第四話 『赤く染まる雪 中編』
「おおおおおおお!」
「せっやりゃああああああ!」
白く染まった山林の中、二頭の赤い獣が雄叫びで謡い、手にした鈍器で奏で合う。
戦いを祝福するバトルソングは、戦う者自身が紡ぐのが伝統だ。
演奏者は二人。それぞれの楽器が鈍く光る。
一人は鎚、もう一人は大剣。
剣と言っても刃は潰され、叩き潰し、断つことを目的としたそれは、剣を模した金属の塊だ。
己の音色に迷いなく、獣――二人の亜人が咆哮を上げる。
凶器が空を切る音は猛禽の嘶き。ひゅうん、きゅうんと鳴り続ける。
鈍器がぶつかる瞬間、雪崩を起こすような轟音が響く間もなく、攻守入り乱れた連撃が前の音を追い、交錯する。
がぁん、ごぉんと一拍ずつだったはずの音は、ゴギガギゴゴ……と間隔を失い、いつしか和音となる。
それは武「術」などではない。
速度と重さだけが全てを決める、純粋な力のぶつかり合い。
技という歴史に磨かれた伝統は、どこにもない。
ある流派には、手首を返し円の動きで無駄を削ぎ、攻撃の速度と鋭さを増す「奥義」がある。
別の武術には、虚実を交えて翻弄する「秘技」がある。
今、彼らの戦いにその「奥義」「秘技」と同じ動きが確かに含まれている。だが、二人はそれを「技」とすら認識していない。
ただ、より早く、より鋭くを求めた結果、円の動きになっただけ。反射的に好機を捉え、避ける動作が虚実を生んだだけだ。
その瞬間、最適だと感じたから。
最強を求め研磨するのが「技」なら、「最強」の一手が「技」と一致するのは道理だ。
二人の「最強」は一合ごとに、誰かが辿り着いた奥義を使い――その瞬間に忘れる。
技が必要なら、またその瞬間に「思いつく」。
戦いに型はない。故にすべての武術に通ずる。
それが、「最強」の一角、夜叉族の戦いだ。
最強同士の戦いに、矛盾はない。
なぜなら、最強の「矛」と最強の「矛」の戦いだから。
決着は、使い手の純粋な力の差で決まる。
ぐぁぁぁん、と一際大きな音が、歌劇のフィナーレを告げる。
鎚が大剣を斜めに打ち抜き、衝撃に耐えきれず、受け手は得物を握ったまま体ごと吹き飛び、樹々をなぎ倒し、雪を纏いながら斜面を転がる。
「ぐっ……がはっ!」
木々に激突した瞬間、本能的に頭を丸め急所を庇ったが、首と背骨がみしりと内部で音を立てた。
夜叉族の鋼の体でも、常人なら確実に致命傷だ。
頚椎や視神経を破壊されれば、まともな生は送れまい。
だが、彼は倒れたまま目を閉じ、すぐに立ち上がる。
ぎしり、みしりと鈍痛が響くが、「この程度」なら一週間で全快する。
事実、倒れた瞬間、切断されたはずの脳と体の命令系統が、僅か「3秒の睡眠」でぴくりと反応し始めたのだ。
夜叉族の恐ろしさは武力と耐久力。そして何より、生命力と回復力だ。
もっとも、それは安静にしていればの話だ。
他種族ならどうにでもなるが、同じ夜叉族との戦いでこの深手はすでに致命傷だ。
力、速度、すべてが2、3割落ちた今、五体満足の同族と激突すれば、防御に徹しても一瞬で決着がつく。
防御に徹したところで、時間を引き延ばすだけで結末は変わらない。
互いが最強で互角の矛だからこそ、僅かでも天秤が傾けば決着は確定だ。
ざ、ざ、と雪を踏む音が、負傷した夜叉族の青年に聞こえる。
最大の好敵手であり親友。夜叉族の最強の一人とされる者。
彼が、自分の止めを刺しに来る。
「……勝負は付いた。俺の負けだ」
刃の半ばで折れた大剣を構える敗北者。
決着は付いた。紛れもない事実だ。
自ら敗北を認めつつ武器を構えるのは、「戦闘」が終わっていないからだ。
戦いを神聖視し、結末を尊ぶ夜叉族は、決着がついても最後まで戦うことを誇る。
たとえ「詰み」で10手で敗北が確定しても、その10手を刺し切るのが彼らだ。
だから、親友が鎚で命を奪うことを、夜叉は受け入れる。
なぜ親友が夜叉族を裏切ったのか、未だわからない。
知りたくてたまらない。
だが、俺は負けた。
もう、いい。
最後の瞬間まで夜叉族として死のうと、笑みを浮かべ親友を見る。
