それ故に玲奈の犯行は誰にも発覚することなく遂行できている。

大規模火災という厄災の中に潜む隠密の侵入者。

大事の中に潜む小事、火事という厄災の中に潜む不審者という脅威が、向郷玲奈の人殺しとしての形だ。

 彼女の殺人行為に理由はない。強いてあげるのなら、それが自分という形だから。刃物が刃物であるように、炎が炎であるように、向郷玲奈という人物が燃やし入り込み殺すのは、彼女自身がそういう方向性を持った『何か』であるとしか言いようがない。あるいは幼少時に受けた性的虐待に、あるいはその後の両親の殺害と放火に原因があるのかもしれないが、そんなことは玲奈にとってはどうでもいい事象である。

 彼女にとって重要なのは己がいかに己であるか。例えそれがどれほどの破綻を孕んでいようと、『燃やし、入り込み、殺す』行為が自らの最大の発露であるというのならば、その行為のうちにおいていかに自ららしくあるかこそが、玲奈にとっては重要だ。

 彼女の殺人の中に利害や保身といった言葉はない。故に、 司法機関では彼女の存在を捉えるばかりか、一つの町で発生した『放火』と『殺人』を関連付けて考えることすらできていないのが現状だ。

頻発する火災の陰に残虐な放火魔の存在を感知し、連続する殺人の陰に陰惨な殺人鬼の存在を窺知することはできていても、理屈で思考する彼らにはそこから先が理解できない。リスクと実利の構造を思索することを旨とする彼らのうちでは、放火と殺人というリスクと実利の構造が破綻した行為を連続して行う人間が存在するという事実に、そもそも思い至ることができないのだ。

 さらに厄介なことに、玲奈は住所不定無職という一身上の都合から、殺害に入った家屋からありったけの金銭を持ち出している。

 片や得る物のない愉快犯的放火魔、片やリスクには見合わぬものの、最低でも二十万前後の現金を略奪している殺人犯。両者を同一人物として思慮することに無理は在れど、片方ずつなら存在しうる――――それは凶行の中にも『理屈』と『感情』が確かに存在すると信ずる思想の前に、偶然ではあるが絶好の隠れ蓑として機能していた。

 司法の眼を結果的にとはいえ巧みに誤魔化しながら凶行に及ぶ彼女の存在は、その目立つ出で立ちと相まっていつしか都市伝説として語られている。

 『赤色の狂狼人(ワーウルフ)』――――警察内での放火を示す隠語である『赤犬』と、彼女の獣じみた赤い出で立ちからつけられた、火事を招くとされる魔性の人間の伝説。

 自らを人外と称するかのごとき都市伝説の付けられた現状、明確な世間の中での恐怖となり得た事実に、玲奈はひそかな満足感を得ていた。

 彼女の凶行に理由はなく、求めるところは自己の完全なる表現のみ――――そんな心情を有する彼女にとって、都市伝説とは言えど二つ名がつけられた現状は、世間に自らの形が恐怖に値すると評価されたに等しい。その存在は自己を第一と貴ぶ殺人鬼がその凶行を加速させる理由としては充分なものだ。事実『赤犬の狂狼人』の都市伝説が一般の知るところとなった後から玲奈の行為は加速しており、司法側もその対策に焦る始末だった。

 日本全国を流浪すること五年間、玲奈の凶行が及んでいない地方はもはや存在しない。法の裁きなど恐くはない。はるかな過去に倫理を捨て去り、幾多の死を乗り越えた玲奈にとって死は一つの結果に過ぎないのだ。死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる。囚われたくないと思っているのはその先に自己が存在しないからで、ついでに言えば自らを捕らえる司法の手の動きが、あまりにも『無個性』だったからだ。自己はさらに膨大な自己の前に膝を屈するもの、『ただ仕事である、捉えに来た「だけ」』の人間に膝を屈するほど、玲奈の自己は軽くない。

 言ってみれば、向郷玲奈という女性は生粋の『演出家』なのだ。炎という災厄で町の雰囲気を一変させ、そこに殺人というアクセントを加えることで恐怖と狂乱とを演出するエンターティナー。当人は無自覚であるものの、彼女の在り様を端的に表現するのであれば、その言葉が最も正確であろう。

 多くの芸術家がそうであるように、彼女の中に他者への興味はない。あるのは自らの抱えた感性をいかに表現できるか、いかにその中で己の持て余し気味な情欲を満たすか、その二点である。幸運なことに玲奈の容姿は逸材と呼べるほどに恵まれていたため、いざとなれば情欲の解消はいくらでも可能であったが、誘蛾灯に惹かれてやってくる蛾のような男に、玲奈は価値を見出してはいない。

 情欲の消費には最高の品質を――――まだ未開発の少年を自らの手で舐り、未知の快楽と死の恐怖をちらつかせながら己の動きで絶頂を迎え、余韻覚めぬうちに殺害する。それこそが至高にして至上の娯楽だと、玲奈は信じて疑わない。

 あるいは自分もただ破綻を抱えただけの一人の人間ではないか。そう考えた時が玲奈にもあった。が、背景を失い基盤を失い正常な思慮を失した自らにはこれ以外の生き方は望めないであろうし、何よりその生き方は楽しくない。

 そんな心情が玲奈を凶行に駆り立て、そして今日もまた自らの演出へと興じていくのである。


    × × × ×


 そして今夜、向郷玲奈はご機嫌であった。

 新天地と呼べる街へたどり着いて最初の凶行、今回は移動に時間をかけたこともあり、実に二週間ぶりとなったがために手慣らしとして行った『作業』が、思いのほかうまくいったのだ。

