デザイア
憂鬱だ。
今朝もいつものように溜め息をつきながら出勤した。
出勤といってもコンビニのパートに行くだけだが。
28才フリーター。無資格、実家暮らし。
こんな経歴を持っていると誰でも憂鬱になる。
毎日毎日同じ仕事の繰り返し。
家に帰っても何もする事がない。
憂鬱だ。
俺はもう一度溜め息をついた。
その日の仕事を終えると真っ直ぐ帰宅する。
「ただいま」
「おかえりなさい、ご飯出来てるわよ」
母親が優しく返事する。
俺が就職に失敗し挫折してからというもの、母親は妙に優しくなった。
ーあなたのやりたいようにやりなさいー
その一言を最後に母親からの助言はなくなった。
父親はというと、こちらも既に諦めているのか何も口出ししてこない。
食事を終え、風呂に入り自分の部屋に上がる。
兄弟はいない。
ベッドに仰向けになり天井を見上げた。
何もする事がないな…。
違う。
する事がないのではなく、何もする気が起こらないのだ。
(昔はもうちょっと頑張ってたよな)
そう思いながら部屋の片隅に放置されているギターを眺める。
学生の頃に必死になって練習したギター。
結局才能の芽が出ず、もう10年近く手をつけていないが、あの頃は楽しかった。
もっともプロを目指すなんて大それた事は考えていなかったが、せめてもう少し上手くなりたかった。
もう一度頑張ってみようかな・・・。
「ふっ。何考えてんだか。」
バカバカしい、今更頑張ったところでどうするというのだ。
俺は横になり目を閉じた。
次の朝。
俺は目を疑った。
・・・俺がいる。
ドッペルゲンガーとでもいうのだろうか。
駅前の広場で俺と全く同じ顔をした男が座っている。
ギター片手に歌を歌いながら。
・・・何かすごいヤダ。
まるで自分がギターを弾いている姿を鏡で見ているかのようだ。
(・・・それにしても下手くそだな。)
俺は胸にわだかまりを残しながら仕事へ向かった。
そいつは次の朝もそこにいた。
次の朝も、その次の朝も。
次第に俺の中に何かが芽生え始めた。
数ヶ月後俺はギター教室に通い始めた。
自分でもくだらないと思うが、その日から少し生きるのが楽しくなった気がした。
とにかくこれで家に帰ってからする事が出来たわけで、時間を持て余す事もなくなった。
しかしそんなある日。
ギターの練習をしている時に突然両親が部屋に入ってきた。
「少し話がある・・・。」
そう切り出した父親の話は、俺に将来について真剣に考えろというものだった。
いつもは寡黙な父だが、この時は熱く語りかけてきた。
俺は何も口を挟まず黙って聞いていた。
「私達はあなたの事を本当に心配しているのよ……」
そう言い残し二人は部屋を出ていった。
(何で今更そんな事言うんだよ…)
俺はベッドに仰向けに寝転がり天井を睨んだ。
両親の気持ちは痛いほど分かる。
分かるからこそいたたまれないのだ。
友達には夢を叶え大企業に就職した奴もいるし、結婚して幸せな家庭を築いている奴だっている。
(俺にだって夢はあったさ…)
俺は幼い頃から教師になる事が夢だった。
大学生の頃は教師を志し死ぬ気で勉強していたものだ。
それが採用試験に5回も落ちてしまって以来挫折してしまった。
今更やり直せるわけがない。
いろんな事を考えている内に俺は深い眠りについた。
次の朝。
また出勤途中に奇妙なものを見てしまった。
・・・俺がいる。
数ヶ月前にも同じ事があったが、今朝のそいつはギターを持っていなかった。
その代わりにジャージを着て大勢の子供を引率している。
教師だ……。
向こうは全く俺に気付かずとおりすぎていった。
俺はまたしても違和感を覚えながら仕事に向かった。
そいつは次の朝も俺の前に現れた。
その次の朝もまたその次の朝も…。
再び俺の中に熱いものが芽生えた。
現在俺は教師として働いている。
あのドッペルゲンガーの教師を目にして以来、もう一度教師を目指して二年間必死で勉強した。
この歳で採用が決まったのは奇跡のようなものだがついに俺は夢を叶えたのだ。
長かった。本当に長かった。
ギターの方も毎日練習を続け、なかなかの腕前になった。
今度の修学旅行でキャンプファイアを囲みながら子供たちに聞かせてやるつもりだ。
えもいわれぬ充実感に胸を膨らませながら、隣を歩く女性に目をやる。
彼女が俺にもう一つの充実感をくれた。
同じ職場で働く彼女。
決して美人ではないが、優しく気の利く素敵な女性だ。
一年前から交際を始め、苦楽を共にしてきた。
俺は今日結婚を申し込む。
この人となら一生を共にしたいと本気で思えるのだ。
指輪も買ったし、今夜は高級レストランを予約してある。
きっといい返事がもらえるはずだ。
大きな期待と少しの緊張を胸に俺は彼女の手を握る。
わずかに顔を赤らめ彼女がうつむいた。
幸せを噛み締めながらふと前を見ると、あいつが歩いていた。
妻と子供を連れて幸せそうに笑いながら。
不意にそいつが振り向き俺にウインクをした。
俺の心に爽やかな風が吹いた。