ゆらり、と鎚を振り上げる親友を見据え――なぜか、視界の隅に幼い少女の姿を捉えた。
なぜ、この処刑場に幼児がいるのか、刹那の思考が走る。
その少女が「パパ!」と叫びながら親友に駆け寄る姿を最後に――
ドスッという鈍い音と共に、痛みなく意識が閉じた。
ぱち、ぱちと火の爆ぜる音。
ざわざわとまとわりつく熱い空気。
まだ開かない目の代わりに、耳と体毛が周囲を探る。
夜叉族は、死ぬと誇り高い者ほど、素晴らしい戦いをした者ほど、業火に埋め尽くされた荒地――「辿り着く場所」で神々との戦いの権利を得ると信じる。
神々が何かはわからない。力の根源とも、命を生み出したものともされるが、神々は戦い――武に限らずあらゆる競い合い――を尊び、勝者を祝福する。
俺はその場所に来れたのか――と、肺の瘴気を吐き出すように大きく息を吐き、むくりと上半身を起こす。
目を見開き、耳をそばだて、くるりと見渡すと、そこは暖炉のある広めの部屋だった。
部屋の隅に灯るランタン――にしては光量が強く、火の揺らめきのない不思議な光源の下、若者が机に向かい一心に何かを書いている。
見知らぬ存在に、戦士の本能が動き、武具を探す。
だが、傍にはなく、武装解除されていることに気づく。
何より、大切な存在が見当たらず、素手で男を組み伏せかねないほど高ぶるが、優秀な戦士である彼は迂闊な行動が事態を悪化させると知っていた。
鈍重そうな体に似合わぬ、ゆらりと重力を消した動きで寝台から音もなく降り、拳を握り、青年に声をかける。
「もし、そこの……」
「……む?」
書き物に熱中していた青年は、声をかけられるとすぐに顔を上げる。
ぱたりとペンを置いた手を見れば、肩からもう一つの「それ」があった。
「四腕族……」
「そうだ。我が種が珍しいか、伝説の夜叉族よ」
四腕は口元を緩め、精悍な顔に「興味」を浮かべる。
息を呑んだのは夜叉だ。
伝説――四腕の言う通り、夜叉族が人間や亜人にそう呼ばれることは知っている。
だが、「神に許された者」の四腕族が、「神に見放された者」の自分を前に、嘲りも戸惑いも恐怖もなく見つめることに驚きを隠せなかった。
あの噂は本当だったのか。
だが、それだけで信頼するには、夜叉は世界を甘く見てはいなかった。
「失礼した。四腕の者よ。……俺は助けられた、と思っていいか?」
「ふむ、直接助けたのは我ではない。だが、貴殿が我らに害をなさぬ限り、支援するつもりだ」
助けられるかは保証しないが、と四腕は一対の腕を組み、もう一対で顎をさする。
その言葉が脅しでないことは、夜叉も理解した。
体力や傷は治療で癒されつつあるが、「命力」が危険なことを、四腕は見抜いている。
「最初に貴殿らを助けたのは、マカル近くの山の樵だ。我らは連絡を受けて向かったが、樵小屋では治療できぬとこの街に連れてきた。生き残れたなら、後で礼に行くと良い」
「ら」という言葉に、夜叉は目をくわっと見開き、
「そうだ! もう一人、幼い子がいたはずだ! あの子は?」
言葉は荒々しいが、巨体は不動の姿勢で問いかける――ように見えて、拳がぎりりと握られていることに、四腕は一瞬視線を走らせた。
寡黙な武人の夜叉が、最も雄弁に語るのはその目だ。
返答次第では恩人でも容赦しない、と蒼い瞳が告げる。
「安心せよ、夜叉の者よ。あの稚児は熱病にかかり――ああ、焦るな。正しい治療をすれば命に問題はない。だが、貴殿にうつしかねぬと、離れを病室とし医師に見せている。我が従者の専属医ゆえ、腕は確かだと保証する。動けるなら、すぐに案内させよう」
専属医ということは、豪族か、と判断し、夜叉は深く礼を述べ、すぐ会いたいと告げる。
四腕は「承知した」と言い、机のベルを鳴らす。
入ってきたのは、白い帽子をかぶった褐色の女。人間種らしい。
白い着物に身を包んだ姿は、肌の黒さに映え、艶やかなコントラストを放つ。
種族は違えど、明らかな美に夜叉もごくりと息を呑む。
「彼を彼女と会わせる。我も行こう」
「は。承知しました。……では、客人。まずはマスクを」
四腕に促され、女が渡したのは、白い布に糸の輪がついたもの。