 家々の密集する地帯に入り込み、お気に入りの高揮発性燃料を数か所に設置して時間差で点火、周囲を巻き込み六軒を完全燃焼させる計画で放火してその騒ぎが程よく大きくなってきたところでそれなりの大きさのある家屋に侵入、居住していた三人家族の両親を瞬く間に殺害し、首を切断したのち、残る一人の子供を味わう。裕福な家庭であったらしく、家屋の中に残されていた現金は八十万円を超え、残る一人の子供は都合よくも少年。金銭はどうでもいいが、後者の存在があったことが、玲奈の中では成果として非常に大きい。

 六件程度の完全燃焼と、一家族程度の殺戮は手慣らしだ。凶行において死に至らしめた人間は優に三ケタを超え、内放火で殺害した人数は六十を、手ずからくの凶行で殺害した家族は九十世帯を超える。燃焼させた家屋も百近くに及ぶ彼女の中では、六軒無被害の一家族三人殺害は小規模な部類にはいる。その小規模な手間の中で、大規模な『作業』数件を起こそうと手に入らない至高の御馳走に出会えたのだ。足取りは自然と軽く、表情は普遍に笑みとなり、口元からは自然と歌がこぼれ落ちる。

 歩む場所は繁華街、玲奈の普段着である不審な服装も程よく隠れ、必要とする燃料や刃物、時の贅沢品が容易に入手できる町の淀みの中である。

 Burning Burning♪と口ずさみながら探すのは燃料。それも軍用のものや資格が必要となるような高性能品。最上の表現には最上の道具を、というのが彼女の信条であり、そして凶行の度大量の金銭を獲得しながら路上生活者寸前の生活を続ける彼女の手持ちには常に札束レベルの金銭が唸っているのである。

 幸いにしてふらふらと歩くうちに、路地裏でその筋の人間と出会うことができた。

「――――へぇ? 燃料? 君みたいなかわいい子が? 何、なんか殺りたい奴でもいんの?」

「ん、まーそういう感じかな♪ とりあえず二リットル、ある?」

「まあな。金、あんの?」

「ん♪」

 路地裏で出会った軽薄な風体の男に、玲奈の基準でこれぐらいだろう、という量の札を手渡す。男の表情がぎらりと欲得に滲んだ。

「へぇ、君お金持ちなんだ」

「まあね♪」

 略奪金ではあるが、玲奈のウェストポーチの中は燃料用の密閉瓶と大振りのナイフを除けば万札で一杯だ。手渡した分で今日の収穫の四分の一近くが消えているが、その比率もポーチの中身と比較すると十分の一に満たない。

 いかにも世間知らずな風体、一見すれば殺人どころか暴力すら不可能な華奢な体躯、フードから覗く美貌、足を見せた大金――――目を眩ませるに十分すぎるほどの餌を見せられ、本格的に男の中に情欲の炎が滾った。

 うまく利用すれば大金と大輪の花が同時に手に入る……いかにも世間知らずな風体、犯罪に走ろうとしていた事実、これらを利用すれば更なる金銭も目ではない。

駆け巡った打算、そんな事実を露と知らずに、玲奈はにこやかな笑みと共に中型の密閉瓶を差し出す。

「それより、ちゃんと燃料売ってくれるんでしょ? 頂戴♪」

「ああ、いいよ。――――ほらっ」

 差し出された密閉瓶とは別にボトルを手渡し、瓶の中には注文通りの燃料を注ぎいれる。その量は注文のあった二リットルよりも一リットルほど多く、手渡された紙幣価値よりも少なかった。

「あれ? こっちは?」

 明らかに余剰分であるボトルと取り上げ、きょとんと玲奈は首を傾げた。にやりと男は笑う。

「そっちは代金だよ……。なぁ、いいだろ? こんな夜中にお嬢ちゃんみたいなの見るとさぁ……こっちもたまりかねるわけよ」

 疑問を浮かべた世間知らずな表情を壁に押し付け、その脇に腕をついて逃げ道を封じる。

「……? どういう意味、かな?」

 首を傾げ無知を演じる玲奈。彼女も年若いとは言え、裏側で五年間寝起きした人間だ、男の示す言葉の意味ぐらいは理解しており、次に自分がどうするべきなのかも心得ている。

 玲奈以上に危機に無知な男は気付かず、さらに詰め寄った。

「だからさぁ、ホントはわかってるんだろ? こんなところでそんな危ないモン買ってった、なぁんて知られたら、お嬢ちゃんも困るんじゃない? でも俺としてもさぁ、筋は通しときたいわけよ。だから燃料一本――――一晩の値段としちゃ、妥当だろ?」