何だこれはと四腕を見れば、彼も同じく口に当て、糸を耳にかける。
魔法詠唱を阻害するアイテムかとも思うが、夜叉は詠唱魔法を使えない。
この地の風習かと、同じように口につける。
「これで……いいか?」
くぐもった声で女に確認すると、彼女は無表情で頷き、
「はい。付け心地に問題は? 息苦しくないですか?」
「少し耳が引っ張られる」
「サイズが小さいようですね。申し訳ありませんが、それが一番大きく、しばらく我慢してください」
「……これは?」
「?……ああ、ご存じないのですね。これは医療用のマスクで、病気の感染を防ぐものです」
「護符にしては魔力を感じないが。これで病の精霊に勝てるのか?」
「直接的な魔法は使われておりません。病は病原菌……病の元となる毒が患者の中で増え、咳やくしゃみで空気に撒かれ、他者が吸い込むことで移ります。これは毒の侵入を制限するものです」
そんな単純なことで?と疑う夜叉に、女は淡々と続ける。
「これだけで、いくつかの病の感染者は6割から7割減りました」
見越したような言葉に、夜叉は「む」と唸る。
歴戦の夜叉族が、小娘のような女に翻弄される様は、滑稽にも見える。
だが、彼女が夜叉族――「神に見放された者」で圧倒的な戦士――を前に、ただ「客人」として扱うことに、異常さがある。
女は「失礼します」と言い、四腕と夜叉を先導する。
それだけで、夜叉はこの四腕が高位の者だと確信した。
四腕が病室を知らないわけではないだろう。
客を案内することで対等か下を暗に示すため、形式的に従者を先導させているのだ。
だが、並んで歩くのは敬意の証でもある。
高位でありながら奢らず振る舞う四腕に、恩人という点を除いても好感を抱く夜叉。
無言で廊下を進み、あるドアの前で女が立ち止まり、
「こちらで――」
言葉を発した瞬間、
「いやぁぁぁ!」
扉の奥から少女の悲鳴。
誰より早く動く夜叉。ドアを壊す勢いで開け、中を見る。
大切な、なにより大切な存在が恐怖に震えている。
その前に、小さな刃物らしきものを持ち、襲いかかろうとする痩せた男。
凶器の先が光るのを見て、夜叉は鬼神と化す。
「おおおおおお!」
吼えながら、男を拳で血肉に変えようとした瞬間、
「ぬ、ぐ!?」
押しのけたはずの従者の女が、指先から放つ緑の魔力の縄で夜叉を縛り、地面に転がす。
「動くな」
使用人の雰囲気は消え、近衛としての威厳を纏い、命令する声で女が断ずる。
「ぐ、動けぬだと? 馬鹿な! この程度の魔法で俺が……」
「まったく……夜叉族が一対一で無敵でも、『命力』を削られた状態で無理は禁物ですよ。それに、この程度とは舐められたものですね。万全でも、簡単には破れません」
魔法の反動か、白い帽子が落ち、女はやれやれと拾う。
その頭の「それ」を見て、夜叉は再び「馬鹿な」と呟く。
「その角……魔鬼族!?」
「そうですよ? それが何か?」
伝説の三柱の一つ、夜叉族。
その存在は誰もが知る。
だが、残りの二柱――天翼族、魔鬼族は、噂や伝承でしか聞かない幻の存在だ。
「神に許された」天翼族は、フェリスの在り方を受け入れず(フェリスでは環境変化で絶滅したとされる)、数百年前に隠れるように消えた少数種族。
「神に見放された」魔鬼族は、「神敵」に近く、夜叉に勝るとも劣らない魔法の力を持つとされる。
どちらも生き残っているか危ぶまれる二柱。その一つがここにいる。
だから、彼女は動じなかったのだ。
油断した自分を簡単に縛れる自信があったから――。
悔やんでも悔やみきれない。目の前で大切な子が蹂躙されるのを、成す術なく見るのか――
「おじちゃん! おじちゃんをいじめちゃ駄目!」
とてとてと走り寄り、夜叉の前で手を広げる少女。
逃げろ、逃げろ!と必死に叫ぶ夜叉。
「……えーと、私、何か悪いこと、しました?」
所在なさげに注射器を持つ、うろたえた白衣の医師が一人。
「うつけめ」
四腕がぽつりと呟く。
「すまぬことをした」
「反省しろ」
押し問答の末、誤解が解け、注射の説明と少女をあやしながらの投薬が終わったのは、時計の長針が半円を進んだ頃だった。
夜叉の謝罪に、四腕は容赦なく切り捨てる。
だが、はっきり言いながら嫌味がないのは、本音であり、攻め立てる意図がないからだろう。
「だが、大切なものを守りたい心は、どの種族でも変わらぬ正しいものだ。貴殿がその心を持つことは、先ほどの件でわかった。ならば、信頼できる御仁だろう」
病室の中央の机を挟み、四腕と夜叉が向き合う。
魔鬼族の女は、茶を注いだ後、四腕の斜め後ろに控える。
医師から「感染する病ではない」と全員マスクを外している。
「ところで、事情を聞いてもいいか?」
茶をすすり――香りに夜叉は驚いたが――四腕が話を切り出す。
「その前に、失礼を承知で聞きたい」
「ふむ? 構わん。『答えられる』ことなら『応える』」
「この国では、俺のような『神に見放された者』に、皆お主のような反応か?」
「多くはそうだろう。だが、全てとは言えん。我が国にもフェリスの影響はある。意識は変わってきたが、わだかまりや良く思わぬ者もいる。……だが、いきなり刃を向けるのは狂人以外いないと断言する。貴殿のような『伝説』が現れれば、狼狽はするだろうがな」
貴殿が我が従者を見て驚いたようにな、とくすくす笑う四腕。
「少なくとも、我と我が周りの者には、『そんなこと』はどうでもいい。『神に見放された者』、『異端』、『神敵』だろうと関係ない。我らを害する聖なる存在より、共に生きる邪の存在を友と呼びたい。それほど不可思議ではないだろう」
なあ、と従者に声をかける四腕。
魔鬼族の女は「当然です」と無表情で応えるが、どこか嬉しそうに見えるのは夜叉の勘違いではないだろう。
「神に見放された者」で神敵に近い存在を従者にする若者――長命種ゆえ実年齢は上か――を見て、夜叉は「最大の好機だ」と計画を修正する。
「お主はこの国でかなりの地位を持つ御仁と見受ける」
「……ああ、まあ、そうだな」
「命を救われ、厚かましいと承知! だが、頼みたいことがある。代価が必要なら、俺にできることなら何でもする。命が必要なら差し出す」
「聞こう」
「あの子を守って欲しい」
「あの――人間種の子を?」
「そうだ」
夜叉と共いた少女。
確かに人間種だ。夜叉族と共存するのは、土小人族や雪樹族。
異端の人間種がマカルを超えていないとは限らない。極寒で生き残るのは難しいが、可能性はゼロではない。
だが、不思議なのはそこではない。
「……話が見えん。保護するなら、我でなくてもいいだろう。貴殿のことだ。良い暮らしをさせるため高位者に預けたい、というわけではあるまい?」
「あの子は――」
夜叉は一度言葉を切り、
「『神敵』なのだ」
ぴくり、と四腕の肩が動く。
魔鬼族も、わずかに目を大きくする。
「ふむ、それはどういう……いや、待て。先に聞こう。なぜマカルを超えてこちらに来た? 貴殿の国なら、人間種が生きるのは困難でも、『神敵』とされる危険よりマシではないか?」
「……あの子は神敵で――災厄の魔女だからだ」
災厄の魔女。
その言葉に、四腕は「そういうことか」とため息をつく。
「つまり、あの子は――夜叉族の親から生まれた人間種だな」
フェリスの指定した神敵は二人。
その一人が、夜叉族に伝わる「災厄の魔女」だ。
はっきり言おう。
この「神敵」認定は、もう一人の神敵とは違い、フェリスの権威保持のための生贄だ。
数百年前、一人の少女がある魔法を使った。
「癒し」の魔法。
人間種や「神に許された」亜人の中でも優秀な者だけが使える秘術。天翼族が特異とする術だ。
その術は天性でしか使えず、使える者はフェリスに選ばれたと信仰された。
癒しを使う者に天翼族以外は決まった刻印が現れることも、信仰を強めた。
その少女ももてはやされ――両親が夜叉族と判明した瞬間、断罪された。
「神に見放された」夜叉族から生まれた人間種。
それは夜叉族と交わった人間がいた証であり、それだけで忌まれ、癒しを使ったことはあってはならない。
それを認めれば、「癒し」とフェリスの関係が崩れるからだ。