「うん? うん――――うん♪ 値段だけなら、ね。でも気分じゃないかな、私」

 玲奈の声が半ば変質する。調子のよかった語尾が暗く沈み、ご機嫌の笑みが愛想笑いへと変貌する。

 自らの有利を確信する男は、その変化に気付かない。

「だ~か~らさぁ、わかってる? お嬢ちゃん、逃げたりなんかしたらどうなるか、ってこと」

 これ見よがしに、男は携帯電話をちらつかせた。男としても危険な商売に手を出す身、通報などできるわけもないのだが、脅しとしては有効だろう――――そう思っての行為だ。

 そして――――その行為が玲奈の中で決定的な変質を生む。

「………わかった。いいよ……」

「へへっ……じゃあ、行こうか」

 玲奈の肩を男の手が抱き、路地の更なる深みへと足を向けていく。

 欲望に滲んだ男は気付かない。

 炎を宿した玲奈の眼は不機嫌に歪んでいる。

 獣の機嫌を損ねた人間は、生きては帰れない。

 そんな端的な事実に気付くこともなく――――男は玲奈と共に、路地の薄暗がりの奥へと消えた。


 そして男も、それに連れて行かれる玲奈も気付かない。

 都市の死角、路地を形成するビルの屋上。そこから二人を――――正確には玲奈を見下ろす黒い影があることを。

 影は赤黒い服装をしていた。

 影は異様に長い手指を持っていて、そしてその眼に冷たさを抱えていた。

 影はしばらくその二人の行く末を見つめると……ビルから飛び降りて、溶けるように夜に消えた。


    × × × ×


 始末と後処理にかかった時間は、十秒未満だった。

「ばぁーか……」

 路地の奥の廃墟、男によって連れ込まれた廃墟で、不機嫌に目を細めながら足元に転がる不快な肉塊へ、玲奈は唾棄する。

 人気のない廃墟に連れ込まれ、男が欲望を発露させる決定的な一瞬、愛用の刃物で伸ばされた右腕を叩き斬って、背後へ回って刃を返し、背中側から心臓を一刺し。流れる動作で苦痛と出血にのたうち痙攣する男の首へと止めの一閃を振り下ろして首を叩き斬る。

 五年間の放浪のうちに獲得した殺人のための技術。止めの一撃で首を切断し損ねるという失態は演じたものの、骨の隙間を的確に縫って三分の二ほどは切断できた。後はきっちり残った筋肉を素早く切断して後処理を終えるだけ。

 殺した相手の首を切断するのは、玲奈の習慣だ。

癖、と言ってもいい。

 殺しの中で奇妙な癖を見せることを良しとしない玲奈の中の唯一の例外、それが一度殺した相手を『二度殺す』ための、斬首という行為だ。何事も理由が曖昧である玲奈にしては珍しく、この行為には明確な起因する理由があり、その理由があまりにも衝撃的であったため、以降習慣として肉体が覚えてしまっている。

 首を斬らずに死体に背を向けると弥が上にも思い出す光景、今だに手口の荒かった一年目のこと。押し入った家でことを終え、いつも通りに消えようとしたその時、別の押し入り強盗があろうことか同じ家に入ってきたのだ。

 当然、互いに見られたからには互いを生かしておくわけにはいかない。が、ここで想定外だったのは、そう思考していたのが玲奈だけでなく、押し入ってきた別の強盗も同じであったという点。一方的な殺戮か、あるいは逃走した相手の狩猟――――そうなるであろうと漠然と考えていた玲奈の甘さを、その相手はいつも簡単に打ち破り、結果として二人は殺し合った。

 僅差で殺し合いを制したのは、玲奈の方。

 が、その相手のしつこさは群を抜いていた。

 今玲奈が殺害した男と同様、右腕を切断し心臓を刺突しさらには腎臓と大腿動脈を破壊したにも関わらず活動する闖入者。困惑する玲奈を余所に、もはや肉塊同然となった体から血液を噴出させつつ玲奈の生命を略奪せんと動くその姿は、もはや生きる屍だった。

 止めとして打ち込んだ頸動脈への一撃――――人体として残された、最後の意識すら刈り取るであろう攻撃を受けて、ようやく停止したその殺人者。言いようのない戦慄を覚えながら、それでも作業を終えたという実感を胸に立ち去ろうと思った時、それは起こった。

 背後に倒れた、もはや人間としての機能を果たすことはないであろう肉塊――――片腕を失い首に穴を穿たれ心臓を破壊され腹部から臓腑をちらりと覗かせ足を半ば切断されかけている、そんな死体ともつかないヒトガタが、動き出したのだ。

 幸いというべきか、咄嗟の動きで玲奈が首を切断したため、死体が何かをするということはなかった。が、それ以来、玲奈の中では再び死体が動き出すことのないよう、殺した相手の首を切断することが習慣になっている。

 無論、わざわざ首を落とすのは手間でリスキーだ。何より極力無駄な手間を省くという玲奈の信条に真っ向から違反する行為であり、ナイフでは首を切り落とすのは無理がある。

 しかしあの衝撃――――一度殺したはずの相手が死ぬこともなく蘇り、再び襲い掛かってきたあの衝撃と比較すれば、この程度の手間を惜しむ理由などない。それに手こずったのは最初だけ、今ではナイフ一本あれば、死体から首を落とすことなどさほど難しくはない。

 半ば切断された筋肉に刃を当て、髪を引きながら切り落とす。

 ぶらん、と手の中で首が揺れ、びくびくと考える機能をなくした肉体が痙攣する。切り離した首を荒々しく放り捨て、死体の服でナイフの血を拭ってポーチへ収めた。

 焼こうか焼くまいか――――『首』と『体』とに分断された『元人間』の前に少しだけ考える。手元には作ってみたけど使いどころがなくて困っている特殊火炎瓶がある。化学反応で発火させる特殊作戦用、というフレーズを聞きなんとなく作ってみたはいいが、思ったよりも燃焼力がなくて興ざめに終わった失敗作。幸いにして人間一人を丸焼きにする程度の効果は期待できるので、ここでこいつを憂さ晴らしに焼くのも悪くはないのかもしれない。

「………や~めた」

 つい、と死体から視線を切り、廃墟の出口に足を向ける。興ざめの上に不細工な演出を重ねても、気分がさらに悪くなるだけ。幸いにして腹部の奥に火照りの余韻はまだ残っているし、さっきの演出の火はまだ消えていない。リスクは高まるだろうが、ここはさらに演出を重ねて、憂さを晴らそう。

 それにひょっとしたら、こんな風に汚れた男じゃない、正真正銘のご馳走にまたありつけるかもしれない。

「んふふふふふ♪」

 一夜に二人も。脳裏に描きだされた最上のご馳走の想像に、玲奈は舌なめずりする。想像が情欲の炎の上に燃料をまき散らし、さらなる興奮で体を焼かれる。

 こうなってしまった玲奈に、もはや我慢は聞くまい。時折自身の中で湧き上がる、自己演出の作業としての放火殺人ではない、情欲としての『赤色の狂狼人』の活動は、内に湧き上がった欲得尽きるまで消えることはないだろう。

 そうとなれば行動――――情欲に濡れ、蕩けそうなほどに絆された肉体を軽快に動かし、玲奈は再び路地の暗がりへと消えた。

 動機としては普遍的にして最低のもの。しかしその普遍的な最低は、その普遍的で最低な思慮の元、今夜も多数の家を灰に帰し、幾多の家族を血祭りに上げるだろう。ただ情欲を満たす、命を命とも思わぬ非道の行為によって、今夜も無数の命が消える――――


 その、はずだった。



「………んー…ここもいまいちっと♪」

 ベッドタウンを想定して作られたこの町に、住宅密集地はうなるほどある。そのうちの一つ、最初に火事を起こした住宅街とは東西で対角の位置に存在する住宅密集地で、玲奈はひとり楽しげにがっかりする。

 場所を見繕ってスタート――――そう考えていた玲奈を頓挫させたのは、放火するのにいい家が見つからないという単純な事実だった。

 密集具合は申し分ないのに、火をつけるのにいい家がない。騒ぎになっているのは間違いないので特段新たに放火する必要はないが、それはあまりにも面白みに欠ける。好みの少年がいる家ならばそのまま押し入ることも考えるが、この辺りにはそれすら見つからない

並みの殺しは焼いてから、演出以外は考えず。好みのご馳走があれば特例的に通り魔でも放火なしの殺しでもやるが、基本的に玲奈のルールは『焼いてから』だ。芸術家じみた感性を持つが故、玲奈は狂人である。感性に逆らう行動はしないし、特例にしたところでそれは玲奈の嗜好の問題であるがため。それ以外の例外があるとすれば『保身』以外にありえない玲奈の中に、『とりあえず殺す』という安直な選択肢は存在しない。

 が、どういうわけかこの町のこの区画にはターゲットにできる家屋がなさすぎる。燃やすに適していても長く燃えない、長く燃えそうな家屋群がっても今度は発火点が見つからない、ようやくぴったりな建物を見つけたと思っても、今度は目撃者その他が多すぎるという悪環境。やりにくい場所、というのは時折目にすることがあるが、それでもこの場所のこれは群を抜いているといっていい。

 特段苛立ちを感じはしない。ことに及びやすい及びにくいはその町の一要素。芸術家が己の頼みとする風景に苦言を弄さないのと同様に、その町の立地は玲奈にとってはただの状況に過ぎないのだ。

 が、それはあくまで普段の話。自己表現のための『演出』ではなく、自己満足のための殺戮を目的としている今、ここにいるのは『赤色の狂狼人』であり、殺人を芸術とする自己表現家の『向郷玲奈』ではない。意義の殺人と気紛れの殺戮の差異、対外的には微小にして当人にとっては決定的なその差異が、玲奈の中に確実な焦れを刻んでいく。

 どうする? 諦めるか? いや、諦めるには内側にある情欲の炎が大きすぎる。このまま何もせずに引き上げればきっと翌日にでもまた演出してしまうだろうし、何より引き上げるような気分ではない。だが、探せど探せどこの地区には自分が好む演出が可能な場所が存在しないのだ。昼間であれば外出中の少年の手早く襲うのだが、この時間ではそれも望めない。いっそ押し入りだけに留めるにしても、それらしい家も見当たらない。

 届きそうで届かない、決定的なまでの焦れ。残り少ない理性を焼き溶かし、満足の地平を沈み込ませていく。児童と呼べるレベルの少年から中学生程度の二次性徴途中の少年、それすら見当たらず、雰囲気さえよければ年下であるというだけでもよしとするレベルへ。もはやこだわりも何もない、暴走する情欲に焼き焦がされるままに市街地を放浪し――――そしてようやくにしてようやくの獲物を、発見する。

 赤い色を含んだブレザー、同じ色の髪、同じ色のスラックス。遊び歩いている雰囲気はなく、纏う空気は少し異質だが可愛げのあるもの、歳は十六歳前後でおそらくは学生だ。両手をポケットに収めてのんびりとした歩調で歩くその姿は背後から見ただけでもストイック。火事の騒ぎを聞きつけ、背伸びして夜の町に出てみた真面目な学生の雰囲気が、存分に醸し出されていた。