当時の法王らは宣言した。
この存在は「神敵」で、敬虔な使徒を惑わす「偽」の聖者だと。
粛清は少女だけでなく、庇う両親、縁者、援護者に及んだ。
戦士の夜叉族は、使徒軍に数倍の被害を与えた。
だが、「戦士」であっても「軍人」ではなかった。
絶対数の差、社会基盤の欠如、女子供を守るため、彼らはマカルに逃げるしかなかった。
「戦」で負けた彼らは、勝敗の掟を受け入れ、迫害そのものに恨みは持たない。敵対した人間や亜人を恨まない。
だが、「災厄」の存在は別だ。
「夜叉族同士に生まれた人間種の女子で、刻印を持ち癒しを使える存在。それが災厄の魔女」
確認するように四腕が言う。
「そうだ。『こちら』でも『むこう』でも、石を投げられ、罵倒され、命を狙われる……それがあの子だ」
砕けんばかりに歯を食いしばり、ぎりぎりと音がする。
「だから、俺はあの子を連れてこちらに来た。土小人の商人から聞いたアフェバイラの話を信じて。『神に見放された者』でも受け入れるという、甘い噂を希望に」
すぅすぅと寝息を立てる少女を見て、夜叉はうつむく。
「同志から、アフェバイラの王は神敵でも受け入れるかもと聞いた。本来は命をかけて王に謁見するつもりだった。だが……噂より、俺は自分の目を信じたい。頼む。俺の命、命より重い誇り、すべて投げ出してもいい。あの子をここで守って欲しい」
夜叉は四腕の前で手を突き、額を床に擦りつける。
「贅沢も甘やかしもいらん。あの子が愚鈍に生き、怠け、行き倒れても見殺しでいい。ただ、理不尽な罵倒や虐げから守って欲しい。……俺は、あの優しい子が一生懸命生きるだけで罵られるのが耐えられん。それを望み、友を見捨て、マカルを超え、アフェバイラを目指した。王でなく、他でもないお主に、どうか!」
慟哭のような独白が終わる。
静まった部屋に、暖炉の炎と少女の寝息だけが響く。
「その頼み、聞けぬ」
絶望の鎌が、四腕より振り下ろされる。
「そう……か」
どこかで、そうなるだろうと思っていた。
甘すぎた判断を後悔しつつ、少女を守ることは諦めない。
「無理を言った……済まん。だが、あの子が回復するまではいさせてもらえんか?」
「ああ、構わん。だが、条件がある」
「条件? 金なら、宝石を持ってきた。お主が満足するほどではないが……」
「たわけ。品など欲しくて助けたわけではない。我はまだ貴殿の名を聞いていない」
む、と夜叉は唸る。
怒涛の出来事で失念していた。恩人に非礼すぎる。
無理難題は冷徹に拒否したが、この四腕の本質は良きものだ。
助ける代価は「品」ではなく「礼」。
利益なく、災厄たる自分たちを一時的に守ってくれる。
ここで名乗っても、根無し草の自分には困ることはない。偽名も使える。
夜叉はすっくと立ち、四腕の目を見据え、堂々と宣言する。
「失礼した。俺は夜叉族の戦士、オアド。後で本人にも述べさせるが、娘の名はモニン。しばし世話になる。俺とモニン、共にこの恩を忘れぬため、お主の名を刻みたい」
手を差し出すオアド。
そこには、敬意と信頼だけがある。
四腕はそれを見て、ニヤリと笑い、
「アノン・カーター・テイ・オーウ・アフェバイラ。長ったらしいから好きに呼べ。この国の前王の第三子にして、今は正式に王をやらせてもらっている」
四腕――アフェバイラ王の言葉に、マカル山脈すら耐えた肉体がピシリと凍りつく。
その様子を、隣で見ていた魔鬼族の従者が、
「シトリーです。……まあ、頼む相手が王なんですから、王に頼まないってのは無理ですよね」
無表情が仮面だったかのように、くすくすと笑顔で呟いた。
「わたしは、ただ、皆と笑っていたいだけだった」
「俺は、ただ、あの子に笑っていて欲しかった」
純白の思いを、後悔の血が汚すとき、世界は残酷な顔を見せる。
「この国なら、神敵や災厄の魔女でも普通に生きていけるかもしれない、か。……甘いな。本当に甘いのだな、オアド。それは、いくらなんでもこの国を甘く見すぎている。どうしたって――その少女という、犠牲は必要なのだよ」
次回、お楽しみに