 情欲の獣と化した玲奈にそんな理屈は関係がない。ただ自分好みの少年がようやく目の前に現れた、その事実だけが端的に脳裏へ移り、玲奈を決定的に酔わせていく。


 ――――故に赤色の殺人鬼は気付かない。この少年の纏う衣服、そこに滲む紅が、自らと同じ殺戮の色、殺害し殺傷し殺戮しその上でなお跳梁を続けたものだけが有する、他者の命によって色泥られた魔性であるという事実に。


 つい、と少年が裏路地へと方向を変えた。

「………ふふっ♪」

 絶好の好機、差し出された据え膳に箸を付けるように、玲奈はその後に続いて路地に入り暗がりを歩むその背中を追う。ふい、と見えなくなりそうな距離、つい、と何気なく角へと消える背中、がん、と音を立てそうな不衛生な足元を、ただ獣のような情欲に突き動かされて後を追う。

 足元に散乱したゴミ袋を音もなく飛び越え、進路を塞ぐ室外機を無言で乗り越え、通れるか否かの微妙な隙間を軽々と潜り、さらに路地の奥へと向かう少年を、同じような動作、しかしはるかに獣じみた執念深さと慎重さで、玲奈は後を追う。

 突き動かすのは情欲と執念。だからこそ、玲奈は疑問にも思わない。こんな路地の奥まった箇所、繁華街の夜の住人ですら足を踏み入れない奥地へ、一体あの学生は何の用なのだろう、と。

 そして、どれだけ歩きづらい立地であろうとポケットから手を出さないのは、どうしてなのだろう、と。

 はぁはぁと荒い息を漏らしながら、ただひたすらに玲奈は後を追う。もう少し、もう少し広い場所へ出てくれれば――――そうしたら、後は一気に襲うだけ。獣としての動きで刃物を抜き放ち、無防備なその背中から刃を突き付ける。少年は恐怖に戦くだろう。あるいは眼前に染まった死の恐怖に耐えかねて失禁するかもしれない。状況飲み込めぬままただ恐怖する少年を思うように操り、意志とは無関係にいきり立つそれを咥え込んで恐怖に打ち震える表情を楽しみながら咀嚼し、吐き出された精を胎部で飲み干してから殺害する。可能ならば首を切り落とす前にもう一度愉しむのも悪くない。だからhurry。もう少し広い場所へ。Hurry, hurry, hurry hurry hurry hurry hurry hurry hurry hurry hurry――――!


 つい、と少年が路地の角を曲がった。

「……っ、あはっ♪」

 歓喜に顔が歪む。路地に歩きなれた感覚が周囲の建造物の構造を把握する。この先は行き止まり、それも都合よくも広場じみた広さのある行き止まりだ。待ちに望んだ展開、焦らしに焦らされた情欲。欲望は体内で燃料として燃え上がり、胎内を熱く焦がして向郷玲奈を獣に変える。もうこらえきれない、もう隠密である必要はない。ウェストポーチから抜き出す大振りの軍用ナイフ、駆けだす足元。不安定かつ不衛生な足場でありながら、その足取りは驚くほど滑らかで、素早い物である。もはやその様は、一つの獣と形容できるほどの完成度ですらあった。

 滾る情欲、望んだ獲物に舌なめずりしながら少年に続き角を曲がる。無防備な背中はそこにある。路地の奥に目を向け、路地の入口に背を向けている。何たる無防備。その無防備に最後の枷が外れた。突き付けて脅しつけようと考えていた最後の理性のタガが外れ、飛び込むようにその肩口へと刃を振りおろし――――


 (つい)、と。


 何気ない動作で少年の体が沈みこみ背後へと流れた。


「………え?」

 呆けた声が、漏れる。情欲に一気に水を差され、冷静さが脳裏へと帰還し……そして獣から殺人鬼へと回帰したが故に知る。獣の感覚ではない殺人鬼の嗅覚。先程まで尾行していた獲物である少年、その纏う空気は、かつて自らに『蘇る死者』のトラウマを植え付けたかの黒衣と同じものではなかったか……?

「………あーあ……♪」

 続く回想、そして理解。情欲によって冷静さを欠いていたとは言え何たる無様。自らを叱咤し、ゆらりと背後に向き直る。

「こ~れ~は、と♪ やらなきゃ、駄目っぽいね♪」

 振り返る背後、楽しげに言う玲奈の視界に、かの少年が目に入る。ポケットに手は突っ込まれたまま、しかしその眼は――血液によって色がほどに染色された髪から覗くその眼は、確固たる殺意を向けている。その意図は殺戮。かつて自らを殺さんと挑みかかった黒衣の再録、赤き衣をまとった狩人が紅き人狼を狩らんとする、その光景の再現。

 誰もかれも月光ですら観客とはなり得ない、狩人と獣との戦いの再録が、今この光景の全てだった。


 だが、その相手が誰であれ、冷静に立ち返ったところで――――

「あははははははっ♪」

 向郷玲奈という獣の情欲は、そう簡単には消えはしない。

 五年間の跳梁によって磨き上げられた殺人の作法、そこから導き出された最短の動作。踊るように動いた刃は横一閃。熟達の居合切りさながらの神速で踏込み繰り出された不可避の一撃。

 一般人ならまず狂気に当てられ理解不能、生半可な腕では理解できても回避不能、熟達した武道家か訓練された軍人か、ただの回避だけに相当量の熟練を必要とするその剣戟は、しかし少年の最低限の動きによって左側に回り込まれ、避けられる。

 一撃で仕留める――――そのつもりで放った一撃を回避され、しかし玲奈の脳裏に浮かぶのは納得だった。そして確信する。この少年は殺人鬼、それもあの日あの時自分の前に立ち塞がった不死(リビングデット)と同種の人間である、と。

「――――ははっ♪」

 踊り狂うように刃を返し、熟達の連撃を叩き込む。

――――玲奈の剣戟はどれこれもが熟練、跳梁の中で培った最上とも言えるほどの動きである。

その動作は流浪にして亜流でとらえがたく、一撃は重いというよりも鋭い。大振りの刃物をまるで剃刀のごとき切れ味で用いるその使用法は何よりも受け手の眼を誤魔化し、容易に対処することを許さない。

 ただの一撃ですら不可避、当たればすべてが致命傷。

 それが、向郷玲奈の『殺人』という点における演出である。


 それなのに――――

 不可避のはずの剣戟が当たらない。

 致命と相成るはずの負傷が、負わせられない。

 斬りつけようと切りつけようとそれらの全ては紙一重、鼻先を掠めるほどの至近距離で、あるいは皮一枚を切断するほどのぎりぎりで。まるで玲奈の剣戟すべてを観察しているかのような刹那潜りの危うさで、コンマ数秒の間隙を少年は潜っていく。

 武技を練磨するのは訓練ではなく経験である。

 そして殺人鬼としての玲奈の経験は語る。この少年には、自らの『殺人』の腕では決して及ばない、と。

「………ふっ♪」

 乱れ始めた息、しかしその中に愉悦を交えて、玲奈は背後への一歩を踏み込んだ。

 それに合わせ、少年の肉体がこちらへと踊る。赤い体躯の挙動は猛進。まるで獣のようだ。惜しむらくはその手に爪がないこと。いくら前に動こうと人間に獣の爪はない。代用する刃物を持たぬその手ではいかに接近しようと、玲奈の臓腑を抉ることはない。

 そしてその『接近』という動きを取った獣は、『放火魔』としての玲奈にとっては逃すことのできない決定的な隙だ。

 ウェストポーチの奥、普段は使用しないが故に仕舞い込まれているジュース瓶を獣目がけて投じた。

――――割れやすく玲奈独自に加工された瓶、その正体は過去の玲奈が作ったまま放置していた特殊軍用火炎瓶である。火種と燃料を必要とせずに発火できるその中身は濃硫酸。テープに塗布した塩素酸カリウムと、硫酸に混合した砂糖、三つの物質の化学反応によって発火させる、対人攻撃性の強い特殊品だ。

防げば割れる、割れれば溶ける、時間が経てば燃え上がる。対人攻撃用特殊火炎瓶の名前の如く、その兵器が有する悪辣さは玲奈の持つ燃料の中でも群を抜くだろう。

いかな不可避を回避する殺人鬼とは言え、必中の悪辣を回避することはできるまい――――


 しかし、玲奈の抱いたその幻想は、

 (キン)、という鋭い破音によって両断された。


 え、と疑問符を浮かべる暇もない。経験が培った危機感だけが体を動かし、のちの安定を犠牲に後方への行動を加速する。

 その腹部を、鋭い痛みが掠めた。

「――――っ!」

 倒れ込む体を咄嗟に反転させて、半ば四つん這いにも似た姿勢で距離を取る。

 痛みを感じた腹部に手をやる。指先に感じる確かなぬめりと開いた肉の傷み。服を手で探れば、鋭利な切り口で前ポケットごと布地が切り裂かれていた。

 何によって、という疑問符。

距離を取り振り返った視線の先、少年の指先に『爪』があった。

 両手に嵌められた異形の黒手袋。夜の薄明りを照り返す革、指先に続く異様の長指。革の袋で覆われた長指の内、人差し指と中指の二本のみが夜の闇の中にその正体を晒す。鞘袋とでも言うべき指先を覆う袋、その下は刃。皮袋と一体化した白刃、指先から伸びる反りも確かなその刃は、獣の爪の如く少年の手指に追従し、獣の狂気を物語る。

 ぽたりと、少年の爪の先から血液が滴り落ちる。

 理解に思考は不要、本能こそが『殺人鬼』玲奈に理解を促す。少年に爪がない? なんだその戯言は。あの指先から伸びた刃物、五指の先端全てより伸びる皮手袋の刃、その輝きは、自らにつけられた通称たる獣の爪そのものではないか。

「は、ははは………♪」

 ――――(ぼう)。少年の背後で火炎瓶が炎を上げる。光源のない暗がりの路地の中、落とされた光が玲奈の高揚を浮き彫りにする。

 最高だ。対峙する狩猟者の形は獣、奇しくも自らに当てられた二つ名と同じ。光源は炎、自らの芯と定めた自己演出の光。自らの狂乱に乗じて開催されたこの対峙は、偶然とは言え自らの生涯そのもの足る『演出』の形そのもの。

 故にこそ、ここへきて『赤色の狂狼人』は向郷玲奈として高揚する。情欲ではない、戦慄にも似た恐怖と高揚。あの『不死』の殺人者と対峙した際にも感じた自己消滅の恐怖と、それを乗り越える絶対の照明の感覚を。

 恐れから首を落とし続けた、その過去に終止符を打つ。眼前の少年は難敵だ。だが難敵であるからこそ、それを乗り越えた瞬間の高揚は最高の自己証明と成り得る。幾十の家を焼き払い、幾百の人間を殺し、犯し、奪い、斬首してきても望むべくのない、最高の自己肯定。はるかな過去からの虐待と暴行とで失った自己、それらを回帰させるほどの猛烈な肯定――――それらを求める最大級の欲望が、狂える赤い人狼を絶対的な人の形へと回帰させる。

「あはっ……♪」

 情欲は超えた、恐怖はない。死への恐れも自己演出へのこだわりも、それらの全ては乗り越えた。

 今ここで向郷玲奈は自らを自覚する。『赤色の狂狼人』では不十分、この狩猟者には跳梁の中で磨いた狂気ではなく、狂気までを含めた自己の全てで相対するべきである、と。

「………は、はははははははははっ♪ いいねいいね。これだよ、これ……。ずっと欲しかった。だから君ぃ、――――死ねよぉっ!」

 大振りのナイフを手に、獣の如く疾駆する。右には刃、左には火炎瓶。『殺人鬼』と『放火魔』、二つの別個の厄災をもたらす人狼は、今この闘争を持って『狼人・向郷玲奈』という形で一つとなる。殺す刃は狼の爪、燃やす炎は人間の狂気。相容れることのない二つの害意は、玲奈の中で同一と化した。

 ここへきて自らの形を曝け出した玲奈の猛攻、纏う狂気は先の二倍、猛進の武練は軽く眺めて先の数倍。軍人であろうが達人であろうが避けることを許さぬほどのない究極の狂気を叩きつけるその姿は『向郷玲奈』という一つの形すべてを孕んだ生命そのものだ。

 故にこそ――――その猛進はいかなる人間でも受けることはできない。芸術家がその生涯の全てを賭けた大作に込められる万感の迫力、狂気と呼ぶにも生温い自己そのものの発露は、ただそれだけで万人を感情で圧倒する圧力と化す。感動か恐怖か、覚える感動は数あれど、その圧力の前に全ての人間は足を止めるだろう。


 なれば、それを受けてなお一切の感動を見せぬ緋色の少年の心中は――――はたして人間と呼べるのだろうか。


 見果てぬ圧力を称えた狼人の猛進。万感の感情を発露する殺人鬼の一手に―――プツン。

少年は両手首に並ぶ五連のボタンを外した。

 スラリ。固定されていた鞘袋が外れ、五指全ての刃が晒される。

――――反り浅く鋭角な刃、見せる印象は凶器。

野外作業や護身のためでは決してありえない、『五指全ての爪』に代替されるその刃はまさに獣の爪。狩猟者が狩猟者たる由縁、殺戮すらも己の形に内包するその武器は、まさに狩猟者のためにだけ存在する武具だった。

 猛進する殺人鬼、対する狩猟者は両手と五指を広げ相対する。

 意図は互いに明白、猛進し高速を持って致命し燃焼させる腹積もりの狼人、猛進の間隙を突き殺傷する計略の狩猟者。狩るか狩られるか、二者択一の選択は今ここで『先々の取り合い』という単純明快な作法を持ってなされることと成る。

 確実な先々のため、狼人の手中から火炎瓶が投擲される。必中には十分の間合い、女性の腕力という点から鑑みれば高速、しかし戦闘という点においては不足を有する投擲は容易に狩猟者の左の刃に切り抜かれた。鋭い破音。刹那、狩猟者の肉体が脈動する。地の圧縮を幻視するほどの踏み込み。応じる玲奈は右の一閃。加速の勢い全霊の狂気、すべての籠った呪怨の一撃。命中すれば致命を約束する一閃、が、狩猟者はそれに応じる愚は犯さなかった。

 高速での踏み込み、その勢いのまま身を跳ねあげて獣の如く狩猟者は跳躍する。致命の呪怨は狩猟者の脚を掠め、踊る緋衣は玲奈の上に。

 跳躍の最中、放たれた爪の一閃が玲奈の長髪をフードごと切断する。はらりと宙に舞う長髪。斬られた、と感覚する暇すらない。ただの本能が玲奈を振り返らせる。跳ね上がる右のナイフ、迎え撃たれる狩猟者の左爪。

「――――――ッ♪」

 高揚が示す反射が玲奈に行動を取らせた。バックステップ、ウェストポーチから火炎瓶を抜き出し投擲、迸る衝動にただ身を任せ、そのまま後転倒立を繰り返して距離を取る。もはやその動きは常人には予測不能反応不可、一つの歯車と化したかのような挙動で稼いだ距離を、獣そのものの動きで玲奈は二度猛進する。


 ――――そして、その瞬間。

 向郷玲奈という名の狼人は、己の敗北を知ることとなる。


 猛進の眼前――――筋肉の疲労も体力の限界も知ることがない狂気の行動の突端、そこに見たのは一つの瓶。

 視線を切るという愚行、そのうちで生じていた行動を玲奈は知らない。

 投げつけられた火炎瓶、割れやすく捉えがたいその瓶を、在ろうことか狩猟者は爪を晒したままの自らの手で掴み取り、距離を取り終えた玲奈目がけ、投擲した。

 ………最大の元凶は、玲奈の認識の相違。

 狩猟者の爪は獣の形を体現するための異形ではなく、あくまで人として人の外側たるためのモノであり、そのモチーフは獣ではなく『悪夢』。燃焼を乗り越え悪魔と契り、悪魔と相成ったエルム街の悪夢、人の形をした人外こそが、狩猟者たる少年の形である。

 故に、その基本の動きは獣たる玲奈とは真逆の『人』であり、

 故にこそ――――その動きは人としての反撃を可能にする。


 猛進する玲奈の半身で液体が爆ぜる。

「あ、ああああぁぁあぁあぁっっ!」

 身を焼かれる。濃硫酸が肉体を焼き焦がす。肉体から煙が上がり、衣服のこすれが激痛を生じる。

 だがそれでも――――玲奈は止まらなかった。

 まだ終わりではない。特殊軍用火炎瓶は発火までに時間を要する。身はまだ動く、目はまだ見える。獲物はまだ眼前にいて、自分はまだ相手を殺しうる。

 そうだからこそ――――玲奈は止まれない。

 求める物は自己証明。幾多の家を焼き、数多の人間を殺傷し欲得によって凌辱を繰り返した己の欲した最終極致、否定を否定するその行為。自らを殺害せんとする者を殺す――それこそが自らの望んだ最後の行為。

「うああああぁぁあぁぁあぁぁあぁっ!」

 咆哮は痛みではなく鼓舞の叫び。立ち塞がる障害を跳ね除けんとする生涯を賭した行為への扇動。

 乗り越える――――乗り越えて、肯定を得る。

 そうすればきっと、玲奈は――――

 殺戮と否定に生きた、自分は――――


 交錯は、ただの一刹那だった。

 玲奈の右、狩猟者の右。獲物を捕らえるは双方。血の飛沫くは双方の肉体。確たる手応えの愉悦は双方の精神。


 そして――――硬直の一瞬が過去となる。

 狼人たる玲奈――――その爪が捉えた箇所は狩猟者の腕。

 狩猟者たる少年――――その爪が捉えた箇所は玲奈の首。


 一方、右の二の腕を鋭角に切り裂かれた狩猟者。力なく垂れ下がる腕より血を飛沫かせ、傷の痛みに顔をしかめる。

 他方、首の側面を三連に切り裂かれた狼人。大きく開いた爪痕より際限なく命を吹き出し、自己の喪失の感覚を覚える。

 ぐらり、と玲奈の体が傾ぐ。致命の一撃を受け命そのものとも呼べる血液を失いつつあるその体は、もはや死に体。せめてもの抵抗、残された力を総動員し、姿勢を変えて宙を仰ぐ。

 路地の暗がり、見える空はない。あるのは炎より上がる煙とビルの頂点。何とも乾いた味気ない空。見上げることもなかった風景は、辞世の光景としては何とも乾いている。

 その乾いた風景の中を見据える玲奈を……赤色の狩猟者は見下ろしていた。

「――――――」

 あ、と切り裂かれた喉から呼気にも似た声が漏れる。己が最期に狩ろうとした人間、己に最期を持ってきた人間、己の絶対的な肯定を求めた人間。あと一歩、もしかしたら――あと一歩であったかもしれない少年の眼は、どこか疲れていた。

 その眼に――玲奈は目線で問いかけた。自分は、どうだったか、と。

「――――、」

 ふ、とその眼に答えて少年は苦笑する。次いで右腕を抑える左手の動き。滴る血潮、動きは倦怠。よく見ればその顔にもいくつかの切り傷がある。

 それを見、ふと、玲奈は己の体の力を抜いた。


 ああ――――よかった。

 どうやら、最期の最期で、自分の望みは、叶ったらしい。


 満足を覚えた瞬間、玲奈の体が燃え上がる。燃焼開始のタイムリミット。化学反応による炎が放火と殺人を旨とした演出家を包み込み、その生涯に終止符を打ちこむ。

 ふ、と緋色の狩猟者は息をつく。辛うじての勝利、辛うじての遂行。路地裏に転がった鞘袋を五指に嵌め、器用にボタンを留める。そのままポケットに手を突っ込み――そして二の腕の傷に顔をしかめた。

「痛ったー…………まあ、なんとかなったからいいか」

 脱力した声で呟き、少年はその広場を後にする。

 豪、と背後で玲奈の肉体が爆発した。ため込まれた燃料に引火したのであろうその炎の明るみに、少年は顔をしかめる。火炎瓶一本程度ならまだしも、あの規模になれば消防も動く。翌朝にはナイフを手にし、燃料を大量に携帯した不審な女性の遺体が上がるはずだ。付近に血液を滴下させたところから、この件は手痛い反撃にあった通り魔の死という形で終結するだろう。

「無限沢も――楽じゃない……」

 ひとりごち、少年の体躯は路地の闇へと溶けて消えた。


 ――――《殺人狩猟集団・無限沢》

 それは殺人鬼を狩猟することを旨とする組織である。司法では追えず司法では捉えられず司法では裁けぬ殺人者、世を跳梁する獣に等しい存在を、その集団は狩る。

 正義ではなく家業として、事業ではなく作業として、かの組織は人を殺すのだ。

 社会の内側に存在する殺人者を狩る、社会の中に存在しない人間の価値観を捨て去った非人間の狩猟者集団、それこそが彼の集団の本質だ。

 身分も学歴も財産も、名前ですら捨て去った狩猟者たち。その中でも一人、異彩を放つ存在がある。年齢は十六、性別は男子。年若く経験未熟なはずの人物でありながら、もっとも正確で最も苛烈に作業を遂行する『《無限沢》の悪夢』の異名を持つ人物。

 名を――――無限沢野分という。


 かくして今宵の狩猟は終わり、悪夢の時間は、幕を閉じた。



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